月刊マガジン掲載分の川原正敏先生の「修羅の門第弐門」第2話および「ふでかげ」第1話のネタバレ感想です。
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 劇中の観客達の「二年間で(格闘技の世界が)変わった」というやりとりが、劇外で『修羅の門』が休載していた十年以上にも対応してしみじみしてしまうという構成。

 「何でもできる」謎の古武術である陸奥園明流が、空手、キックボクシング、プロレス、ボクシング……とそれぞれ専門性に特化した格闘技の一流達を倒していく……というのがとりあえず第壱門の流れだった訳ですが、それはとにもかくにも当時はまだ「総合格闘技」という概念が希薄だったからこそのエンターテイメントでした(ちょうどグレイシー柔術がようやくマニアックな格闘技雑誌に取り上げられ始めた頃。だから第壱門の最終戦は、同じく「スポーツとしての専門性というか、トータルの実戦」というグラシエーロ柔術との戦いで終わる。まだ、「寝技が立ち技に勝ち得る」とかでみんなオオーとか驚いていた頃の時代だったんだよ!)。

 なのだけど、劇中で二年、劇外で十年以上経過して、今や寝技、打撃、組技を全部こなす「総合格闘技」は当たり前の時代になってしまった。「総園明流亜種」みたいな時代。つまり、「なんでもできる」という園明流の強いアイデンティティは失われてしまった。それが、今回は宮本翔馬の善戦で描かれる。

 この武術としての園明流としてのアイデンティティロストと、陸奥九十九本人が「壊れて」いるらしいアイデンティティロストがシンクロしながら描かれるであろうことは予想できる所で、今回は、陸奥園明流の代名詞、「虎砲」の間合いに入った! という所で引き。うおー、「虎砲の間合いに入るから園明流にはむやみに組技には行けない」とか、この攻防のニュアンスを思い出すだけで燃えるものがあるな。

 そして、回りの達人達とか舞子とか舞子ママとか、外野が色々九十九の戦いを解説するというフォーマットも、何か懐かしくてニヤニヤする。

 とりあえず次回で虎砲(というか園明流の技)が炸裂するのかが見所。しばらくアイデンティティロストで続けるのかなー。その流れだと第弐門で始めて無空波が出る回とか泣きそうだよなー。



●修羅の門異伝 ふでかげ/感想

 なんか、異様に面白かったです。

 『修羅の門』には実は舞子が可愛いとか、そういう面白さもあるんですが、何かヒロインが大変可愛らしかった。

 また、「血(家)の宿命」が主人公の空手とヒロインのサッカーとがシャッフルされていたりと、ちゃんと『修羅の門』のテーマとも対応している。『修羅の門』は陸奥園明流万歳! だけの漫画じゃなくて、「九十九は園明流の血、歴史から逃れられない、自身の本質である"獣"から逃れられない」っていう切ない話でもあるのです。

 なので、この「空手の血に生まれた主人公がサッカーをやる」っていう設定には何かと意味がある。物語冒頭が故人への墓参りから始まるのも、自分の兄の問題がそもそもの基点である九十九と妙に重なる。川原先生の漫画は、何かしら故人に報いないといけない人達のお話が多い。

 続きが大変楽しみです。

修羅の門(1) (講談社漫画文庫)
修羅の門(1) (講談社漫画文庫)

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