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 『月刊少年マガジン』で連載中の川原正敏先生の「修羅の門第弐門」第48話の感想です。

 ネタバレ注意です。
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 『修羅の門第弐門』という形で再開して以来、劇中の陸奥九十九不在だった時間=劇外のリアルで『修羅の門』が休載だった期間……というのも意識される作りになってるであろう本作。

 それゆえに、今話ラストの九十九がしばらく神武館にいるって言う辺りは良かったですね。舞子もこれ、ずっと劇中で九十九を待ち続けてたポジションで、劇外では『修羅の門』を待ち続けていた読者の心情の感情移入先みたいなポジションなので、今度はしばらくいてくれる=もうしばらく連載続けますよ宣言みたいで嬉しい。

 そして、片山右京と海堂晃にスポットが当たることに。個人的に中学三年の時に『第壱門』の連載が終了し、ああ、もう俺は「四神」のうち「白虎」と「青龍」は見ることがないのだ……と思って十数年生きてきた所に、ついに「白虎」「青龍」を目撃できたここ数か月も幸せだったのですが、同じく、ああ、もう俺は九十九VS海堂の再戦を見ることはないのだ……と思っていた、劇中の最クライマックスカードをどうやら見られそうなのも大変に嬉しいです。

 当時、空手と柔道をやっていて比較的道場を自由に使える時間が多かったので、『修羅の門』に出てきた技は一通り真似してみましたが(え)、菩薩掌と双龍脚は、格闘技少年が思わず真似したくなる技上位だよね。しかも菩薩掌はリアルでやられると、本当に痛いんですよ! 頭ガンガンした苦い過去を背負ってるのは僕だけじゃないはず(きりっ)。そして双龍脚は、スピードはともかくただの左右の回し蹴りなら連続でできるので、何かやれた気になれるんですよ。双龍脚! ドヤッ 的な。

 山田さんが九十九の父親で、こう、陸奥園明流の血を絶やさないためになにがしか物語があるというのも、連綿と続く歴史ということが一つ主題としてあるであろう作品だけに、意味がありますよね。『第弐門』冒頭の、総合格闘技隆盛の描写に漂っていた、グローバル化で(格闘技に関しても)情報は共有化で、それは進歩なのかもしれないけれど、何かインスタントで、消耗品感覚的じゃない? というあの感覚。なんかつまんねぇな、というあの感覚。それに対して、連綿と続く一系統を継続させている陸奥園明流のカッコ良さをあぶりだしてる訳で、その対照はどんどん相手を代替していって飽きたら次へというような消耗恋愛に対して、舞子の一途な恋愛という所にも重なる部分だし。リアル世相の、なんでもインスタント化してしまう流れの中で、何か核心めいた確かなものを、ずっと継続するということの大切さをあぶりだしてるようでもある。グローバル化とは境界が曖昧になることで複数の様式が溶け合ってしまう力学なのだけど、それを良いことだと礼賛する流れに逆行して、とある様式を継承させること、あるいは暴力的な激流の中で、その様式の核心の価値は失わないまま新しい形へと進めること。そういう話でもあるよう。

 そんな話ともリンクするように、川原先生の画業三十周年企画も本号に。これも、それこそ『修羅の門』休載期間くらいに、急速に(漫画業界含む)コンテンツ業界が、インスタント化、超速消費化された中で、また『修羅の門』再開してエッセンスとしては途切れないものを描いてるって話とも重ねて考えてしまう。尊敬の念しかないのでした。

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