ブログネタ
けいおん! に参加中!
 約二週遅れで仙台でも放映中の「けいおん!!」。
 先日放映分の第24話(最終回)「卒業式!」の感想です。
 ◇

 最後の卒業式というイベントでも、唯澪律紬については、「無難に卒業式を終えて無難な大人になる」というのを拒否する展開。もちろんきっかけは唯。

 試験勉強をして無難な大人になりましょうという流れの中、唯だけは演芸大会の練習を始めてしまう。一生懸命走ってより上位を目指そうというマラソン大会の中、唯だけは近所のおばあちゃんの家でお茶してしまう。卒業写真を無難にとって高校時代は想い出にして、あとは無難な大人になっていきましょうという流れの中、唯だけは前髪切りすぎたりして一悶着起こす。こういった「無難な大人になるルート」を唯がブチ壊すという「けいおん!!」の話は最終回まで一貫しておりました。卒業式当日まで唯は遅刻し、ストッキングを破り、卒業式の最中まで色紙を隠している唯を中心に一悶着起こる。こういうのは全部「無難に卒業して無難な大人になるなんて思うなよ、私たちは"輝いた時間"延々続行組なんだから」的な表現なんですが、わりと分かりやすく言葉にして、唯が卒業式を人事(ひとごと)のように言うシーンまであります。そして残念ながら、壇上で退屈な話をする校長先生は、たぶん「無難な大人」の代表者なんだなー。唯達や唯達に巻き込まれてもう一度歌っちゃったり(二期第10話)したさわ子先生はもはや「無難な大人ルート」から外れた所にいるので、卒業式の最中でも校長先生の話なんて聞いてないと言う。同じ制服を着て集団で無難な大人として出荷されていくみたいなイメージで取ると卒業式ってネガティブイベントだとも思うんだけど、唯澪律紬はもちろん、一見脇役のクラスメイトキャラ達までしっかりと個性があって、卒業式当日まで唯達に絡んで来る辺りが良かった。最後の日に(物語の)主役である唯澪律紬達に一緒に写真を撮りたいと声をかけてきたクラスメイト、物語冒頭では無難な大人としてネコ被っていたさわ子先生からの、ロック調のメッセージ……こんな辺りから、唯澪律紬に限らず、このクラスは全員で無難な大人になるの拒否したんだな……というのが伝わってくる最後のクラス関係イベントでした。

 ◇◇◇

 そしてこの物語の最後の問題である、梓の問題が終章となります。唯澪律紬は、「無難な大人になるルート」をブチ壊して、4人一緒の大学に行って「"輝き"="ライブ"を延々続行ルート」に入った。でも、学校に、軽音楽部の部室に一人残された梓は、このままでは"輝き"を失ってしまうのではないか? という作中最後の課題。

 22話で梓が10円玉100回分のお賽銭で4人の合格を願った時点で、この課題には一区切りついていたものの、この最後の最後に来て、「卒業しないでよぅ……」の所で、もう一度だけ、「"輝き"はこれで終わってしまう」側に揺り戻しが来る。「けいおん!(!!)」38話分の物語なんて、所詮は卒業と同時に終わってしまう、青春時代の一時の"輝き"を描いたもので、あとはそんなものは写真に残る想い出になるだけの類のもの。"輝き"は高校の中、部室の中、学生(子ども)時代だけの特権で、でももうそれは終わってしまうのではないか、と(この不安が「けいおん!!」という番組が終わる視聴者の気持ちとシンクロするように作られているのは言うまでもなしに)。

 だけどその不安は、唯澪律紬から梓に送られる"あなたのためのライブ"で覆されてこの作品は幕を閉じる。この「"輝いた今"は終わってしまうのか/続けられるのか」という「けいおん!!」のメインテーマに対して、最後は全て歌で解答するというのも、音楽を題材にしたこの作品らしいです。

 卒業は終わりじゃない。これからも仲間だから。

 全38話かけて、「卒業と共に"輝き"は終わってしまう。後は無難な大人になるルート」をブチ壊してみせた唯が歌っているんだから、間違いない。試験勉強でみんなが「無難な大人ルート」に向かっている中、演芸大会の練習をはじめた唯に付き合ってくれたのは、他ならぬ梓だ。「高校の中」「部室の中」だけが"輝き"だなんて言うのは既に二人で壊していた。もう二人で、学校の外の世界でも、空の下でも歌えること、輝いていられることは証明していたんだから。

