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 『ガンダムSEED DESTINY スペシャルエディション 砕かれた世界』が仙台では放映されないのにふてくされてちょっと書いてみた。
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 世の中には、創り手が主観的に登場人物にどっぷり感情移入して登場人物に引っ張られて創られていく物語と、創り手がある程度客観的に登場人物を配置してそれぞれに役割を与えて動かして創っていくタイプの物語とがあり、また、世の中には登場人物に主観的にどっぷり感情移入して物語を楽しむ視聴者と、ある程度客観的にそれぞれの登場人物の役割なんかを考えながら俯瞰的に物語を楽しむ視聴者とがいます。

 無印SEEDが終わったころの何かの雑誌のインタビューで福田監督が「イザークがこんなに熱いキャラになるとは思わなかった」なんて語ってる例外もありますが、そんな一部の例外を除いては、またあるインタビューでは「登場キャラにはあらかじめ大まかなそれぞれの物語が決まってる」なんて語っていたことがあったように、ガンダムSEEDシリーズは明らかに後者の役割付与型のスタンスで創られた物語であり、どちらかというと後者のある程度客観タイプの視聴者に優しい作品です。

 なんで、主観的に登場人物に感情移入して見るタイプの視聴者にはツライ部分もあったんじゃないかなぁ。特に段々と本当の想いから離れていってしまい迷走するシン(回収されるのは「最終回」)、理想に空回って綺麗事を言うことしかできない、泣くことしかできない前半〜中盤のカガリ(回収されるのは「第40話」)辺りに感情移入して見てしまった視聴者にはツラかったんじゃないだろうか。視聴者がいくら感情移入しても、視聴者とキャラがシンクロして大活躍してカタルシスをもたらしてくれるなんてことありませんからね。シン、「第12話」とか「第18話」とか、一見活躍してる話でも必ず疑問符が残るような描き方をされてますからね。

 しかしそれはしょうがないのです。それがシンに与えられた物語上の役割だから。物語上の役割にそって不燃のまま語られる主人公を楽しめない前者タイプの視聴者は、他の沢山ある視聴者と主人公が主観的にシンクロして楽しめる作品を見ればいいのです。

 その点を踏まえた上で、役割付与型の物語も楽しめる視聴者向けの話になりますが、それではSEED-DESTINYにおけるシンに付与された役割というのはなんだったのかというと、ずばり、前作無印SEED時のキラのifだと思います。

 キャラ造形の初期段階では基本的に前作のキラと同じ場所に立たせて(キャラデザも似ています)、そこからいくつかのパラメータを前作のキラとは逆方向に入れて始動させ、物語を引っ張らせた主人公、それがシンです。その結果物語の途上では様々な面でキラと対比構造を形成し、クライマックスでは対立という形で配置される主人公になっています(「シンとキラの対比一覧」など参考)。

 で、具体的にどういうパラメータをキラと逆に入れられてシンが物語に投げ出されたかというと、色々あると思いますが、主には、

1.シンは物語冒頭から戦う動機を持っていた/キラは物語冒頭では戦う動機を持っていなかった

 ……と、

2.シンは物語途中でシンをYESと言ってくれる登場人物に引っ張られていく/キラは物語途中でキラにNOを突きつけた登場人物を前にしてカテゴリから離脱する

 ……の2点だと思います。

 まず、1の方ですが、物語冒頭でシンは戦争被害者ゆえに力を求めるという形で、最初から戦うことに積極的だった、一方でキラは無印SEED冒頭では完全に巻き込まれ型の主人公で、戦うことにはまったく積極的ではなかった。こう、最初にパラメータを逆方向に入れておいて、そこから始まるそれぞれの主人公の物語がどう違ってくるか?というのが一つのDESTINYの見所でした。

 そして、もう一つそのように始まった対照的な主人公二人の物語に、中盤で転換点をもたらす場面に生きてくる形で、それぞれ別方向にパラメータのギアが入れられています。それが2です。

 これはDESTINY終了後間もないアニメージュでの脚本の両澤千晶さんへのインタビューなんかでも語られていたことですが、シンは基本的に自分にNOを突きつけるアスランなんかには反発して、自分をYESと言ってくれるレイや議長の方に引っ張られていくんですよね。レイの「お前は間違ってない、言ってることも正しい」しかり、議長から贈られる勲章しかり、「力」しかりで。一方でキラは前作34話付近のラクスとの対話にて、ラクスのコノテーションに潜ませた言葉責めに合い、強くNOを突きつけられる(「キラが戦ってきたのは戦争だったからしょうがなかったのでしょう」という表面上の言葉に「あなたは戦争だからとカテゴリに依存して人を殺してきたのですよ」という含意を含ませて糾弾する例のシーン)。そしてそこでNOを受け止めて、カテゴリ依存から離脱して、それこそフリーダムに理想を追求していく道生き方に入る。ここが物語上のターニングポイントでうまく二人の生き方、その後の物語を分けた、初期から設定されてたシンとキラのパラメータの違いです。

 この物語のターニングポイントの後、シンはYESと言ってくれるレイや議長の言葉に引っ張られる形で本当の想いを大儀(悪いオーブを討て、平和な世界のために敵を倒せなど)にすり替えられ、カテゴリに引っ張られる形で迷走していく、一方でキラはYESと言ってくれる人が少ない中、全世界を敵に回してでもカテゴリに依存せずに自分の理想を追求していく。

 このパラメータの異相に導かれた二人の対照性が物語後半部で顕著に出てるイベントが、前作、今作のほぼ同じ話数で描かれる、迷走を始めたシンは復讐の連鎖を全うしステラの仇とキラを倒し、理想を追求するキラは復讐の連鎖を断ち切りエルの仇であるイザークを生かすという場面でしょう。

