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 『仮面ライダーディケイド』、第31話(最終回)「世界の破壊者」のネタバレ感想です。
 メタ過ぎ(笑)。
 ◇

 TVシリーズでこの10年の間にちゃんと1年かけて50話あまり放映されてきた平成仮面ライダーシリーズの世界を「正史」。

 ディケイドの世界で描かれてきた2話で完結するシミュラークル世界を「偽史」。

 と便宜上表記するなら、この仮面ライダーディケイドTV放映版31話で放送してきたのは、しょせん「偽史」だったっていうラストなんですよね。

 劇場版のオールライダーの共闘も、最終回でスーパーアポロガイストを倒すまでの、ディケイド、ディエンド、ディケイド版クウガ、ディケイド版キバ、ディケイド版響鬼の共闘も、全ては「偽史」の中での出来事に過ぎなかった。

 そこに、「正史」の真・剣崎くん、真・渡と登場してきて、メタ物語は、「正史」VS「偽史」へ! という凄まじく盛り上がった所で、完結編(おそらく)は12月12日公開の「劇場版仮面ライダーディケイド」へ。くはー。凄いな、これは。

 「正史」はいわゆる「原作」、「偽史」はいわゆる二次創作とかシミュラークルを象徴していると解釈すると、東浩紀さんなんかの評論の世界で議論され続けてきた命題に対して、一つの決定版のストリームを作っている感じ。そして、オールライダーにプリキュアオールスターズ、エヴァとヱヴァ、ツバサのクライマックス、などなど、2009年の神フィクション達は何のシンクロニシティか、この「正史」と「偽史」というテーマを少なからず内包していたのですが、そんな2009年のフィクション業界のストリームの決定打として、12月の年末に劇場版仮面ライダーディケイド完結編が解き放たれそうな印象。いやー、凄い作品です。10年目しか出来ない特殊作品なので他のシリーズと比べるのはフェアじゃないんですが、間違いなく僕的に平成仮面ライダーシリーズの中での最高傑作です(というか、この従来の平成仮面ライダーシリーズと、ディケイドを比べるという行為自体が、物語の中にメタに組み込まれている)。

 最後の物語の焦点は、「偽史」、二次創作やシミュラークルには意義があるのか? 見方としては「正史」の二次創作に過ぎないとも捉えられる、このTV放映版「仮面ライダーディケイド」の物語、士達の「旅」には意味があったのか? という所なんですが、この点にイデオロギー対決が生まれているんですね。

 鳴滝さんはもとから「正史」絶対主義者で二次創作なんて認めないって感じだし、最終回の真・渡の語りからすると、真・渡、真・剣崎くんをはじめ、「正史」主人公勢も、意図としては、生まれた「偽史(二次創作・シミュラークルなど)」世界を、士(ディケイド)に破壊してもらうのが目的だったっぽいという意味では「正史」主義者(そうやって「偽史」を破壊してもらうつもりだったのに、士は「偽史」を仲間にしてしまった、それは誤りだったと真・渡は今回言っている)。

 そういった「正史」主義者勢力VS、

 「いやどんな旅にも無駄はないよ。どんな人生にも無駄がないのと同じようにね」

 と、「偽史」の旅でも意味がある、二次創作やシミュラークルにも意義はあると言ってくれる栄次郎に、最後に、

 「その旅は未来を変える」(門矢士)

 と言いきる士らの、「偽史」にも意味はあるんだよ勢力の対決……という、凄まじい盛り上がりの思想対決。

 本当に上手くできてるなー。

 第1話で、真・渡が、士が世界を旅している間、自分と「仲間」で世界の崩壊を防いでおくみたいなことを言っていた時の「仲間」は、「正史」の主人公勢だったんだな(今回終盤、再び「仲間」を口にした真・渡のシーンのあと、真・剣崎くんをはじめ、真ライダー達VSディケイドのライダー大戦に入る)。士が二次創作・シミュラークルといった「偽史」世界を破壊して回ってる間に、「正史」の方を守っている。だけど、士は「偽史」を破壊するどころか味方につけてしまった。だったら、「正史」を守る者として、真・渡も士を倒すしかない。たぶん、そんな感じ。

