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 アニメ『ハナヤマタ(公式サイトニコニコチャンネル)』第12話(最終回)「ハナヤマタ」の感想です。仙台にて地方遅れ視聴でありました。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 アフター『けいおん!(!!)』な文脈を感じながら視聴(シリーズ構成の方が同じ吉田玲子さん)してきた本作。最後は"『けいおん!(!!)』の先"を見られたと、厳しい世相の昨今なれど、何とか生き延びていると幸せなこともあるのだなと、僥倖。

 最終回は、本作の二つの焦点、「なるの成長」と「共同体の再生」が両方結実しておりました。しかも、なるが成長した結果、共同体が再生され、次の時代の(と言ってしまうけど)新型共同体が一夜の理想(と書いて"ユメ"と呼びたい!)の実現として顕現する、という描き方なので、本当「物語」の最後の一ピースが一番美しくカチッとハマったという感覚です。久々に本当にもの凄い最終回を観た!

 焦点の一つ目、「なるの成長」は三つくらいで描かれていて、一つ目は最後の練習パートで、真智が「フォーメーションを崩してしまう」のに意気消沈していた時に、今ではなるが励ますパートを担当できるようになってること。

 第9話の感想(こちら)で詳しく書いたのですが、「フォーメーションを崩してしまう」はなるの幼少時のトラウマのきっかけでもあります。

 だけど、トラウマが発動しても、ハナ、ヤヤ、多美が手を差し伸べてくれたのでもう一度立ち上がれる、という描き方だったのですが、今話ではなるの方が真智を励ますという流れになる形で、なるのトラウマが克服されているのと、なる自身の成長を描いていたと思います。

 そこで炸裂する、ヤヤちゃんの、


 「なんだか、キラキラしてる」(笹目ヤヤ)


 物語冒頭では、キラキラしてる人たちに憧れてるだけだったなる、作中の印象的な比喩でいえば「踏切の向こう側」に憧れてるだけだったなるが、物語を通して「キラキラしてる」側に気が付けばなっていたという、一つの最終回の着点(これは本当のラストシーンの、本が閉じられる=『ハナヤマタ』という物語の"ヒロイン"になるがなった、という演出からも顕著かと思います)。

 作品の放映が開始した頃、こんな記事↓


コラム:Vivid性を取り戻すために2014年型作品全弾装填


 を書いておりましたが、第一話のハナの


 「人は誰でも、頑張れば輝けると思うので」(ハナ・N・フォンテーンスタンド)


 のキー台詞を最終回で回収して、なるなりのアンサー、


 「誰かじゃなくて、自分が頑張れば、なりたい自分にちょっとだけ近づけるんだね」(関谷なる)


 を明確に言葉にして描いておりました。キラキラ、踏切の向こう、物語のヒロイン、そういう第一話時点でなるの主観で見えていた世界に、頑張って少しずつ近づいて行く、ということの尊さ。まさに、漸進的な理想と現実の縫合の過程。

 「なるの成長」二つ目は、お父さんによさこいをやってることを打ち明けられたこと。引っ込み思案だったなるが、やりたいことやってるということをお父さんに言えるようになった、という精神的な成長を描いてるパートだけじゃなく、もう一つの作中重要要素「共同体の再生」の方ともリンクする、「家族のこともないがしろにしない」が描かれていたパートだとも思います。最後にハナが来られるのも、ハナがお母さんに気持ちを打ち明けたからなので、そこもなるとハナでシンクロしてる、という描き方だったと思います。これまで感想で使ってきた言葉だと、まさに「共同体の二重所属」。自分の中の自由な部分、時には自分勝手と表裏一体な部分として「よさこい」はやるけれど(「よさこい部」という共同体には所属するけれど)、だからといってそれまでの「家族」という共同体をないがしろにするわけじゃない、というパート。

 最後のクライマックスステージの前に、ちゃんとメンバー全員の、「よさこい部」とは別のもう一つの共同体、これまでの共同体をないがしろにしない、という絵がちゃんと挿入されていたりします。


 なる→上述のお父さんとの対話パート
 ハナ→上述のお母さんとの対話パート
 ヤヤ→お蕎麦屋さん(家)の仕事もしながらよさこいの練習してる
 多美→お家の中でよさこいの練習してる
 真智→生徒会室でよさこいの練習してる


