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 アニメ『甘城ブリリアントパーク(公式サイト)』第11話「これでもう心配ない!」の感想です。仙台にて地方遅れ視聴中。

 ネタバレ注意です。
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 人ではなく土地を切る改革とサッカーの試合便乗作戦で、最後の逆襲に出る「甘城ブリリアントパーク」。

 ずっと、その人なりの「代替不可能性」の価値の「輝き」を描いてきた本作。そしてそれが調和して組み合わさった時の「場」の「輝き」を希求していた本作。リミット最終日の、キャストの面々がそれぞれの「代替不可能な」ポジションで頑張る姿は感動的です。それこそオープニングの歌詞、「パズルのピースハマるみたい。違うカタチ繋げてみる」のごとし。

 ティラミーまでちゃんと「花の妖精」というポジションで頑張ってるのが感動的でしたね。ティラミー、こいつ第7話(感想)ではあっさりと「甘城ブリリアントパーク」を捨てて襲来者側に寝返ったり、第8話(感想)で女の子なら誰でもイイという態度を取ったり(土田香苗という「個人」の名前を聞かれても答えられない)、「代替不可能」な価値を推してる作中で、なんだか「代替可能」でイイ、誰でもイイ、どこでもイイって態度が目立つキャラだったんですが、そんなティラミーまで、「お花で人を喜ばせる」という自身の代替不可能なポジションを全う。こいつ、本当に「花の妖精」だったんだな。今なら別れた奥さんとより戻せたりするんじゃないか……。

 それぞれの「代替不可能」な価値。ラストは西也、いすず、ラティファのメイン三人に集約される展開と予想するのですが、ラティファはどうなんだろうな。今話時点では、西也に寝て休んでるのがお前の役割みたいなこと言われてるのですが、ほら、今年、『アナと雪の女王』とかで、プリンセスのあり方が昔と今で違ってる(キリッ)とか語られたりしてたじゃないですか。京都アニメーションが描く、2014年時点の「プリンセス」の「代替不可能な」役割ってどんななんだろう。救出されるポジションこそが、物語におけるお姫様の役割だ! でも潔いですが、何か能動的にやって欲しい気も。

 そして最終局面で炸裂する「京都アニメーション」文脈。

 「サッカー場」が、疑似『涼宮ハルヒの憂鬱』でハルヒが語った幼少時に訪れた「野球場」になってるのだと思うのですよ。スタジアムと、そこを埋め尽くす何万もの人間繋がりで。数字も「五万人」で同じですしね。

 何回写経したかという、『涼宮ハルヒの憂鬱』の原点にして核心の、ハルヒの孤独の記述。ハルヒが自分には価値がないと気付いてしまった、幼少時の記憶の記述。


「あんたさ、自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?」
 何を言い出すんだ。
「あたしはある。忘れもしない」
 線路沿いの県道、そのまた歩道の上で、ハルヒは語り始めた。

「小学生の、六年生の時。家族みんなで野球を見に行ったのよ球場まで。あたしは野球なんか興味なかったけど。着いて驚いた。見渡す限り人だらけなのよ。野球場の向こうにいる米粒みたいな人間がびっしり蠢いているの。日本の人間が残らずこの空間に集まっているんじゃないかと思った。でね、親父に聞いてみたのよ。ここにはいったいどれだけ人がいるんだって。満員だから五万人くらいだろうって親父は答えた。試合が終わって駅まで行く道にも人が溢れかえっていたわ。それを見て、あたしは愕然としたの。こんなにいっぱいの人間がいるように見えて、実はこんなの日本全体で言えばその一部に過ぎないんだって。家に帰って電卓で計算してみたの。日本の人口が一億数千ってのは社会の時間に習っていたから、それを五万で割ってみると、たった二千分の一。あたしはまた愕然とした。あたしなんてあの球場にいた人混みの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも実は一つかみでしかないんだってね。それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思ってるクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯を食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやってる普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送ってる人もいるんだ、そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故? 小学校を卒業するまで、あたしはずっとそんなことを考えてた。考えていたら思いついたわ。面白いことは待っててもやってこないんだってね。中学に入ったら、あたしは自分を変えてやろうと思った。待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようと思ったの。実際あたしなりにそうしたつもり。でも、結局は何もなし。そうやって、あたしはいつの間にか高校生になってた。少しは何かが変わるかと思ってた」

 まるで弁論大会の出場者みたいにハルヒは一気にまくしたて、喋り終えると喋ったことを後悔するような表情になって天を仰いだ。

  谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』より引用



 ゼロ年代に出現した、普遍の名文ですね。

 以前から京都アニメーション作品には作品と作品を繋ぐ「文脈」が色濃くあるという話を折に触れて書いていましたが、京都アニメーション作品、この時のハルヒの絶望、自身の無価値感、それを乗り越えようとずっと作品を作ってるのだと思っています。『けいおん!』だって、上記の「あたしが世界で一番楽しいと思ってるクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。」を「日常の輝き」で乗り越える作品ですし、『中二病でも恋がしたい!』だって、ハルヒが抱いていたような宇宙人的、未来人的、超能力者的、異世界人的非日常の想像を、無意味なんかじゃないと乗り越える作品です。

 『甘城ブリリアントパーク』今話ラスト、順調にカウンタが増えていっていた時は、数字が上がったやったやった、という感覚でしかなかったのを、ラスト三時間であと279人足りないと分かった時に、ハっと気付くようになっています。一人一人の人間が、もの凄く大切だったんだ、って。

 幼少時の野球場での絶望を、キョンからの他の誰でもないハルヒだから好きなんだ、君は「代替不可能な特別」なんだって「『白雪姫』のキス」で承認されて浄化されるまでが『ハルヒ』ですが、『甘城ブリリアントパーク』で描こうとしてるのはその次、ハルヒは確かにキョンにとっての特別だった、だが、幼少時の野球場にいた、ハルヒ以外の四万九千九百九十九人も、それぞれに「代替不可能」で大切な存在だったんだよってことなんですね。無機的な数字に陥れられてしまう前の、代替不可能な人間の「輝き」を信じたい。一人一人の来場者が、ビッグデータに記録される数字の1じゃなくて、かけがえのない一人なんだよと。これを、「モブキャラまで可愛すぎる」で定評がある京都アニメーションクオリティで表現するとか。

 『境界の彼方』とはまた別アプローチで、金字塔『涼宮ハルヒの憂鬱』の「次」を表現しようとしていた、まこと凄い作品だったと思います(まだ最終回が残ってるけど)、『甘城ブリリアントパーク』。

→金字塔



→Blu-ray第3巻



→前回:『甘城ブリリアントパーク』第10話「もう打つ手がない!」の感想へ
→次回:『甘城ブリリアントパーク』第12話「未来は誰にも分からない!」の感想へ
『甘城ブリリアントパーク』の感想目次へ

【関連リンク:これまでの当ブログの京都アニメーション作品感想】

『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回の感想はこちら
『けいおん!!』最終回の感想はこちら
『氷果』最終回の感想はこちら
『Free!』(第一期)最終回の感想はこちら

『中二病でも恋がしたい!』(第一期)最終回の感想はこちら
『境界の彼方』最終回の感想はこちら