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 遅れ視聴中のアニメ『氷菓(公式サイト)』、第八話〜第十七話の感想です。途中「愚者のエンドロール」部分に一話か二話見逃した回あり。
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●第八話〜第十一話(愚者のエンドロール)

 この辺りから、京都アニメーション的美術で「日常の輝き」が風景的、視覚的には視認できても「人の心理の奥まではわりと謎」な話が多いと思いました。『氷菓』という作品題自体が"I scream"から来てるという作品なので、そういう深層の人の気持ち、叫びが主題なのかとも思えます。「氷菓」は一見「今、ここ」的な輝きに満ちてたと思われた関谷純の深層の叫びというような話だったし、姉妹エピソードも千反田さんの姉妹幻想から奉太郎による解体、だけど姉妹の本音はもう一層奥、みたいな話でした。

 で、今回も映画の脚本の子の深層の気持ちに最終的には迫るお話。叙述トリックというお客さん的にはウケる、市場価値はこっちの方が高い、という表面的な真相に一旦向かった後に、だけど市場価値とか関係なくて脚本の子の本当の気持ちはこっちだったの、と進んでいくのが上手い。

 氷菓、映画作品、次のエピソードでは「夕べには骸に」と劇中に色々と作品が出てきます。原作小説は未読ですが(『春季限定いちごタルト事件』の方しか読んだことない)、作者さん文芸論としては読者それぞれの解釈でいいや派よりも、ちゃんと作者の気持ちがあってそっちに迫る派の論を念頭にして今作自体は作ってる感じなのかな。古典における作品背景論(奉太郎はわりとここまではすぐ迫れる)よりは、作者の本当の想いに迫る、というような。ファッション源氏物語論と源氏物語パロディ作品は溢れているけど、紫式部のコア心情にまで迫ろうという人は既にめったにいないので、Twitterとか溢れてる時代さふぁっきん、僕は"テクスト"の奥に潜む人の心理のコアを大切にしたいですよ、というような。「氷菓」も劇中映画も「夕べには骸に」も時間的な市場原理を勝ち抜いて本当の古典になることはないのですが、いつか何処かで誰かが本当に読解してくれてる、というのは優しく美しい話だと思うのでした。背景に場所的、時間的な制約を超え得るそういう「古典」の尊重があるからこそ、それに比した場所的、時間的な制約を受けてるはずの「今、ここ」が輝く。大切に想える。それをアニメーションという形で切り取る、という求道的な営みを感じる作品です。


●第十二話〜第十七話(クドリャフカの順番)

 お料理研の対決エピソードまでと、真エピソードの十文字事件とはテーマを分けてると感じたカンヤ祭エピソード。

 お料理研の対決エピソードまでは、千反田さん、摩耶花、奉太郎、里志の四人が一旦バラバラに描かれます。京都アニメーション文脈を持ち出してみるなら、逆けいおん!イズム。部活共同体は、思ったほど「みんな一緒」じゃないよ、というような。

 それぞれがそれぞれの課題の中、一人一人が自分なりの「今、ここ」を生きてるので、それは実は寂しい、というのが表面的には大多数での共有体験であるはずの学園祭を舞台に描かれます。

 だけど、そんな四人の「今、ここ」がお料理研の料理対決で奇跡的に交差する。漫画という自分の人生、自分の物語がありながら、そこを一旦置いて料理対決やってる古典部の元に必死に走っていく摩耶花が感動的であった。そして奉太郎が小麦粉を渡そうとする所で泣いた。それぞれの人生、それぞれの物語で関係ないし、作中のキーワード「省エネ」的には人と関わるなんてエネルギー使って無駄なんだけど、何故か思ってしまった。ああ、仲間がピンチだ(別に大したピンチではないのだけど)、この小麦粉、届けたいな、と。前半の四人バラバラ感を覆しつつ、役に立ってるんだか立ってないんだかよく分からない千反田さんが招いたピンチから摩耶花、奉太郎で逆転する熱い展開といい、この一話が今の所一番好きかもしれない。それぞれ勝手に生きてるご時世ですが、「今、ここ」を分け合える、共有できる時があるというのは美しい。そういう崇高な話にも持っていけそうな事柄を、お料理対決とか、どうでもイイことで描いてるのが熱い。

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 続く十文字事件は、引き続き人の深層の気持ち、本当の気持ち、というようなお話。

 時間による淘汰を生き残る以前に、ただ存在として、ある種絶対的な名作があり得る、という摩耶花の主張は、普遍主義的な話のようでいて、作中としては作品には描いた人の気持ちがあり、そこを尊重したいという所に落としていると思いました。「夕べには骸に」には及ばない二番手だけど、やっぱりイイと思ってた作品には先輩という作り手がいて、先輩には先輩なりの気持ちがあった。それが嫉妬心のようなものだったとしても。

 一方で「夕べには骸に」の方にも、背景担当の先輩の気持ちがあり、それが十文字事件を引き起こしていた。これ、背景担当の先輩と作画担当の生徒会長の気持ちまではわりと作中で描かれてるけど、肝心のストーリー原作の先輩については転校していて、結局本当の気持ちがよく分からないのが上手いな。氷菓も姉妹エピソードも映画も、迫るところまでは迫るんだけど、最後の一歩はよく分からないという所で落としています。今回も、「夕べには骸に」ストーリー原作の先輩が出てきて分かりやすく解説はしてくれない。

 漫画研究会内の摩耶花批判勢力のコスプレが初音ミクをはじめとしたボーカロイド勢なのは上手い。明確な特定の作者がいない現代的クラウド的創作勢力。一方で、摩耶花は作家性が高いエラく古い作品のコスプレばかりしている。

 初音ミクも別に普通に楽しんでるけど、僕個人としても一人や数人の「作者」がちゃんと想定できて、作者の気持ちをうだうだ考えたりするような、摩耶花型の営みの方が好きかな。漫研の先輩(「夕べには骸に」には及ばない側)と並行描写される形で、実は"I scream"がある里志の奉太郎への気持ちを、見てたから分かるという摩耶花には惚れますよ。作者の尊重が、他者の尊重にまで繋がってる感じ。千反田さん-奉太郎の薔薇色か灰色かラインだけじゃなく、色々と厚みが出てきてこれ凄い作品だなと思い始めてる「愚者のエンドロール」&「クドリャフカの順番」でした。

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