という訳で、公開初日に観てきた『劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE- 未来篇(公式サイト)』の感想です。

 ネタバレを含んでおりますので、まだ観てない方はご注意下さい。また、どうしても絡めて語りたい部分なので、『涼宮ハルヒの憂鬱』(アニメ版の範囲まで)と映画『涼宮ハルヒの消失』の内容のネタバレも含みますのでご注意ください。
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 『境界の彼方』という作品は、「妖夢を殺して生計を立てている異界師」、「牛丼を食べる栗山さん(牛肉、つまり牛を殺して人間は生きてる)」、「唯を殺してしまったけど、それでも生きてる栗山さん」などなどと、「誰かを殺して、誰かが生きている」という、ちょっとブディズム(仏教)チックな思想・雰囲気が根底にある世界観だと、ずっとTVシリーズの感想では書いてきました。

 そのテーマが最終的に、「栗山未来か、神原秋人のどちらかしか生きられない」という展開に収斂していき、最終的には栗山さんは一旦自分を犠牲にして(自分に境界の彼方を取り込んで)秋人の方を生かそうとしたんだけど、最終回のあの展開で、その二択そのものをブレイクした。栗山さんと秋人の両方がこの世界には存在できた。というラストでした。

 そこから、「過去篇」のラストシーンから繋がって、この完全新作の『劇場版境界の彼方 -I'LL BE HERE- 未来篇』は、「でも、戻って来た栗山未来には記憶がなく、過去の栗山未来を犠牲にした状態だった」、つまり、やっぱり「何かを犠牲にして何かが存在する」という世界のルールはブレイクし切れてなかった……という所から物語が始まります。

 さて、この「何かを犠牲にして何かが存在する」というテーマは、同じ京都アニメーション作品の『涼宮ハルヒの消失』を本歌としていて、『境界の彼方』はそこから一歩物語を進める作品なのだろう、というのが当ブログの解釈でした。京都アニメーション作品は他の作品も作品の枠を超えた何らかのテーマの連続性が見られると思っておりますが、一種の「メタフィクション」になっているという解釈ですね。

 『涼宮ハルヒの消失』では、キョンの選択の結果、消失長門(眼鏡をかけている)は救われなかった。でも、『境界の彼方』では、if消失長門(眼鏡をかけている)として描かれている栗山さんは救われた。そういう作品構造になっていると。

 この辺りのメタフィクションとして成立する根拠とその妙味に関しては、過去のこちらのブログ記事に書いておりますので、この記事を読み進める前に是非読んでおいて頂けたらと思います。↓


『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想)


 それらを踏まえた上で、『涼宮ハルヒ』シリーズと本映画との対応を考えると、『境界の彼方』TVシリーズラストでは、確かにif消失長門(眼鏡あり)である栗山さんも存在して良いよ、というラストシーンに辿り着けたんだけど、今度は通常長門(眼鏡なし)が存在できなくなっちゃった、という起点が、この『劇場版境界の彼方 -I'LL BE HERE- 未来篇』だと思うのですね。結局、


 記憶を無くした日常の栗山未来―呪われた血の非日常の栗山未来


 このどちらかを犠牲にすることでしか成り立たない、という所に、ちょっと物語が後退してしまった所から始まっているのです。

 それは、『涼宮ハルヒの消失』において、


 消失長門(眼鏡あり)―非日常もあるSOS団の長門(眼鏡なし)


 のどちらかを犠牲にするしかしないと、世界は成り立たない。と重なります。

 なので、この映画前半の、栗山さんの幸せを願って栗山さんに呪われた血関係の非日常のことを教えたくないと葛藤する秋人……という構図は、『涼宮ハルヒの消失』において、消失長門か、通常長門か? どちらかを選ばなければならなかったキョンと重なる構図なのですね。そこまで重なった上で、非日常要素なんてない方が栗山さんは幸せになれる。非日常要素がない消失長門で十分。栗山さんは文芸部(=SOS団の活動の場の象徴として『涼宮ハルヒ』シリーズを意識して本歌にしてるのは上記の記事に書いた通りです)になんか入らない方が良い。そういう決断をしてしまっているのが、「未来篇」冒頭の秋人です。

 さて、なのですが、上記の非日常要素を切り捨てて、日常栗山さんだけで良い、という「消失世界」のみ肯定するかのような秋人の態度は、苦しいです。何故なら、秋人自身が日常と非日常の要素の複合体である、というか境界領域である、「境界の彼方」であるから。

