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 惨劇の犯人名だけが知りたいなら、ここにその解がある。
 惨劇の舞台裏だけが知りたいなら、ここにその解がある。
 でも、もし。
 そんなことよりも知りたいことがあるならば。
 「ひぐらしのなく頃に解」ここにその解がある。


 『ひぐらしのなく頃に解-目明かし〜祭囃し編-』のパッケージの裏にあるキャッチフレーズですが、犯人名、舞台裏が既に「皆殺し編」で明かされているのに対して、最後の「祭囃し編」で明かされたのは、全話に共通して伏せられていた、この『ひぐらしのなく頃に』という作品に込められた「テーマの解答」でした。
 以下、「祭囃し編」までの完全ネタバレを含む、「そんなことよりも知りたいこと」が今一つ咀嚼できなかったひぐらしユーザーに送る、解の解のお話。
 「祭囃し編」で明かされる、『ひぐらしのなく頃に』という作品のテーマの解は、裏山での戦闘が最終局面を迎えてから着地するまでのファイナルクライマックスでこれでもかと描かれているように、「ババ抜きではなく、ジジ抜きのような世界のあり方はあり得ないのか?」ということだと思います。

 作中で語られる、何か問題が起きたときに必ず責任者/罪人を仕立て上げてつるし上げることでバランスを保とうとする現代の社会、竜騎士07氏がスタッフルームで解説してるように、常に「敵」を作り続けることでしか団結できない現代の世界情勢/現代のバトルもの創作作品。そういう何もかもジョーカーに押しつけて攻撃することでしかバランスを保てないババ抜き的風土に対して、そうじゃないジジ抜き的世界はあり得ないのか?と疑問符と希望を提示してるのがこの『ひぐらしのなく頃に』という作品なのだと思います。

 雛見沢症候群という作中病に表象させられているのは、そういった「敵を作り上げて疑心暗鬼に盲信してしまう恐ろしさ」なのだと思います。最後に明かされるファイナルテーマと連動していた、作中のネガティブ要素がこの雛見沢症候群だったのですね。

 そして、このルールXこと雛見沢症候群/敵を作り上げる疑心暗鬼……がネガティブ要素だと捉えられるからこそ、バトルもの作品風に言えばラスボスにあたる小此木と最後に対峙するのが、主人公の圭一ではなく、魅音だというのが合点がいきます。超常の存在である梨花ちゃん、羽入を除く部活メンバーの中で、唯一全ての世界において雛見沢症候群に取り憑かれなかったのが、魅音だった。

 「鬼隠し編」にて疑心暗鬼に陥りレナや魅音を敵に仕立て上げて撲殺した圭一、「祟殺し編」にて北条鉄平を敵にしたてあげて撲殺し、また最後まで敵をつくりあげて呪い続けた圭一、「綿流し、目明かし編」で疑心暗鬼のまま園崎家を敵に仕立て上げて同族を殺害していく詩音、「罪滅し編」で間宮リサ、北条鉄平を敵にして殺害するレナ(レナに至っては印象的に母親とその婚約者を「敵」として認識していくことで自己防衛しようとする心理描写も描かれています)、沙都子に至っても、「祭囃し編」では両親を敵に仕立て上げて突き落としていた、雛見沢症候群の患者だったことが明らかにされています。

 だからこそ、最後に小此木を圧倒し、「部活の罰ゲームが好きだ」と語ってこの作品を締めくくれるのは魅音だけだった。小此木でさえも敵だとして殺害するようなマネをせず、合気道で掌握しながら最後の雷鳴の中で一瞬だけ魅音が悟ったとされる事柄もおそらくはそういうこと。一瞬の雷鳴の後、魅音だけが雛見沢症候群に捕らわれなかった理由が明かされます。魅音は部活の罰ゲームが好きだった。敵/ジョーカーを作りだして敗者に陥れることでしか整合できない世界ではなく、敵/ジョーカー/敗者になったとしても罰ゲームで笑って楽しみあえる部活が好きだった。だからその部長であることに誇りを持っていた(魅音の部長であることの矜持は最終戦前の小此木との会話を参照)。強固な意志に基づく事象だけは全ての世界に共通するという『ひぐらし』のルールの中において、魅音が持っていた強い意志とは、この敗者を出さない、敵を作り上げて攻撃することだけをよしとしない優しい心。だから、魅音だけは雛見沢症候群に負けることがなかった。

 この魅音の提示する優しい世界から、物語は最後の結末を迎えます。

 このババ抜きのババ、ジョーカーを設定しない世界はあり得ないのか?というテーマを考えるにあたって、『ひぐらし』の作中では全ての世界においてジョーカーを引き続けた人物が2名だけいます。作中で自身が語ってるように、幼少からジョーカーを引き続けてこんな所まで来てしまった真犯人鷹野と、太古の昔から人間世界の罪を浄化するために一人だけ村人の罪を一身に背負ってきた羽入です。

 物語の最後の局面は、この二人の対峙(序章冒頭の古出神社での二人の対峙にも、このような意味合いがあった伏線だったのかと思うと感慨深いです)。鷹野の放つ弾丸と、ジョーカーを引いて全ての罪を一身に受けて死んでいくのが自分の役割と身を投げ出す羽入。このファイナルシーンの静止した世界において、最後に起こる奇跡。このシーンこそが、敵/罪人/敗者/ジョーカーに押しつけて退場してもらうことでしか整合しない世界しかないのか?と語りかける『ひぐらしのなく頃に』という作品が示した、代案、綺麗事的な優しい結末。

 最後の最後に梨花ちゃんの口から語られます。「祭囃し編」中盤で描かれた逆転劇などは奇跡とは呼ばない。それは皆が力を合わせることさえすれば起こせる必然。本当の奇跡とは、敵/罪人/敗者/ジョーカーを出さなくても結末が迎えられる優しい世界。だからこそ奇跡はここで使おうと。

 「奇跡」によってついにジョーカーを引いて退場することからまぬがれた羽入と、羽入を殺さなかったことで、ジョーカーを引き続けた鷹野さんの前に、ババ抜きではなくジジ抜きのペアであり得たかもしれない富竹さんが救いとして現れた所で終幕。それはあるいは「鬼隠し編」の冒頭の部活で行われたジジ抜きのように、さらにはジジ抜きでジジにもペアが存在するかのような不思議なゲームのように、どこにも敵/罪人/敗者/ジョーカーがいない、奇跡の世界。あるいはあり得るのかもしれない奇跡の優しい世界。掲げたテーマに対する、綺麗事的で、それでいて深くて優しい代案。これが『ひぐらしのなく頃に』の着地。

 ゲーム終了後に登場するスタッフルームにて、竜騎士07氏はこういう着地を『ひぐらし』として描きながらも、このテーマの「解」に関しては読者への宿題だとしてまとめております。もし、そんなことよりも知りたいことがあるならば、読者の皆さん自身が「解」を探し続けて下さい。これが4年半にわたって『ひぐらし』を紡ぎ続けた作者からの結びのメッセージなのかもしれません。次回作で、あるいはその先に続く作品で、「解」の続きが紡がれ続けることを期待しています。素晴らしい『ひぐらしのなく頃に』という作品をありがとうございました……と、このあたりをまとめ感想としたいと思いますm(_ _)m

→『ひぐらし』のエッセンスが凝縮されている、竜騎士07氏の『ひぐらしのなく頃に』のプロトタイプ版的な作品。2012年に漫画単行本が刊行されております。たいへん面白かったです。



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