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 『仮面ライダーディケイド完結編』&『仮面ライダーWビギンズナイト』からなる、『仮面ライダー×仮面ライダー W(ダブル)&ディケイド MOVIE大戦2010』のネタバレ感想です。
 あの、本当神映画なんで、ネタバレ読まないで劇場に見に行って下さい!
 ◇

 「ディケイドに、物語はありません。」(オリジナル・紅渡)

 09年の、いや、00(ゼロ)年代を総括する究極のメタフィクションでした。

●仮面ライダーディケイド完結編

 TV版ラスト、結局第1話と同じ仮面ライダー同士が殺し合うライダー大戦に辿り着いてしまった士は、要するに「ディケイドの世界」とでもいうようなオリジナルから生まれたシミュラークル(二次創作)世界を永遠に繰り返す終わらない閉じた輪の中にいた(この辺りは日刊サイゾーの記事などを参照)。

 映画冒頭では、TV版から引き続き、これまでの(昭和ライダーも含めた)仮面ライダー達と闘い続けるディケイドという図が徹底して描かれます。

 このライダー大戦っていうのは、批評の世界ではゼロ年代の「決断主義」という文脈で語られたりしつつ、よく「仮面ライダー龍騎」が引き合いに出される、いわゆる「バトルロワイヤル」状態。そういう意味では、00年代の最後にバトルロワイヤルしているというこの映画は大変象徴的。

 ちなみにその前の90年代は「エヴァ」がよく引き合いに出される「自己意識の迷宮」の時代で、ひたすら自分の内側へ内側へと入っていって、最後には自分の中だけが世界になってしまうという、よく「セカイ系」なんて言葉で扱われる時代(この言葉は定義が収拾不能なくらい拡散していて扱いづらい状態ですが)。そうして、自分の中だけがセカイという考え方を押し進めていくと、他者のセカイを否定しなくてはならなくなり、相容れぬセカイとセカイがぶつかるバトルロワイヤル状態へとなっていく。自意識の中で悩み続けることを止めて、ある時点で「戦おう」「行動しよう」と「決断」してしまう。そんな話が批評の世界では語られている訳ですが、今回の映画には送り手も批評の世界を意識してるんじゃないかというくらい「決断」に関する話題が豊富で、士も、なんでこんなこと(他のライダーを倒すバトルロワイヤル)をするんだと問いかける夏海に対して、「自分で決めている」と明確に答えます。まさに00年代の決断主義を地で行っておられる。

 だったんだけど、ここからが「ディケイド」がメタフィクションとして一歩先に、映画タイトルに課しているように10年代に向けて何かを進めようとしている所なのか、士は、だけどその後に、倒したライダー達のカードを眺めながら、「せめて俺だけは彼らを覚えていないと」ということを語るのね。士は、自分の世界に閉じこもって他の世界(他のライダー達)を否定している訳ではなくて、その逆だった。自分と戦うことで、つまりディケイドという世界の破壊者と二次創作ライダー達が景気よく戦うというお祭り企画のおかげで、過去のライダー達の記憶がみんなに蘇ってくれれば、それでイイと思って戦っていた。むしろ他者、他の作品のためを思って、バトルロワイヤルということをやっていた。という、何というか、00年代バトルロワイヤルの否定ですよね。他人の世界を否定するためにバトルロワイヤルしていた訳じゃなくて、他人の世界を人々の記憶に残す形で尊重しようと思ってバトルロワイヤルしていたという。

 この今では忘れ去られてしまった過去のライダー達(ライダー作品)の記憶というのをこの映画で象徴しているのが、電波人間タックルに変身するシミュラークル(二次創作)ミサキ・ユリコで、士は彼女を尊重し、彼女も士に惹かれながら、最後にだけど士の記憶に残って、記憶として蘇れて良かった……と言い残して死んでいくのね。確かに、史上初の女性ライダー(相当)の電波人間タックルなんて、今では誰の記憶にも残っていないのに、「仮面ライダーディケイド」というお祭り企画が行われたことで、こうして新たに人々の記憶に蘇ったのかもしれない。というメタ展開。

 そうして、他者、他のライダー作品を記憶に残すために戦っていた士を討つのは、これまたこっちは00年代の女性ライダーとして今作で生を受けた、ディケイドのヒロインである夏海が変身する仮面ライダーキバーラ。夏海にわざと討たれながら、自分はバトルロワイヤルという方法しか選べなかったけれど、夏海は彼ら(歴代仮面ライダー達)の記憶を引き継いでくれ……と言い残して息絶える士というのは、たいへん00年代バトルロワイヤルへの反省的だった。もっと他の方法がなかったのかな、俺達、みたいな。

 ここで世界は例のTV版第1話と最終回でオリジナル・紅渡と士が接触した場所に暗転して、いよいよ、オリジナル−シミュラークル(パラレル・二次創作)という、この作品のメタフィクション的なコアの謎に対して解答が与えられます。

 結論としては、僕の解釈では、オリジナル・紅渡は、基本的にオリジナル主義。決して、オリジナルである自分達の正史よりも、ディケイドの偽史には意味があったとは言わない。ただ、ディケイドが景気よく戦ってくれたおかげで、それぞれの平成仮面ライダーの物語(世界)が活性化したのは認める。と、ここの語りはそんな論旨。