 劇中の「境界の彼方」が何なのか? という点については、今回の映画で「こちらの世界とあちらの世界を繋げる門」という新しい情報、というか視点も追加されましたが、基本、TVシリーズの最終回考察で書いた、こちらの解釈と変わっておりません。何らかの、一種の「虚構実現化能力」を宿した存在なんだろうと。それこそ、『涼宮ハルヒの消失』で長門が使った類の。こちらも、この記事を読み進める前に、読んでおいて頂けたら幸いです。↓


境界の彼方/第12話(最終回)感想(少しラストシーンの解説含む)


 というわけなので、栗山さんに対して、日常か非日常か? 虚構か現実か? どちらかしか選べない上で、日常で虚構の方を選ぶよ、という態度を取ってしまうことは、自分自身がその両方の合わさった存在である秋人にとっては、自己否定になってしまうわけです。片方しか成り立たない世界では、自分自身も生きられないので。これは、苦しいです。

 今回の映画では、この「どちらかしか選べないという思想の元に、片方だけを『アイデンティティ』の名目で選んでしまって(選ばせられてしまって)、結局自己否定に苦悩する」キャラクターが主に三人描かれていて、


・「あちら」と「こちら」の境界存在である秋人
・現実と虚構の、非日常と日常の境界存在である栗山さん

 そして、

・人間と妖夢の境界存在である泉

 です。

 主には、この三人を救済することが、本映画のドラマのエッセンスとなります。

 で、どうやってこのいわば「境界領域」の存在であるがゆえに、「どちらかしか選べない。何かが犠牲になることで、何かが存在する」というテーゼが支配的な世界だと排斥されてしまう存在である三人が救われるのか? というと、今作では、「一緒にいてくれる人の存在」という解答なのですね。

 秋人にとっては栗山さんが。

 栗山さんにとっては秋人が。

 ここまでは物語上それしかない、という感じですが、

 泉にとっては博臣が。

 となるのは、オオッという感じでしたね。

 泉を追いかけるんじゃなくて、寄り添って苦悩を分かち合うべきだったんだ、みたいな台詞はグっときましたね。

 上記三人の、個人のレベルで「両方あって良いのか?」という話が、世界規模での「両方あって良いのか?」という話に繋がってもいる作品です。「こちら」の世界と、(妖夢とかの世界らしい)「あちら」の世界と両方あっても良いのか? みたいな話ですし、メタには、『涼宮ハルヒの消失』において、消失世界と、通常世界と、別に両方あっても良いんじゃないか? みたいな話ですね。『涼宮ハルヒの消失』は、キョンの決断によって、片方が選ばれて、片方が消失するという、その一種の無常観がエッセンスだったわけですけれど、両方が併存するような世界のあり方もあるんじゃないか? みたいな所まで、『境界の彼方』という作品では踏み込んでいる。

 そんな、両方の世界とか、境界領域とかでも「存在していいよ」って言ってくれる、「一緒にいてくれる人の存在」という解答は、一種の「他者からの承認」でもあります。最終的には、明示的に「愛」という言葉で表現されてる類のものです。

 この、表解答は、秋人にとっての栗山さん、栗山さんにとっての秋人……という男女の愛の形なのですが(冒頭の秋人と美月の桃太郎の会話の示唆から繋がって、この片方が上位なのではない、双方向で同格で二人でという恋愛の形良いですね)、補強解答として、お母さんの存在、母からの、産んでくれた存在からの愛が描かれている作品でもありました。「あちら」と「こちら」の門番らしい秋人のお母さんも秋人の存在を肯定していたし、栗山さんの指輪がお母さんという存在そのものだったという展開で、「生まれてきて良かったんだ」という生存、ここに存在していること、映画の副題的には「be」の部分(「存在する」という動詞。ドイツ系の存在論の哲学で重要だったりします)、への祝福を描いている作品なのですね。

 TVシリーズのラストシーンで、そのままでは切り捨てられる存在だった『涼宮ハルヒの消失』の消失長門と、そのifである栗山さんに「存在していいんだよ」って言ってあげる所までは描いていた(たぶん、プロモーションでそこまで計算してると僕は思うのですが、その物語を受けて、現在『長門有希ちゃんの消失』のアニメが放映中だったりします)。