 鳴滝さんが送り込んでくる刺客ライダー達は、ちゃんと「正史」のオリジナルキャストが声をあてていたのにもちゃんと意味があった感じ。「偽史」を救済してしまう士に対して、「正史」絶対主義者の鳴滝さんが、「正史」から刺客を送り込んでいた感じなんだろうと。

 そしてこれもだったら面白いなレベルではずっと考えていたことですが、完結編劇場版予告の、

 「お前が本当のツカサだった!」

 からすると、ディケイドTV版31話の中の士も「偽史」士で、「正史」士もいるっぽいですね。そして、そんな関係だからこそ、『「偽史」の旅人』という、どこにもアイデンティティがないということこそしかアイデンティティがない者同士、今回の最終戦前で、士が海東に「お前にしか頼めない」って言う所がガチで感動的だった。マジでちょっと泣いた。最終回の士側の主張は、「仲間は大事だ」の一点突破じゃないですか。それくらい、例え「偽史」の中の虚構の時間だったとしても、「仲間」は尊いんだっていうのはメッセージとして熱い。

 最後は、「正史」に位置付けることができない「ディケイド」という作品の象徴として夏海が機能して、士と海東が「ディケイド」という世界というか作品の尊厳をかけて夏海を助けに行くって展開も良かったなー。「正史」に比べたら脆いお祭り作品に過ぎないと言う人がいるかもしれなくても、それでも旅をしてきた「ディケイド」主要メンバー勢力にとっては、大事な作品。

 そして、フライングして完結編の落としどころを予測してみるなら、前から書いている通り、「正史」と「偽史」の和解なんじゃないだろうかと。いまさら、「正史」しか認めない! 原作最高! 二次創作なんてくだらない! っていう主張をメッセージとして描くというのも時代に合わない気がするので、まあ原作も二次創作もメディアミックスも、そして時にオールスターズもあるけれど、みんなそれぞれの世界に一生懸命だよね、というか一生懸命じゃなきゃいけないよね、だったら時に共闘もできるよね、という、劇場版オールライダーで描いていたメッセージに、より深いレベルで回帰していくんじゃないかと。

 根拠としては、ディケイドオープニングの、士のバイクの後ろに乗った夏海が、士の腰に手を回すシーン。上に書いた通り、夏海が「ディケイド」という「正史」とも言えない微妙な位置付けの作品を象徴するキャラなんですが、彼女が回した手が、士のライダーベルトになっている……って比喩でしょ、アレは。

 つまり、「正史」にはカウントできない作品かもしれないし、「偽史」を増長させるだけの作品だったのかもしれないけれど、それでも士も仮面ライダー(象徴はライダーベルト)なんだってシーンなんじゃないかと。それを、ディケイドを象徴する夏海がアイデンティファイしてくれているってシーンなんじゃないかと。

 「その旅はやがて未来を変える」(門矢士)

 言ってることは大きいですが、「正史」と「偽史」が交錯する新しい時代のフィクション世界の幕開けを感じさせる、ターニングポイントの作品になるのかもしれない感じです。権威メディア(代表はTV)が失墜して、唯一の「正史」が成り立ちづらい現代においては、WEBを媒体とした個人のシミュラークルが必然として氾濫します。そんな時代に、「正史」と「偽史」の関係をメタフィクションとして総括的に描いておく、『仮面ライダーディケイド』という作品は、時代が要請して生まれた作品だったのかもしれません。

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→前回:第30話「ライダー大戦・序章」の感想へ
→前回:劇場版仮面ライダーディケイド「オールライダーVS大ショッカー」の感想へ
→前回:コラム:メタ解釈的仮面ライダーディケイドへ
→次回:最終回後の妄想色々へ
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