 ただ、間違って欲しくない部分として、これはシンが反面教師でキラが正義だという話ではまったくないということです。上述したアニメージュのインタビューで「キラが本当に正しかったのかを視聴者が考えて欲しい」と両澤さんがコメントしてるのを引用するまでもなく、「第23話」でのわざと後味の悪く演出されたフリーダムによる戦場鎮圧の残留演出、「第24話」冒頭でのキラのタンホイザー破壊によって出た犠牲者の描写、「第28話」でのフリーダム悪人顔演出などで、理想を追求する姿も視点を変えれば悪にも見えるというのを至るところで作中で描写していたというのは、このブログの感想では何回もふれてきた所です。DESTINYは正義相対の物語で、その両翼に基本は同じなんだけど異なるパラメータにギアを入れられたシンとキラがいて展開される物語だということを踏まえて頂けたら嬉しいと思います(本当はその真ん中に位置するアスランが超重要人物なんだけど、今回はそれには触れず)。

◇シンの主人公度が低い?

 ファーストOPの夕日カットのシン、キラ、アスランの3人に、この3人の邂逅時に必ずなされる夕日演出、第1クールの明らかなアスラン視点、アイキャッチやEDでのメインはキラ……などの事実から、うちのブログでは放映序盤からDESTINYはシンだけが主人公じゃなくてシン、キラ、アスランの3人が主人公なんだということを言ってきましたが(最近の「ニュータイプ」のスペシャルエディションにまつわる福田監督のインタビュー記事で、この意図は制作者サイドとしても正しいというのは確認済み)、まずその点も理解できずにシンが主人公じゃないじゃないと連呼してるコメントは論外として、うちのブログのコメント欄で多かったのは三人主人公にしても、シンが冷遇されているという意見でした。

 これは、キラとアスランには無印SEED時のまるまる50話分のバックボーンがる分、どうしてもシンがバックボーンの部分で負けている=バックボーンが対等じゃないという意見はまったくその通りですが、冷遇というとちょっとそれは違うかなというのは僕の私見です。確かにシンは上述したような役割を付与された主人公なので強いカタルシス場面なんかはないんですが、DESTINYの物語全体の中で最後まで物語を引っ張って貰ったのはシンでした。その点でやはりDESTINYの今作主人公としての厚遇は十分に受けていたキャラだったかなというのが僕の見たシンです。キラ、アスラン、カガリ、ラクスの前作組は、今作では3クール終盤〜4クール序盤で物語がほぼ完結していたのに比べて、シンの物語は最終回のラストシーンまで引っ張りました。これは厚遇といって良いのではないかと。

 前作組の物語は、様々な理由で戦うことを忌避していた前作のメイン4人が、それぞれに再び戦いに立ち上がるまでの物語です。今作序盤では前作ラストで追った傷から隠居していたキラが、一度敗北しても再び理想を追求し続けるために戦い続ける決断をくだすまでの物語(「第39話」)、あせりからプラントにおもむきセイバーに搭乗するも迷いゆえに戦いきれなかったアスランが、それでも自律選択でジャスティスに乗ることを決めるまでの物語(「第42話」)、父の死という前作でのトラウマから極端に力を忌避するようになって理想にだけ空回ってたカガリが、戦わなければ守れないものもある現実を受け止めて再び力を取りアカツキに搭乗するまでの物語(「第40話」)、前作ラストの「やはり間違っていたのかも」の何もできなかったラストを受けて、前作の超越者ポジションから下ろされ今作では行動することに逡巡していたラクスが、最終的にはミーアの死を受けて再び戦うことを選択するまでの物語(「第46話第47話」)……という感じで前作組に関しては終盤ではありますがわりと早めにそれぞれの物語に決着がついていたのに対して、戦うことを忌避していた前作組とは逆に戦うことに積極的だったシンは最後にどうなるの?という牽引力で最終回までシン物語は引っ張られたんで、やっぱりシンは物語上は厚遇された主人公だったのではないかと。

 最終的には、最終回の最後の最後で、シンは自分の本当の想いは大儀に導かれた「悪いオーブを倒せ」「平和のために敵を倒せ」にあるのではなく、家族や、あるいはステラと過ごしたもう戻らない優しい時間にあることにかすかに気づきます(一部上述のアニメージュインタビューより)。そして撃たれなかったオーブを見てルナマリアの膝でただ泣き続けるラスト、二人の眼前の宇宙に上がっていく停戦の信号弾……このシーンは好きです。

 そして、「FINAL PLUS」のラストシーンにて、自分の本当の想いに微かに気付いたシンはあれだけ憎んだキラの手を取ります。戦いの忌避から戦うことに辿り着いた者と、戦いを是とする所から本当の大事なモノに辿りついた者の和解。真逆のパラメータを付与されて物語に投げ込まれ、対照、対立した二人でも、本当の想いの部分では繋がっている部分があった、だとしたら、どれだけ対立しても、違う存在だとしても解り合えるかもしれない……という無印SEEDから続く「理解」に帰着するラスト。全てはこのラストに辿り着くためにシンとキラに役割を付与して走らせたDESTINYは、やはり面白いと思うワケです。ナチュラル−コーディネータ、地球軍−ザフト軍……という分かりやすいカテゴリ間対立からそのボーダーを無化しての「理解」に辿り着くまでを描いた無印SEEDに引き続き、今まで書いてきたような真逆のパラメータから始まる様々な違い、対照から生まれるより込み入った対立を乗り越えて「理解」に辿り着くまでを描いたこのガンダムSEED−DESTINYも、やはり僕の好きな相互理解ものの自由演技作品の一作として、愛すべき作品なのでした。

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