 離れていても同じ空見上げて、ユニゾンで歌おう。

 外の世界の「空」と、そんな外の世界と中の世界を分かつ「窓」「扉」が印象的に使われた作品でした(代表は二期後期ED)。

 この劇中最後の梓への歌を歌っている間、窓と扉が印象的に使われています。中の世界と外の世界の境界線上のライブシーン。最終回。「空」の歌詞の所でバーッと部室から外へ抜けて空が映っていく映像が感動的です。二期第12話の、「(学校の中だけじゃなく)こんな広い所で、ずっと音楽が流れてるなんてね」に、唯澪律紬、そして梓は辿り着いた。もう、部室の中、学校の中と外の世界の境界なんて関係ない。ライブハウス、演芸大会、さわ子先生の友だちの結婚式、夏フェス、etc...ずっと、「世界を外の世界へと広げていく」物語が「けいおん!!」で、最終回で5人全員で中の世界と外の世界の境界は無効化した。あとは、「同じ空」の下にいるとでも言うしかない。どこにいても、いつでも、5人の"輝き"は延々続行。

 劇中最後のライブシーンに返答した梓の言葉は、

 「あんまり上手くないですね!」

 で、これは一期第1話で唯が澪律紬の演奏を聞いた時に最初に言った言葉。この言葉から"輝いた時間"は始まったのだから、またこの言葉から、"輝いた時間"の物語が始まるかのようなニュアンスになっています。それがどんな物語かと言ったら、今までの「(部室や学校の)中の世界編」に対して、それは「外の世界編」「空の下編」とでも呼べるような物語。

 最後は、

 「じゃあ次は、あずにゃんも一緒に!」

 で、その「空の下編」の始まりに梓も参加して、映像は外の世界に抜けて部室がある高校を映して、また(今度は「空の下編」の)5人の「ふわふわ時間」の演奏が空の映像の下始まる所で終劇。これは最高の最終回だと思ったのでした。

 ◇◇◇

 ◇◇◇

●「けいおん!(!!)」という作品について

 くだらない、無機的かもしれない日常にも"意味=(輝き)"は見つけることができる。

 そういう作品だったのかと思います。

 作品自体が表面的なほのぼの日常系アニメのノリと見せつつ、その実もの凄い意味の体系で織りなされているんですが(ちょっとした小道具、シーンに、ちゃんと意味がある。例えば「トンちゃん」はただのマスコットの亀ではなく、何重もの作品テーマの象徴)、これは"日常も生きてることも無意味なんじゃないの"という、ここしばらくの「物語」が何とか乗り越えようと色々と頑張っていた課題に対して、一つの解答を描いている作品だと思ったのでした。

 物質的には豊かになって、ここは先進国のはずなのに、自殺率は高いし、なんだか人々の虚無感は収まらない、どうしよう、みたいなのが、ジャンルを問わず課題先進国の「物語」の一つの課題だったりします。今回は詳しくは踏み込まないんですが、僕の解釈だと村上春樹文学なんて言うのも、中心的なテーマはこの課題の克服にあると思っています。

 で、例えば漫画、アニメ、特撮のジャンルに限っても、近年では「ひぐらしのなく頃に」とか「仮面ライダーディケイド」とか「涼宮ハルヒシリーズ」とか、「多元世界を見せつつ、でも実はあなたの人生も一度切りだし、選べる世界も一つだけなんだよね」という形で、生の一回性に回帰する形で、この虚無感を乗り越える……というのが一時主流だった気がします。そういう意味では、一度きり、一回性の"輝いた"高校生活を描いた「けいおん!!」も文脈的にはこの流れに乗っている感じです。ハルヒの「エンドレスエイト」→「消失」の流れなどは、同じ京都アニメーションですが、「一回性の自覚による"意味"の回復」という点では、かなりの程度「けいおん!!」と同じ文脈の作品だったと思ったり。

 「けいおん!」は唯がこのままじゃニートになっちゃうよという話から始まって、「大人になる不安」が課題としてある作品として始まっています。子ども時代、学生時代くらいまでは何だか輝いていて、まさか人生は無意味だとか滅多には思わないんですが、唯はこの先このまま大人になってしまったら、なんだか危険だと察知してる所から物語が始まっているのです。この辺りは、第一期最終回の唯のモノローグで「大人になるのを不安に思っていた」という趣旨が語られる辺りからも分かる通り。

