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 アニメ『無彩限のファントム・ワールド(公式サイトニコニコチャンネル)』第13話(最終回)「永遠のファントム・ワールド」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 ラスボスのエニグマさんは、人間もファントムも超えた「特別」な存在を目指していた点で、非常に初期の(「憂鬱」が色濃かった頃の)『ハルヒ』的な存在です。「人間どもには興味はないわ」と丁寧にハルヒ台詞まで言っているのも演出上の意図かと思います。

 そんなダークサイド『ハルヒ』的な厄災が、ある日僕らの「日常」(今作で、「日常」の象徴として同京都アニメーション作品の『けいおん!(!!)』や『たまこまーけっと』のオマージュ表現が見られるのはこれまでの感想で何度か書いてきた通りです)を壊しにかかってきた時、2016年(アニメ『ハルヒ』初回放映から10年)時点の我々は、どうやって立ち向かうことができるのだろう、というのを描いたと思われる最終回。めちゃめちゃ熱かったです。

 ◇◇◇

 まず前提として、うちのブログを長年読んで下さってる方には折に触れて繰り返し書いてきた話なのですが、京都アニメーション作品というのは、「日常」に関する、作品をまたいだテーマみたいなものがずっと受け継がれている(と当ブログでは解釈している)ということ。

 日本は先進国と言われてるはずなのに、虚無感はつのり年間の自殺者は3万人とかだったりする。そんな世界で、我々は我々の生きている「日常」にどのように「輝き」や「幸せ」を見つけていけば良いのか? ずっとそういう視点が作品の根底にあった(主に)ゼロ年代作品。そして「日常」の意味が変わってしまった2011年の東日本大震災以降は、改めて「日常」の意味・意義を様々な角度から問うような作品を発表し続けています。

 そういう流れの大本・本歌になっているのが、世間的なヒットの度合いからも、物語上の強度の観点からも、2006年の『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品です。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』のラストで、キョンが帰りたいと願った場所、


「俺は戻りたい」
 巨人は校舎の解体作業の手を休めていた。
「こんな状態に置かれて発見したよ。俺はなんだかんだ言いながら今までの暮らしがけっこう好きだったんだな。アホの谷口や国木田も、古泉や長門や朝比奈さんのことも。消えちまった朝倉をそこに含めてもいい」
「……何言ってんの?」
「俺は連中ともう一度会いたい。まだ話すことがいっぱい残っている気がするんだ」

 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』より引用



 このキョンが帰りたいと願った「場所」、SOS団に象徴される「日常」と「非日常」が縫合された「非日常的日常」という「場所」の意義。それにはやっぱり意義があったんじゃないか? ということを京都アニメーションは後続作品でずっと描き続けていると思います。

 全作品を詳述するほど誌幅は取りませんが、京都アニメーション作品で、『涼宮ハルヒの憂鬱』を本歌に、色々と文脈を進めながら表現している作品群があるんだ、という話を書いた記事をここでいくつか参考にあげておいてみます。↓


 『境界の彼方』にはif『消失』版・長門有希である栗山さんの救済の物語という視点があるという話はこちら。↓

『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想)


 『甘城ブリリアントパーク』には幼ハルヒが絶望した野球場の残り49999人も、それぞれに「代替不可能」で大切な存在だったんだというメッセージがあるのではという話はこちら。↓

甘城ブリリアントパーク/感想/第11話「これでもう心配ない!」(ネタバレ注意)


 『響け!ユーフォニアム』にはハルヒ的な「特別」が得られなかった檀上に上がれなかった人たちにも「ハルヒ性」を見出す話なのではという話はこちら。↓

響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)


