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 DVD視聴分のアニメ『蒼穹のファフナー』、第18話までの感想です。
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 特殊エンディングの第十五話(angelaの「proof」だ!)で明確に何かが一つ決着し、冲方丁さんがメイン脚本になる第十六話以降に突入。噂には聞いていましたが、この辺りで作品の何かが圧倒的に変わりました。

 扱ってる題材は明らかに哲学のオントロジー(「存在論」)なんですが、ある程度僕の専門(言語学とその周辺)に近いので、抽象的で思弁的だった第十五話の内容も何を言わんとしているのかだいたい分かりました。

 自分と他人の境界が無い状態から、「言葉」で世界を分化して、自分や他人に分かれていく、という考え方は哲学や言語哲学で結構重要なんですが、ようはフェストゥムは(「同化」しようとする設定に顕著なように)自分と他人の境界が無い、無言語状態に戻りたい側の勢力で、逆に人間は一応これまで言語で「全て」から分節されて自分も他人もいる世界でなんとかやってきた。

 作中の存在論的に重要な皆城つばきが目覚めてから、もう一度「選択」をと問うていたのは、フェストゥムみたいに言語分節以前に戻りたいか、このまま言語分節以後の方向に向かって進んでみるか? とそういうこと。

 で、総士はジークフリードシステムの設定なんかを見てもどちらかというと自分と他人の境界が弱い側のキャラクターだったんだけど(要するにフェストゥムより)、案の定彼の望みは一騎と一つになることだった。

 なんだけど、皆城つばきが突きつけた「選べ」という問いに、一騎が、「総士と話したい」と選択。「話したい」ということは、言語があって、自分と他人の区別もちゃんとあるのが前提ということ。明確にそっちの方向で一騎サイドは行きますというのを選択した以降が、第十六話以降ということ。

 たぶん大学で哲学の講義でも聞いていた方が分かりやすい内容なんだけど、うまくロボットアニメのエンターテイメントに落とし込んでいると思いました。

 物語上存在について問われる局面で、過去のトラウマから自分の存在を否定していた一騎が、もう一度フェストゥムが扮した疑似母(母は存在を与えてくれる存在)から、マークザインという名の機体を手渡されるとか、神シチェーションだった。「Sein (ザイン)」はドイツ語のbe動詞みたいな感じで、存在論の文献を読む時は、この語の解釈にとにかく注力しないといけないんだけど(何しろメッカがハイデガーとかドイツ語圏なんで)、上述した言語分節以前へと存在が進むか、言語分節以後へと進むかの物語上の存在論の分かれ道で、マークザインが主人公の手に渡るというのが熱い。マークザイン搭乗以降(第十六話以降)は、一騎は自己否定ではなく、言語分節されて他人との対話もある(つまり対話する自分も存在している)自分という存在を肯定した上での戦いにシフト(戦いというか、カノンとなど、相手と話そうとする)。ここまで哲学的な「新機体へ乗り換え」はロボットアニメ括りでは歴史上初だった気もします。

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