アニメ『境界の彼方(公式サイト)』、第8話〜第11話までの感想です。

 『境界の彼方』本編の内容もさることながら、どう考えても同じ京都アニメーション作品である『涼宮ハルヒの消失』を意識して、物語として「その次」を描いている作品だと思い至っているため、『涼宮ハルヒの消失』のネタバレも記事中に含むので注意です。(追記、そして途中で気づく、今日は『涼宮ハルヒの消失』的には12月18日!)
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第8話「凪黄金」、第9話「銀竹」、第10話「白の世界」

 ミステリ形式としての物語のギミックが明らかになっていく3話。『まどか☆マギカ』の時などと同様、個人的にはメインギミック(栗山さんが秋人を殺すように泉から指示を受けてるなど)には途中で気づいてしまっていたのでそっち側のサプライズはそんなになかったのですが、要所要所で描いていた「食」のテーマを連動させてきた方にむしろ感動いたしました。

 泉が妖夢を捕食対象と語ること、妖夢が人間を食べること、栗山さんが唯を殺したこと、秋人が境界の彼方で博臣を殺しかけたし沢山の命を奪うかもしれないこと、栗山さんが牛丼を食べること、そういう事柄はこの作品では並列で、「生命は何か他の存在を食べながら(奪いながら)じゃないと生きられない」ということを描いてきた作品だったのですが、その点に関してクライマックスで、「栗山未来は人類を代表して愛してしまった神原秋人を殺さないと生きられない」にかかっていくのね。そして9話でミスリードさせつつ、10話で明らかになる栗山さんの決断は、「だったら自分の方が犠牲になる」。秋人を殺さなければならないのと、唯を殺さなければならなかったのは「愛する人の殺害の選択を迫られる」シーンとしてパラレル表現になっていて、あの時は相手を殺したけれど、今度は自分の方が犠牲になる。

 ここまでが、TVシリーズの『魔法少女まどか☆マギカ』とかあるいは『Fate/stay night』とか、ゼロ年代作品的な、「一人の少女が犠牲になり、世界は均整を取り戻りました」エンド。ここから、そこを超えてくる次の第11話が凄くて、僕はこの作品に惚れ込んだのでした。


第11話「黒の世界」

 最初に書いておくと、前回の感想で第6話「ショッキングピンク」はいわばハルヒダンスの2013年ヴァージョンで、『境界の彼方』という作品は『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品を本歌的に想定して、何か「その次」を表現している作品だということを書いたのですが、このクライマックスで僕的にそうだろうと思うのは、この『境界の彼方』という作品は特に『涼宮ハルヒの消失』を乗り越える物語だ、ということです。

 『涼宮ハルヒの消失』というのは、消失ハルヒがいる世界を選ぶか、本当のハルヒがいる世界を選ぶか、二つの選択肢を問う物語でした。例の、キョンの原作では読者への問いかけが、映画では視聴者への問いかけが入ってるシーンですね。あのシーンでキョンが選択した結果、本当のハルヒがいる世界は選ばれるのだけど、特に映画の演出に顕著で、それは同時に、「消失」世界のハルヒや古泉を、消失長門(眼鏡付き)を切り捨てることも意味していた、あな、決断主義や悲し……みたいな所も同時に描いていた作品なんですね。

 そこで、『境界の彼方』は「その次」の物語として、『涼宮ハルヒの消失』で切り捨てられた「消失長門(眼鏡をかけている)」を救済する構造の物語だったのか! と気づいた時は感銘を受けたのでした。だから、「眼鏡」がキーだったのかと。栗山さんは眼鏡キャラだったのかと。劇中の何気ないシーンで語られる眼鏡薀蓄のシーンとかが、メタフィクショナルな物語論にも聞こえるのかと。ミステリギミックよりも、こっちの凝りように驚いたのでした。

 僕の中ではもうほぼ確信してるのですが、栗山未来というキャラクター=「消失」版長門有希のifです。第11話がもう、『涼宮ハルヒの消失』を本歌にしたシーンが満載で、「文芸部室」で同じように主人公(秋人/キョン)が決断し、「愛する少女のもとに少年が駆け(『境界の彼方』では秋人が栗山さん(消失長門)の元へ、『涼宮ハルヒの消失』ではキョンがハルヒの元へ)」、二人の主人公(長門(栗山さん)が生み出した消失ハルヒと本当のハルヒ、栗山さんが生み出した虚構秋人と本当の秋人)を経由して、「最後に雪のシーンに至る」のです。そして、最後の雪のシーンは、『涼宮ハルヒの消失』では、消失長門は消えてしまった(選ばれなかった)切なさ、というシーンだったのに対して、『境界の彼方』では、秋人がif消失長門である栗山さんを抱きしめるシーンになっている、と。もう、途中にあった、「秋人が栗山さんの誕生日(生まれてきたことを祝福する日)用に眼鏡を選んでるシーン」とかね、決断の末に消える運命にある、消失長門や栗山さんを、生まれていて良かったんだよ、と肯定するシーンに実はなってるとかね。眼鏡ギミックをそこまで象徴表現として使うか! ともはや面白い領域に達しつつ、本当もうじわじわと感動。消失長門だって、生まれてきて、いてよかったんだ、「次の物語」では、そういう世界を目指したい。