 この映画では、そこからもう一歩。消失長門(眼鏡あり)もいて良いけど、だからといって非日常要素がある通常長門(眼鏡なし)を否定するでもない。そういう「境界」を超えて、次の世界へ。だから、ラストシーンの秋人のキー台詞は、(眼鏡の栗山さんももちろん好きだけど)眼鏡なしの栗山さんも好きだ……というものなのですね。虚構と現実を両義のまま肯定。人間と妖夢の併存の肯定。作品Aと作品A’の両方の存在を肯定。エトセトラ……という部分までかかって全てを救済している、とても美しいラストシーンだったと思います。

 最後に、上記TVシリーズ最終回の考察記事でも付記しましたが、『涼宮ハルヒの消失』の消失長門ifのハッピーエンドverとしての栗山さんと、バッドエンドver(主に恋愛面に関して)の美月(CVも長門と同じ茅原実里さんがおそらく意図的に配役されている)……という構造は、美月の方を、博臣の言葉で救っているという構造を取っていました。

 恋愛ネタ、愛憎ネタが絡む要素として、もう一層奥に弥勒と泉の愛憎劇があるのですが、もう、弥勒の目的は泉と一体化して二人だけの世界にするとかいう、まんまゼロ年代評論とかで散々言われた「キミとボク」の「セカイ系」の発想で、「古い」んですね。死人が語るという表現になってるのも、「そこはもう『物語』としては終わった地点」という表現に見えます。ある意味、『涼宮ハルヒの憂鬱』のクライマックスで、ハルヒとキョンだけの閉鎖空間に閉じこもりそうになった段階の思想ですが、そこはもう、「他者も存在する現実に帰還」した後の物語を我々は追ってるし、描いているのだと。

 で、そういう「セカイ系」にはもちろんならないし、現在の主題でもある「境界存在、両方いてイイ」に辿り着く意味でも、美月が「私にもっと力があれば」という方向に行きかけた所で、博臣が言うんですね。それは違うと。

 力を求めて、ゼロサムのパワーゲームに持ち込むんじゃないんだと。「あちら」と「こちら」がパワーゲームで争うんじゃないんだと。妖夢と人間がパワーゲームで争うんじゃないんだと。『憂鬱』の世界と『消失』の世界がパワーゲームで争うんじゃないんだと。美月(バッドエンドver消失長門)は、美月のままでいてイイんだ、と。

 泉と同一化する、世界も、泉と自分以外いない世界にする……という方向にいってしまった弥勒のカウンターで、ただ、「自分なりにいて良い」という有り方。両方の世界があって良いというあり方。博臣は、「一緒にいてくれる存在」として(主には泉に)寄り添うというポジションでも、ここで選ばれなかった存在なりの生き方を美月に肯定してあげるというポジションでも、今回の映画では作中解ポジションでしたね。なんか、博臣めちゃめちゃカッコ良かったですね。

 そんな感じで、「全て描き切った」というような豊かさが感じられる、祝福に包まれているような作品でした。メッセージ性は鮮烈で、確かに、「あちら」も「こちら」も、妖夢も人間も、何らかの境界存在も、眼鏡もノット眼鏡も、虚構も現実も、選ばれた人間も選ばれなかった人間も、エトセトラエトセトラも、みんな「いて良い」世界で、「一緒にいてくれる存在」なんかを拠り所に……、まだまだ「どちらかしか存在できない」「パワーゲームで人同士や世界同士が支配し合う」方の力学が強いこの苦しい世界を何とか生きていけたらな……という視聴後の気分になれる作品でありました。制作陣に感謝を。

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劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE- 未来篇 [DVD]
種田梨沙
ポニーキャニオン
2015-10-07


→前回:境界の彼方/第12話(最終回)感想(少しラストシーンの解説含む)
『境界の彼方』感想の目次へ

【関連リンク:これまでの当ブログの京都アニメーション作品感想】

『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回の感想はこちら
『けいおん!!』最終回の感想はこちら
『氷果』最終回の感想はこちら
『Free!』(第一期)最終回の感想はこちら

『中二病でも恋がしたい!』(第一期)最終回の感想はこちら
『境界の彼方』最終回の感想はこちら
『甘城ブリリアントパーク』第12話の感想はこちら
『響け!ユーフォニアム』の感想はこちら

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