 この、今までの共同体はそれはそれで大事で、でも二重所属として「よさこい」も新しい自由の共同体としてやるよ、というのが作品として大事な要素であったであろうことは、繰り返し書いてきたように、オープニング映像が、「よさこい部」の部室に、ギターとか習字とか、それぞれの別共同体の要素を持ち込んできてしまう、そしてそれで別にイイ、という表現にも顕著でありました。

 「なるの成長」三つ目は、ハナのお父さんにCDを届けるシーンで、これも序盤は引っ込み思案で店長(外部の人間)と話すのにも気後れしていたりな描写があったなるとしては、他人に対して自分からアクションができるくらい成長したパートと見てとれます。

 そして、それ以上に、このパートはやっぱり前回の感想で「新しい理想の共同体」に向けての作中のキーの一つとも書いた「外部とのリンク」パートかと思います。ここで、よさこい部の外部の人間、ハナのお父さんにコンタクトを取ったことが、作品全部をかけた渾身のクライマックス、「一夜の夢の共同体の顕現としてのハナの再合流」のキーになります。やっぱり、外部とのリンクは作っておくべきなんだな……。

 と、ここまでが最終回の結実一つ目、「なるの成長」について。

 そしていよいよ二つ目、ボロ泣きする勢いで打ちのめされた「共同体の再生」のテーマの方の最終回での結実について。

 前回の感想にだいぶ書きましたが、(リアルでも)「共同体」が壊れて苦しい昨今。何とか、それを再生できたなら。あるいは、何か「次の」形の共同体へと進めることができたなら、ということを希求せざるを得ない昨今です。それくらい、共同体も紐帯もない世界・社会というのが苦しい。

 作品放映前のPVから印象的だったハナの作中キー台詞も、


 「私は、誰かと繋がっていたいって思っちゃうんです。そんなに強い人間じゃないから」


 ですので、この手の「断絶」のつらさ。そういうものを前提としての、他者との繋がりを求めること。ある種現実では壊れてしまっている「人との繋がり」としての「共同体」を再生できたなら、あるいは何か「次の形」へと進められたなら、そんな願いが『ハナヤマタ』という作品の核心かとも思います。

 そして、劇外では『けいおん!(!!)』の「放課後ティータイム」という共同体も「卒業」と共に壊れてしまうんじゃないか、という終盤の焦点とか。劇中では、本当に壊れてしまった擬似(if)「放課後ティータイム」的に描かれていた「ニードクールクオリティー」の崩壊劇とか。真智と沙里の姉妹の不和パート(家族共同体の崩壊)とか。そして、ハナの家庭が以前はお母さんが進歩志向でキャリアを優先した結果、離婚して家族共同体が壊れていた様とか、 そういうので、「悲しさ」「辛さ」「苦しさ」を描いていました。

 その困難な課題を、


 「共同体の二重所属」→家族共同体も「やりたいこと」の共同体にも、両方に所属はできる。

 と、

 「外部とのリンク」→一旦共同体が壊れたとしても、「リンク」がホンモノなら、また再合流、再生できる。


 の主に二つのカードで乗り越えてみせる、という作品でもあったと思います。

 ファイナルクライマックスで、ちゃんとメイン五人の「共同体の再生」が結実していくんですね。


 ヤヤ→「ニードクールクオリティー」のさっちん、ゆっちん、あっちんもヤヤの踊りを見に来てくれる。なるをトリガーとして、五人が「よさこい」に打ち込んだ物語が、壊れた共同体を再生する。

 なる→お父さんとお母さんも見にきてくれてる。居合の練習時間が減ったり、帰りが遅くなったりはするかもだけど、両親は家族という共同体の中、娘を愛している。

 多美→なると同じ。当初はよさこいどうかみたいな感じだったお父さんも、うめさんと一緒に見に来てくれている。家族共同体の中、娘のやりたいことの方も応援してくれる。

 真智→テンションが上がるサリーちゃん先生。壊れていた姉妹という家族共同体が再生されている。

 ハナ→お母さん、抱きしめてくれて日本へのチケットを手配してくれる。家族共同体の再生がはじまっていて、また、ハナの「やりたいこと」の方の共同体も尊重してくれる。また、「子供の我がままを親が聞かなきゃ誰が聞くの」のくだりから、一種の我がままで家を出て行ったサリーちゃん先生の過去までも疑似的に救済している。


