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 DVD視聴分のアニメ『蒼穹のファフナー』、第26話(最終回)までの感想です。
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 最終回まで哲学的で、だけどそれを深夜アニメノリの熱さに変換している、深くて面白い作品でした。

 ラストの蒼穹作戦の前に遠見が竜宮島の座標を戻るべき場所としてみんなの腕に書き込むのも、序盤の居場所の話から哲学の存在論にまで広がりを見せた作品としてとても意味があったし(居場所の無さを感じていた遠見が書くっていうのが熱いし、遠見の分は同じく自己否定しているがゆえにファフナーに適性があった一輝が書くっていうのも熱いよね)、最終戦のカノンの、

「前は何処にもいなかった。でも今はここにいる!」

 は、作品のキャッチコピーにして、設定としてフェストゥムが問いかけてきていた言葉、さらには第1話冒頭のこの物語の始まりの言葉、「あなたはそこにいますか?」に対する熱い解答だった(ちなみに元ネタというか、意識してるのは英語圏の幸福論で扱われる、「no-where(どこにもない)」はハイフンの位置を変えると「now-here(今、ここにある)」に変わるっていうヤツだと思う)。

 個人的にはラストの大気圏の外に抜けて地球を無に帰そうとするラスボスフェストゥムを(地球と同化しようとしたとかそんな感じだろうか)、一輝と遠見が手を重ねて遠距離からライフルで一閃する絵がエラくカッコ良かった。

 前回の感想で書いたような言語哲学的な視点を専門柄意識して見ていたので、言語分節以前に帰ろうとするフェストゥムを、言語で分断していって存在しようとする一輝や遠見の意志が撃ち抜いたというようなイメージが重なってとてもカッコいい(例えば「雨」という漠然とした事象から、「五月雨」という言葉で切り取ることで、「五月雨」は概念として存在するんだとか、そういう話。言語哲学。)。メインキャラの名前はそのキャラクターの存在を表しているとは燕。さんから聞いていた話だけど遠見の「真矢」って名前もそんなイメージでカッコいい。

 ただ一輝や真矢の分節していって存在しようよ側だけじゃなくて、フェストゥム側にも一理あるような感じで締めていて、両義的というかたいへん深い。皆城つばきのラストや、総士も一旦はフェストゥム側に行っちゃうエンディングとか(帰ってくるとは言ってたけど)、とても両儀的。

 でも、それゆえに、やっぱり僕的には一輝と真矢推しだったかなー。つばきや総士のエンディングも描かれていたからこそ、それでも個人として存在する一輝が、同じく個人として存在する真矢の元へ帰ってくる、というラストのラストの絵は大変感動的だった。哲学的でかなり壮大な話を経由しつつ、物語冒頭や中盤では自己否定にベクトルが振れていた一輝と真矢が、お互いがお互いの救いになっている。この二人に関してもカノンの台詞通りの「でも今はここにいる」というエンディング。

 めちゃめちゃ深くて、でもちゃんとエンターテイメントしている、という大変堪能した作品でした。タイムリー放映からは5年越しくらいだったけど、今回DVDで鑑賞して良かった。

蒼穹のファフナー DVD-BOX【初回限定生産版】
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→前回:蒼穹のファフナー(第13話〜第18話)の感想へ
→次回:「RIGHT OF LEFT」の感想へ
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