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 あまりに美しかったんで、当ブログのWJ感想初の別枠感想記事です。
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 カウントダウンされていたサブタイトル。前々回「2」は無敵のコンビ、ネウロと弥子を表して2(当然1以上の世界に生きてるのもポイント)、前回「1」は本城刹那という「1人」の女性のエピソードにして、その女性が「1(生)」の世界で生きた証をかけてのサブタイ、そして今回、ラスト「0」は、やはり「1(生)」に対しての、電人HAL消滅をかけての「死」を表しての「0(死)」でした。

 「0」に帰する途中の「刹那」の瞬間に本城刹那とHALが邂逅する絵の美しさは完璧。

 が、「1(生)」の世界で結ばれなかった刹那と春川は「0(死後)」の世界で幸せに暮らしていきました的に誤読してしまいそうな読者もいそうなので(それでは少しねじ曲げると後追い自殺肯定のようになってしまう)、少しだけ解説。

 HALが刹那と邂逅できたのは、「0」になってからではなく、「0」になる瞬間の刹那の一瞬。一方で「0」になったコマには何も描かれていない。これは、不思議パワーで死者と生者が交信してしまう作品への、松井先生の一種のアンチテーゼかと思います。やはり、「0」は「0」であり、「無」意外の何ものでもない、少なくとも1の世界からは知覚できないという風に描いています。ならば「0」に戻る刹那の瞬間にHALが邂逅した刹那は、あの世からの迎えではないのなら何だったのかということになりますが、それは、春川/HALが心の一番奥底で覚えていた本城刹那という存在の刹那の残滓と解釈するのが一番すっきりします。デリート途中で「0」に向かう最中、他の何がデリートされても最後の最後の一瞬までHAL/春川が覚えていたのは、本城刹那の存在だった……という意味。これは、現実の脳関係の病でも、当人の心に強く残ってる心象ほど残りやすいというのが本当にあります。つまり、HAL/春川は、前話で、

 「今ここであなたと話している…この一瞬の刹那を忘れないで」

 と言った、豹変する前の本城刹那を本当にずっと覚えていたのです。だからこその消滅の瞬間の邂逅。豹変するゆえにロストしてしまっていた本城刹那の「自分」は、HAL/春川が刹那が望んだ形で刹那を覚えていてくれることでちゃんとアイデンティファイされていた。やはり、覚えていてくれている人がいる限り、「自分」が望んだ「自分」は望んだ形で保持される。コンピュータの世界に刹那を再現しようと負の方向に一大ミッションを行った春川/HALだったけど、実は世界中を巻き込んでまでそんなことをしなくても、刹那が望んだ刹那をちゃんと覚えていたという形で、実は既に刹那の「自分」は春川/HALによって保持されていたと……最後の瞬間にそれに気付くという美しすぎる結末です。

 答えは、0の世界ではなく、本城刹那と過ごした1の世界で既に手にしていたという解答。ベタですが、このエピソードは1の世界で「生きる」ことの賛歌です

 ラストシーン、ネウロが、

 「日付も変わった 帰るぞ

 と弥子に語りかけます。

 弥子がパスワードの解答に気付いたシーンに時計の針の日付変更がシンクロした演出より、「日付の変更」は「刹那の一瞬」の暗喩であります。ゆえにラストのコマの深夜0時を過ぎた時計と破られた窓から見える外の風景の絵は、HALと本城刹那が邂逅した「刹那の一瞬」を過ぎても、コンピュータの中の世界(0と1の狭間)でもなく死後の世界(0)でもなく、外と繋がった1(生)の世界で弥子とネウロは生きていくという締めのコマです。

 ネウロの呼びかけに、おそらくはまだ涙しながらも、

 「……うん」

 と答える弥子。

 ツライことがあっても、涙を流すことがあっても、刹那の一瞬ではなく続いていく日々を生きていく。そのために弥子は帰る。それが生きるということ。

 非常に美しいラストでした。生命賛歌を歌った作品として、今回はギャグもなくガチなラストだったこともあり、子供のころに手塚漫画を読んだ時のような深い感動と切なさと心地よさが残留する十全な満足感を味わえた読後でした。同号の『真説ボボーボ・ボーボボ』で至郎田さんがゲスト出演してる潜在的なギャグ度をよそに、今回は真面目なベクトルで傑作エピソードでした。

 今週の「魔人探偵脳噛ネウロ」に星5つ!

魔人探偵脳噛ネウロ 9 (9)


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