 TV版最終回でオリジナル・紅渡は、士が偽史のライダー達と和解したのは間違いだったと言っていた訳ですが、どうも、ディケイドは和解とかじゃなくて、景気よく戦って過去作を活性化だけさせて、消えていってくれればそれで良かったのだ、と、オリジナルの渡の意図としてはそういう意味だった感じ。よって、オリジナル・紅渡は、ディケイドという作品の正史性を否定するような、

 「ディケイドに、物語はありません」

 という言葉を残して去っていきます。士くんの物語は何だったんですか? という夏海の叫びが悲痛です。

 で、ここからですよ。お祭り作品「仮面ライダーディケイド」は終わりました。これまでの仮面ライダー作品も活性化して良かったですね。でも、ディケイドはオリジナルの二次創作を弄り回しただけの偽史だよね。正史仮面ライダー作品じゃないよね。主人公の士も死んだし、めでたしめでたしじゃない……

 という所で、夏海が、士くんは色んな世界の写真ばかりを撮っていた……と、シミュラークルライダー達の笑顔の写真が流れ始める(=それぞれの仮面ライダー作品世界を尊重ばかりしていた)。

 だけど、士くん自身の写真は1枚もない(=でも自分自身、「仮面ライダーディケイド」という作品はなかった)。

 と言い出したところで、僕は既に涙腺モードだった。

 そして、1枚だけ、士くん自身が映ってる写真が残ってる可能性がある……と士のカメラを取りに駆け出す所で爆涙だった。

 そんな夏海に、海東、シミュラークルユウスケという、この偽史としてどこにも残らない作品を旅してきた面々だけが共鳴。3人で手をそえて、太陽光で士の写真を現像するというシーンで、爆涙×2だった。写真に、世界(正史)に映らない作品だったのかもしれないけれど、それでも私達は旅してきたのだから、と。

 そうして、写真に浮かび上がる門矢士という、この「仮面ライダーディケイド」という作品の主人公。士が、己が使ってきた。TV版で旅してきたそれぞれの偽史ライダー達のカードを通りながら、歩いてくる。偽の歴史だったとしても、俺たちにとってはホンモノなのだ……。

 と、偽史、二次創作、パラレル、シミュラークルを増長させるだけだったかもしれない「ディケイド」勢の逆襲が始まりそうになった所で、立ちふさがるのはやはりこの人。鳴滝さんです。今ではゾル大佐になってしまっています。偏狭な正史主義者。オリジナルが大事なんだから、それを破壊するディケイドなんて認めない!

 しかし鳴滝さんは気付いていない。「ショッカーになってまで」と士に指摘された通り、そんな自分も大ショッカーとかスーパーショッカーとか、陳腐とも言えるシミュラークルに巻き込まれた自己撞着者であることを。

 あくまでディケイドという作品を正史から排除しようとする鳴滝さん率いるスーパーショッカーが襲ってきた所で、ついにあの「ちゃら〜♪」が流れてきて、偽者だとしても、この旅自体が、俺たちの世界(物語)だと士が言い切る所が熱かった。サントラまで聴いてるようなコアなファンは知っている。この「ちゃら〜♪」の正式な曲名は「パラレルワールド」。パラレルワールドの旅人が紡いだ物語だとしても、俺たちの物語はホンモノだ!

 ここで、士、海東、偽ユウスケ、夏海の、このディケイドという作品だけの4人が同時に変身するのが熱い。爆涙×2。『仮面ライダーディケイド』という作品は、ここにあった!

 最後の超戦闘。ディケイドの4人に、シミュラークル世界の仲間達、偽渡や偽明日夢くんまで助けに来てくれてバトルが盛り上がった所で、TV版の終わり方を彷彿とさせる、「次回へ続く」展開。なのですが……

 ここからが、今回の映画の真骨頂だぜ!

●仮面ライダーW ビギンズナイト

 そして唐突に始まる。『仮面ライダーW』の方の映画、「ビギンズナイト」。

 要所要所で「ん?」と思って割と早く気付いたんですが、これは、テーマが「ディケイド完結編」と連動している!

 今は亡き「オヤッサン(=死者)」が蘇る? というストーリーラインが、今は忘れられてしまった過去作品(劇中でも死者として比喩されていた)が蘇る? というディケイド完結編とテーマ的に完全にリンクしている。

 結論としては、劇中で蘇ったかに見えたオヤッサンは敵が扮していたニセモノ。オリジナルオヤッサン−偽オヤッサンという関係が、そのままオリジナル作品−シミュラークル作品というディケイドのテーマと連動しているんですが、こっちの映画では、翔太郎はフィリップとの絆を胸に、偽オヤッサンをブン殴る選択を下します。

 今回の敵が、依頼人の大事な故人に扮して、依頼人を思い出の中に閉じこめておく悪役とか、ディケイドとの連動っぷりが顕著です。Wまでメタフィクション化。確かに鳴滝さん的な正史主義を押し進めると、いつまでも過去作との関係の中に閉じこもって、「今」を生きるということをしなくなってしまうのかもしれない。新しい想像力が生み出した作品なんて希薄なんだから、だったら昔の思い出の作品の世界に閉じこもってしまった方がいい、みたいな。