 などなどの「ハルヒ」文脈の流れを踏まえた上で、2016年の「ハルヒ」文脈最新作品が『無彩限のファントム・ワールド』で、今回はその最終回に関する文章です。

 ◇◇◇

 最終エピソード。

 主に、エニグマ襲来によって主人公たちが唐突に奪われたもの。奪われてしまったゆえに、主人公たちが取り戻したいと願うものとして、


1. 晴彦のお母さん
2. 『けいおん!(!!)』的日常
3. 「虚構」存在だけど、「日常」的に側にいてくれた陽気なルル



 の三つが主には描かれます(物語上の深い部分ではもっとあるかと思いますが)。

 順に軽くこれまでの「京都アニメーション」文脈も込みで確認してみると、


1. 晴彦のお母さん

 本作での「お母さん」要素は、京都アニメーション文脈的には『たまこまーけっと』〜『たまこラブストーリー』を意識しているのが見て取れます。

 『たまこまーけっと』という作品には、「商店街の『日常』を維持するために、たまこの亡くなったお母さんのことには触れない」という物語構造があるという話は、何と言っても丁稚さんのこの一連の「『たまこまーけっと』を振り返る」記事を参照して頂けたらと思います。↓


『たまこまーけっと』を振り返る/ねざめ堂


 付け加えると、(オフ会で丁稚さん本人と話してこの解釈はお伝え済みなのですが)たまこがたまこ個人の物語として「亡くなったお母さんへの気持ち」を口に出して昇華できるのは『たまこラブストーリー』のラストシーンまで待たなくてはならなかったりします。

 『たまこラブストーリー』のラストシーンでたまこがもち蔵に伝えた気持ちは、全部亡くなった母親に向けて伝えたかった言葉……という演出になっています。

 そんな『たまこまーけっと』〜『たまこラブストーリー』のラインを意識すると本作の「お母さん」要素の扱い方も出色で、晴彦がいなくなった本当のお母さんに自分の気持ちをまだ伝えられないまま、という状況は、つまりは、『たまこラブストーリー』のラストに辿り着けないまま、当のお母さんを奪われそうになっている(入院してる病院がエニグマに襲撃されている)シチェーションだということになります。これは、何とかして乗り越えたい。今作の晴彦のみならず、『たまこまーけっと』のたまこの想いの意義までかけて、何とか想いを成就させてやりたいと(視聴者が)思ってしまう、物語上の「タメ」という感じかと思います。


2. 『けいおん!(!!)』的日常

 『京都アニメーション』が、しんどいこの世界だとしても、「幸せ」とか「輝き」とか、「日常」の中に見つけられるんじゃないか、と描いたゼロ年代の金字塔のアニメーション作品が『けいおん!(!!)』(感想)です。

 何度もこの感想で書いてきた通り、京都アニメーション的「日常の輝き」を切り取った大事な回として『けいおん!』第4話「合宿!」の回があり、この回では澪が花火をバックにエアギターする唯に大事なものを見つける(「日常」の中にも「輝き」はある)というシーンが描かれます。

 本作の最終回放映終了後のCMから察するに、Blu-ray第7巻に収録の未放映エピソード扱いになったようですが(笑)、本作最終章で、「夏休みの合宿」に関してと、主人公たちが「それを大事に思ってること」が繰り返し描かれているのは、上記『けいおん!(!!)』のエピソードを意識してるからかと思います。厳しい世の中だとしても、あの「日常」の「輝き」を願ってるし、信じたい。そっちに向かっていきたい。だけど、あの「夏休みの合宿」に辿り着くには、エニグマの襲来という「日常の破綻」イベントを何とかしないといけない、というシチェーションだということですね。


3. 「虚構」存在だけど、「日常」的に側にいてくれた陽気なルル

 「非日常(虚構)」的存在なのだけど、そんな存在が「日常」を願ってしまう。だけど全てが過度に「日常」側に振れすぎると何かおかしい……という物語も、近年の京都アニメーション作品で繰り返し用いられてきた物語文法です。

 こちらのラインの大本は映画『涼宮ハルヒの消失』で、「非日常(虚構)」的存在の長門有希が、「日常」を望んでそういう世界を作り上げてしまう……というのが起点の作品です。

 その後、ほぼダイレクトにテーマ的には『涼宮ハルヒの消失』アフターだった『境界の彼方』でも同様の構造が描かれたのを経て(詳しくは先ほどのリンク:『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想)を参照)、今作、特に第10話「小さいルルの大きな夢」(感想)のルルの物語で、この構造のリフレインが描かれます。