 第11話では、泉が『涼宮ハルヒの消失』的な、「どちらか一つしか選べない」という二択を迫るポジションを担っていて、栗山さんが死ぬか秋人が死ぬしかなかったんだ、ということを語ります。その二択をブレイクして、白か黒かじゃなくて、灰色にいたる、「境界」に至る「次の物語」だったんだろうな、と(まだ最終回「灰色の世界」は観てないけど)。第11話は熱くて、切り捨てられた側、消失長門側の存在、栗山さんを助けに行くっていう秋人は、もう不死身じゃない、ただの人なんですよ。ゼロ年代ムーブメントの金字塔として語られるのは何と言っても「ハルヒ」なんで、この辺りは、あの頃「終わらない日常」で夢想した、非日常的能力とか、ある日俺に謎のパワーが降臨とか、そういうゼロ年代要素が、今では(2011年以降)消えてしまってる……という表現に思える。僕らは、神パワーも何も持ってない、ただの人だった。

 でも、そんな僕らに残ってるものは何なのか?


 「行ってどうするの?」(名瀬泉)

 「不死身じゃない。分かってるさ。でも僕は、今でも眼鏡と眼鏡美少女のためなら何だってできる、変態だ!」(神原秋人)


 ええ、そこ!? って思われるかもしれないけれど、この台詞のシーンで涙腺にきたよ。無駄だったかもしれないゼロ年代だけど、あの時の萌えパワー(『涼宮ハルヒの憂鬱』ラストの「ポニーテール萌え」発言が、この作品でもメタフィクショナルな意味を持ってるというのは前回の感想で書いた通り)、変態パワーが、現在の過酷の現実の中で、何かを成し遂げるパワーに変換できると、信じたい。ゼロ年代的、変態的、萌え萌え的パワー、無駄じゃねぇ、と宣言したい。


 「悪いけど、今度は俺たちの番だ」(名瀬博臣)


 立ち上がるゼロ年代的変態二人。どうしようもない、眼鏡萌え、妹萌え、くらいしかもう残ってない変態が(博臣も、マフラーをしなくなり能力が弱まってる)、それでも、あの時切り捨てられた消失長門的存在を助けに行く、やってやんよ、という物語だったのですよ。

 天空を駆け、栗山さんの願望が作り出した虚構秋人(『消失』の消失長門が作り出した消失ハルヒなどに相当)と、現実秋人が合体するシーンは鳥肌が立った。いや、表現的には合体したのか? それとも虚構の方を消滅させて現実秋人が入れ替わったのか? どちらにしろ、前者なら虚構と現実の力を合わせる的な、後者なら虚構の存在をホンモノに変える時がきた、みたいな文脈で熱い。

 そうして、辿り着いた秋人が、消失長門的存在、栗山さんを、雪の中で抱きしめる。今回は雪は、消失の記号じゃない。


 「ざまぁ、みろ」(秋人)


 第11話は凄まじい回でした。もう、どんな最終回でもこの第11話が観られただけで満足かもしれない……。

 追記:うわー、『涼宮ハルヒの消失』的に重要な12月18日に、『境界の彼方』最終回が最速放映になる(24:30からだから厳密には19日だけど)、まで計算してやってるのか。凄すぎる。計算じゃなかったら運命的過ぎるし、どっちにしろ凄い!

 さらに追記:『長門有希ちゃんの消失』アニメ化が発表(NTTドコモ&KADOKAWAのアニメ配信サイト「dアニメストア」で告知)。この、『涼宮ハルヒの消失』的に重要な12月18日に「消失」版長門有希を救済する構造の物語の『境界の彼方』最終回を最速放送し、『長門有希ちゃんの消失』のアニメ化を告知する。虚構存在的だった消失長門も救済されたので、アニメにもなるさ、みたいな流れを感じたりです。最近のマーケティング凄いな!





→前回:『境界の彼方』第1話〜第7話の感想へ
→次回:『境界の彼方』第12話(最終回)の感想(少しラストシーンの解説含む)へ
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