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 アニメ『甘城ブリリアントパーク(公式サイト)』第10話「もう打つ手がない!」の感想です。仙台にて地方遅れ視聴中。

 ネタバレ注意です。
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 甘城ブリリアントパークにも色んな意味で「輝き」が戻ってきて集客も良好。第3話(感想)時点では四人しか集まらなくてしょぼくれて飲んでいたキャスト同士の飲み会も、エレメンタリオの四人も来てくれるようになったり。前回でエレメンタリオの四人もそれぞれの本然と「代替不可能性」を獲得したから、飲み会にも来てくれるというような流れ。そもそも、代替可能で使い捨て方式の歯車扱いされてるのに、表面上取り繕うように集まろうとするから「飲みニケーション」は歪なのであって、それぞれが本然から仕事していて、代替不可能なそれぞれの価値を承認し合っている。そういう風に「場」も調和に至っているのなら、仲間同士の飲み会も楽しいものだ。みたいな話でしょうか。これ、深いな……。

 と、順調な側面が描かれながら、いよいよ、その「場」が調和に至っているのは美しい感じがするのだけど、それは誰かの犠牲の上で成り立っているんじゃないか、という話に。オープニングの歌詞、「パズルのピースハマるみたい。違うカタチ繋げてみる」が理想の「場」だとしたら、パズルの全体の絵から、排斥されたピース、それが捨てられることで絵が成り立つピースについての物語です。つまり、ラティファともう一人。

 メープルランドに起こった寓話的な過去話は、実は竜の侵略という危機から「場」を維持するにあたって、二人、犠牲になった人がいるのですね。ラティファと魔法使いです。

 まずはラティファについて。

 「回り続ける観覧車」で円環連想で暗示されていたように、記憶の上で一年を繰り返していることが明らかに。そういう、呪いを受けてるポジションのラティファがいる上で、甘城ブリリアントパーク自体は良い方向に向かっていて。

 甘城ブリリアントパークの現在が奇跡だと言いながら、どこかそれは窓の外の風景で、ラティファは混じれていない感じが切ないですね。こういう風に、ラティファは絵の中に入れないピースなんだということが分かってくると、お城から抜け出して果敢に甘城ブリリアントパークのイベントに関わりたい面が描かれていたラティファのいくつかのシーンも意味合いが追加されてきますね。

 その上で、ずっと感想で書いてきた「代替不可能性」ネタ。ようは、ラティファという「役割」を維持するために、一年ごとに別の誰かが入ってるが如きに過ぎないのか? って話だと思うのですね。それこそ、第8話(感想)で描かれていた、可児江西也という「役割」を維持するために、西也の着ぐるみを四人で交換して、代替西也を保っていくような連想です。

 メープルランドを保つために、「呪いを受ける立場」「絵からは排斥されるピースの立場」という「役割」としての「ラティファ」を保つために、一年ごとに代替ラティファが回ってるだけなのだとしたら、その生命はとても虚構的で悲しいです。人間としてのアイデンティティがない。

 そこで、積み重ねてきた、代替可能品として人間性を喪失してしまった人たちの物語が集積されるように、役割だけの「ラティファ」に、人間としてのラティファを取り戻す物語に終盤は向かって行っていると感じます。

 その流れで、寓話的過去話の中で犠牲になった人の二人目、魔法使いです。

 これはもう、危機からメープルランドを救うために外部からやってきた=危機から甘城ブリリアントパークを救うために外部からやってきた……&「魔法が使える」ってことで擬似西也なんですね。

 過去話の魔法使いは、復讐としてラティファに呪いをかけたけれど、現在編の西也はラティファを救おうとする、そういう物語です。

 上記の、「ラティファ」という「役割」だけで人間性をはく奪されたラティファを救済し得る人がいるとして、それが西也だと。

 過去に、西也は「呪い」の悲しみに暮れているラティファに出会っていて、彼女を笑わせようとしたんだけど、失敗してるんですね。悲しい笑顔しか返してくれなかった、と。この物語は、その時の西也のリベンジの物語でもある。

 だけど、上記のように一年ごとにリセットされる「役割」に過ぎないラティファを人間としてアイデンティファイしてくれる存在があるとして、それが外部からのアイデンティファイ、昔のラティファも今のラティファも知っている。それでも助けようとしてくれる西也だと。第8話で「役割」としての可児江西也しかみんな見ていなかった中で、西也本人を、西也の本質を、アイデンティティをちゃんと見ていた存在として椎菜が描かれていたように。その時の椎菜のポジションに、西也がなって、「役割」に過ぎないラティファを人間として救い出す物語があると。

 ここまでは、西也が何としても成し遂げる。主人公はヒロインを救う、として、あとはもう一層奥にある、じゃあ主人公自身のことは誰が救ってくれるのか? という物語です。西也、疑似過去の魔法使いだとすると、国を、甘城ブリリアントパークを救った後は、「役割」を終えた存在として、守ったはずの「場」から、パズルの絵から排斥されてしまうのですね。それこそ、役者時代の「役割」としての児玉誠也だけが期待され、西也本人というアイデンティティは破綻したように。前話第9話(感想)で、「いらない人間を一人選ぶスイッチ」をあるいは押されてしまう立場の人のように。「役割」が終わったら。必要だったのは優秀でより優れた支配人代行の可児江西也という「役割」であったのであって、人間としての西也本人ではなかった、というが如く。

 モッフル卿たちに加えてエレメンタリオも混ざってお酒を飲んでるのに対して、西也が行き詰った時にどうするかを叔母に相談して「お酒を飲む」と言われても拒否してるのは、西也が現時点では一人で抱え込んでるという描写でもある。学校でもぼっちだったし、役者時代も周囲に本当の仲間はいなかったかのような描写……。

 という所で、缶コーヒーを片手に二人で「飲み」に来てくれる、男前なモッフルさんであった。過去も今も未来も、「役割」としてじゃなく、人間としてのラティファを見ている、アイデンティファイしてくれているのは、西也だけじゃない。モッフル卿もです。これ、西也×いすずで決まりだと思ってたけど、モッフル×西也もアリだよ(え)。

 一人で聖徳太子のモノマネしかできなかった頃の西也とは、今は違うんだ、という。寓話的過去の「魔法使い」のバッドエンドを乗り越える物語でもある。

 という辺りで、リミットまで残り10日で、あと104522人の来場者が必要という終盤。これ、一日1万人集客と換算すると、ちょっとバズれば行ける行ける。射程に入った。(リアルとネットは質が違う前提はあるにしろ)僕、「キュアレモネードのフィギュアはパンツだった(スパッツはいてなかった)」ネタで一日一万ユニークアクセス超えとかバズったことあるし(え)。

 真面目に、「甘城ブリリアントパーク」という場=「財政破たんまでのリミットが見えてるどこかの国」という含意もあるであろう本作。西也が手を打ってるのトリケン経由だし、最後の切り札がエロだったらこの作品、伝説の作品として語り継ぎたいのですが。

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→前回:『甘城ブリリアントパーク』第9話「チームワークが生まれない!」の感想へ
→次回:『甘城ブリリアントパーク』第11話「これでもう心配ない!」の感想へ
『甘城ブリリアントパーク』の感想目次へ

【関連リンク:これまでの当ブログの京都アニメーション作品感想】

『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回の感想はこちら
『けいおん!!』最終回の感想はこちら
『氷果』最終回の感想はこちら
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『中二病でも恋がしたい!』(第一期)最終回の感想はこちら
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