 で、その不安を、「軽音楽部の仲間と過ごす時間で"意味(=輝き)"を獲得して」ブチ壊すのが大まかな「けいおん!(!!)」の物語だったと思うんですが、この"意味(=輝き)"を発見する瞬間って言うのが、アニメという表現技法をフルに使って、視聴者が共鳴できる形で描かれていたのがこの作品は凄い素敵だったと思うのでした。一期の最初の合宿回で、澪が花火をバックにエアギターする唯を見て"輝き"に気付いてしまうシーンとか、凄いイイですよね。それまでは「武道館でライブ」的な無難な大人がお題目のように唱える"意味"くらいしか子ども達は知らなかった訳ですが、作中のキーパーソンである唯を中心に、「無難な大人達がしたり顔で"無意味"とか"つまらない"とか言っている日常や世界にも、"意味=(輝き)"は見つけられる」ということが描かれていく。そのために、「世界の全てに"愛せる意味"を見いだせる女の子」という唯を主人公にしたのが、もう素敵だった。評論家的な人からすると全然アニメ観てない方なのでエラそうなことは言えませんが、平沢唯さんはアニメ史に残るヒロインって言ってイイと思います。唯にかかれば、ただのギターはギー太という愛すべき意味がある存在になるし(実際頬ずりしたり一緒に寝たりしてる)、一度唯が関われば、何気ないもの、出来事でも、"意味"がある存在に変わる。

 二期第22話の、梓が唯に飴玉を貰う下りとかも素敵。忙しい無難な大人からしたら、「そんなのただの飴玉じゃん」ということになるんですが、しっかりと、梓が、その飴玉に、「卒業していく大好きな先輩から貰った大切な飴玉」という"意味(=輝き)"を発見する瞬間が、しっかりと描かれている。

 そして、最後は、でもそういう色々なものに"意味(=輝き)"を見つけ出せるのって、せいぜい子ども時代(学生時代)までなんじゃないの? と、したり顔の無難な大人が言いそうな言い分をブチ壊す方向に物語が進行して、"輝きはずっとどこでも延々続行できる"という話になっていって、結局最後は"輝き"を続けたまま外の世界に抜けるということに成功してしまう。何というか、励まされるお話。「けいおん! は生き甲斐」っていう言葉がネットとかで結構流行ってたんですが、どことなくみんな、生き甲斐="意味や輝きの回復"っていうのを、この「けいおん!(!!)」っていう作品から感じていたんじゃないかと思います。

 最後に二期後期OPの話になるんですが、これまで色々感想とかに書いてきた文脈で「外の世界とのリンク」の比喩で「窓」や「扉」が使われる映像の中、最後は最終回ラストシーンと同じく、部室がある校舎から外の世界に抜けてきて(「窓」は背後に映ってる)、空に向かって唯が謎のマークを掲げるシーンで終わっています。

 あれは、本当謎のマークなんですよ。無難な大人があのマークを見ても、"無意味"とか"何それ"とかしか言いようが無い。

 なんだけど、実は"そんな無意味なものにも、意味(=輝き)を見つけ出すことはできる"。"そのことを空の下(=外の世界)でも掲げ続ける"。っていう表現になっています。凄い見事なオープニング映像だと思います。

 あのマークの意味が何なのかは、まあ人それぞれ意味を見つけて欲しいんですが、とにかく、あのシーンから「けいおん!!」っていう作品に込められていた何らかの"輝き"、"意味"をファンが感じてしまうのは事実。

 そして、その時視聴者が感じた"意味"、"輝き"っていうのが、たぶん劇中で澪が花火をバックにエアギターする唯に見つけた"輝き"であったり、梓が最初の新歓ライブで唯澪律紬の演奏に見つけた"輝き"と同種のものだったりするのかもね。だとしたらやっぱり、人生とか生きてることとか、世界に意味が無いとか、嘘だよね、と。

 本当、素晴らしい作品だったと思うのでした。

→第2期Blu-rayBOX



→第1期Blu-rayBOX

けいおん! Blu-ray BOX (初回限定生産)
豊崎愛生
ポニーキャニオン
2014-03-05


→前回:第二期「けいおん!!」第23話「放課後!」の感想へ
→前回:「まんがタイムきらら」掲載分原作最終回の感想へ
→前回:アニメ第一期最終回〜特別編の感想へ
→次回:第二期「けいおん!!」第25話(番外編)「企画会議!」&第26話(番外編)「訪問!」の感想へ
けいおん!感想の目次へ