 こうした背景の中、クライマックス、「外部とのリンク」が行き交う。

 例えば「こうやってあちこちのよさこい祭りに出てる」湘南のチーム。学校の中だけとか、「場所」に共同体が限定されるなんてことは、別にないんだ。こういうパートが、劇外では『けいおん!(!!)』の、「学校共同体の終わりと共に、"輝いた"共同体は崩壊するんじゃ?」という不安すら救済している趣。オープニングからして、『ハナヤマタ』は「色んな場所で踊る」映像が印象的であり、街のお祭り、温泉旅館と、「どこでも、いつだって踊れる」と、「輝いた共同体の継続」に関して、「場所・時間の限定」を取り払うこと、できるよ! という作劇でありました。

 あるいは「街」の共同体。第一話のお巡りさんが、ハナの「由比浜学園中学よさこい部」という共同体への再合流を、助っ人してくれる。切実な願いとして、大切な人たちの所へ行きたい。その気持ちは、街のお巡りさんにも分かる。まさに一生懸命、道、リンクを作ってくれる海坊主とも合わせて、些細な表現だけど好きなパート。

 そして、国境を超える共同体。『けいおん!!』の頃の、輝いた今という共同体をカセットテープに封じる時代からは、今は進んだ2014年。劇中の楽曲もPCにiPod(的なもの)が媒体だし、クライマックスに出現した一夜の「夢の共同体」はWEBでのリンクを通して、ハナのお母さんも海外から観ている。地味に、家族共同体もやりたいことの共同体も両方やるよ的な観点からは、大事な事柄。最新の通信技術は、活用し倒そう。

 こうして、進歩志向を追って行ったら共同体は壊れたとか、やりたいことをやって輝くなんてあなたには無理だよとか、輝いた時間なんて学校の卒業と共に終わるよとか、仲間って場所に限定されるよねとか、一度離れたら再合流なんてできないよとか、そんなあらゆる抑圧をブチ壊して、一夜、学校の外の境界領域(浜辺という「場」)のステージで、作中のキーワード「自由」の体現として、花火をバックに、各々の本質的な色(それは劇中で五人の花の比喩に象徴されている)を咲かせる「よさこい」のステージが実現する。再合流? できるよ、「自由」なんだからと、ハナが作中の象徴アイテム鳴子(=色んな鳴子がある=色んな色が世にあるという作中是の象徴)を空中でキャッチ、五人が再合流した所で、傘が咲く=花が咲く、五人の頭文字であり、世の人々それぞれの本質の数多(アマタ)の色を咲かせるという意味での、「ハナヤマタ」の共同体が、一夜の夢として実現する、という所でボロ泣きでありました。これは一生ものの作品に今年出会ったかもしれない。

 クライマックスのアフターパートは、クライマックス中のなるの、


 「この時間がずっと続けばいいのに」


 =「夢の共同体」を継続できたなら、という願い。

 を受けての、真智の、


 「やっぱり五人がいいわね」


 のアンサー。

 そして、ハナの両親を説得する発言から、ラストは


 「次は文化祭ね」(常盤真智)


 と、この一夜の夢の共同体の継続、あるいは永続化へ向けて、(それは困難で、あるいははかない願いなのかもしれないけれど)「次の」共同体のステージへ向けて「ハナヤマタ」の共同体はまた歩み出す……という所で、五人verの「花雪」(なんてこの作品にふさわしい曲名であり曲だったのか)が流れ出して終劇。

 現実と理想の縫合と、途切れぬ紐帯(共同体)を実現するための処方箋を可能性として描いた素晴らしい作品でした。

 制作陣に百万の感謝を。

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上田麗奈
エイベックス・ピクチャーズ
2014-09-26


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→前回:アフター『けいおん!(!!)』文脈の結実点〜『ハナヤマタ』第11話「スマイル・イズ・フラワー」の感想へ
→コラム:「Vivid性を取り戻すために2014年型作品全弾装填」へ
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