 という所で慣行される、「今」TV放映中の正史『仮面ライダーW』の主人公、翔太郎の鉄拳。

 ここで批評の世界に再び飛ぶなら、この鉄拳がフィリップと翔太郎の二人の想いの鉄拳であるというところが深読みできる。作中に出て来たフィリップの、フィリップの罪は決断しないで自分の世界に閉じこもっていたこと、翔太郎の罪は安易な決断でオヤッサンを死なせてしまったこと、僕たち二人はこの贖罪のために戦わなくてはならないという台詞がもの凄く批評的。前者の翔太郎と出会う前の自分セカイに閉じこもっていたフィリップは90年代的だし、後者の安易な決断が悲劇を生んだ翔太郎は00年代的と言えそうだけど、とにもかくにも、今、確かに文脈としては両方存在した延長として、時代は10年代に入っていく。

 敵キャラが主人公に己のアイデンティティを問うという、「ディケイド」のフォーマットをパロディしながら、ふたりが答えたアイデンティティはこちら。「通りすがりの仮面ライダー」ではなく、

 「二人で一人の探偵で、仮面ライダーだっ!」

 や、やはり10年代は「ハイブリット」なのか! とにもかくにも、偽オヤッサンに鉄拳をかまして、こちらの正史の主人公二人も変身。「ディケイド完結編」では偽史にも意味があったということを言い、こっちの「ビギンズナイト」では、ホンモノのオヤッサンの教えを胸に、偽オヤッサンをブン殴るということをやっている。ホンモノか、ニセモノか、正しいのはどっちなんだと錯綜してきた所で、逃走する敵を追いかける所で、なんと「ビギンズナイト」も終幕。

 な、なんだか画面の向こう側から巨大な敵と戦いながらバイクで走ってるライダーが見えてきた所で、画面が二分割。

 『仮面ライダーディケイド完結編』と『仮面ライダーWビギンズナイト』が画面二分割のまま同時進行しはじめるという超展開を見せ、そのままついに二つが融合。

●仮面ライダーMOVIE大戦2010

 と、躍り出る最終章開幕の字幕。つ、ついに、偽史と正史が(物語的にも画面的にも)融合してしまった!

 もう、なんだか訳が分からないことになっているけど、オリジナルもシミュラークルも合体した不思議空間で、世界にあだ成す巨大怪人がいる。仮面ライダーとしてやることは一つ。

 偽史の旅人仮面ライダーディケイドと、ついさっきニセモノはニセモノとニセモノに鉄拳を食らわせた正史ヒーローのWが共闘です。

 敵は、「究極の生命体」という、なんだか90年代も00年代も通してありがちだった敵の象徴のような敵キャラ。10年代は「敵」の設定が難しい時代になりそうだけど、この映画は00年代の総括なんだから、これでイイ。ライダースピリットを胸に、ディケイドとWが「敵」を討つ。

 最後の決め技がWのファイナルフォームライドというのも熱かった。偽史の想像力に正史が浸食されているけど、もはやそれもアリ。Wが、本当に分身してダブルになったっていいじゃない!

 ラストは、共闘してくれたそれぞれのシミュラークル世界のライダー達が帰っていったように、『仮面ライダーディケイド』という主人公の門矢士も、これが「本当の終わり」で、あとはWが「本当の始まり」を始めてくれとでも言わん感じでどこかへと帰っていく。最後に士が翔太郎に渡したカードには、偽史(パラレル)オヤッサンライダーのカードという、最後までメタでオリジナルとシミュラークルが錯綜した世界。パラレルオヤッサンから認めて貰う言葉をかけられて、嬉し涙する翔太郎。確かに、二次創作からオリジナルが勇気を貰うこともあるのかもしれない。

 それでも、この超劇の終幕に語られた言葉は、正史の正当性を後押しする言葉でもありました。エンディングで、「ビギンズナイト」で死者との想い出に逃げかけた依頼人に言わせているこの台詞がまとめになっています。

 ホンモノは、わたしの中に、生きてるって。

 『仮面ライダーディケイド』という作品は偽史でもホンモノだ! と叫び、続いていく正史『仮面ライダーW』はニセモノをブン殴った。けど、ホンモノ、オリジナル作品達の延長線上に、そこから続いている何かと自分達が繋がっている点だけは間違いがない。シミュラークル方面に、正史方面、どっちに想像力が伸びていくにしろ、過去の仮面ライダー作品というホンモノ(オリジナル)も、わたし達の中には生きている。

 そうして、閉じたシミュラークルの輪の中だったディケイドの世界は、オリジナルのWの世界へと抜けた。なんだか士は士で旅を続けているし、Wもディケイドの世界に参戦したりと奇妙な状況だけど、なんだかんだとフィクション史は先人のオリジナルやシミュラークルを踏まえながら10年代へ。

 なんという、究極のメタフィクションにして00年代の総括的作品であったことか。00年代の幕にふさわしい超映画でした。

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