 「京都アニメーション」文脈的には、『消失』長門的なポジションの子。「非日常(虚構)」的存在のルルが、「ラムネをお腹いっぱい飲みたい」と「日常」の世界を願って、夏野らむねさんになってしまう。だけどラストでは……というエピソードですね。

 また、本作最終エピソードでもその虚構性(自由奔放な感じ)が失われてしおらしくなってしまうと、何か変だ……というのが描かれます。

 その「違和」を解消することと、エニグマ打倒がシンクロしてくるラストの展開なわけですが、ここは本作の物語の核心なので後述。いやー、京都アニメーション作品はまた「物語」を一歩進めてきたなー、という感じですね。


 ◇◇◇

 と、これらをエニグマさんを打倒して取り戻したい&この課題を昇華したいわけですが、状況的には非常に絶体絶命です。

 晴彦は特殊能力を奪われて「日常」のただの人になってるわりに、エニグマさんは冒頭で述べた通り、人間もファントムも超えた「特別」な存在を目指している、非常に初期の(「憂鬱」が色濃かった頃の)『ハルヒ』的な存在です。エニグマが奪った晴彦の能力がそもそも、「内面の虚構的イメージを実現化する」という、『ハルヒ』の世界改変能力。続く『境界の彼方』の「境界の彼方」能力に相当しています。エニグマVS晴彦は、いわば、世界改変能力とか持ってる『ハルヒ』VSただの人……です。これは、厳しい。

 しかし、しかし。

 ここから逆襲するわけですが、その逆襲要素と直接リンクする、特にこの『無彩限のファントム・ワールド』という作品でテーマとして描かれてきたもののエッセンスをここでもう一度確認しておきましょう。


A. 「クラインの壺」のように、人間(日常)とかファントム(非日常・虚構)とか、同一の大本から分岐した「見え方の違い」に過ぎない
B. 「代役」でもいいじゃん? という考え方の価値
C. 誰にも評価とかされないけど、己が抱いてしまった「本懐」を尊重するということ



 辺りが、主要なテーマだったかと思います。


A. 「クラインの壺」のように、人間(日常)とかファントム(非日常・虚構)とか、同一の大本から分岐した「見え方の違い」に過ぎない

 物語冒頭のアバンの「クラインの壺」の話はまんまそのネタですし、他にも衒学パートでユングの「集合的無意識」の話を扱ったり(ざっくりとは大本の集合的無意識があって、現実に表出してる意識はその派生に過ぎない、見え方の違いに過ぎない的なお話)した箇所がありました。

 第10話では大本は同じ存在なのに、「非日常・虚構」存在であるルルと、「日常」存在である夏野らむねさんに、見え方の違いで分かれるというネタもあったりしました。

 あと、細かいのだと前回第12話サブタイトル「母は帰りぬ」の「ぬ」が、完了の助動詞「ぬ」の終止形(お母さんが帰ってきたという意味)と、打消しの助動詞「ず」の連体形(お母さんが帰ってこなかったの意味)と両方に解釈可能で、ここでも元は同一存在(表記上は「ぬ」で同じ)だけど、主観側の受け取り方次第で別の見え方(完了になったり打消しになったり)になるネタになってたりと、「ちょっと描かれてる」くらいのものも含めると無数に本作品に組み込まれてる要素でした。

 これらの要素が、十全な積み重ねの上でラストの逆襲要素とリンクしてくるのですから、燃える展開ですね。


B. 「代役」でもいいじゃん? という考え方の価値

 第3話「記憶コピペ作戦」(感想)で、記憶をコピペして(舞の記憶の模造、代替に過ぎない)、舞の「代役」に収まる晴彦。

 その「代役」的なあり方に対して、「いわば川神さんのバックアップ。オリジナルがピンチになったらあなたの出番ですよ」という姫野の先生の台詞があったりするのですが、これは作中でポジティブな位置付けの台詞っぽかったですね。

 また、「代役」テーマには、京都アニメーション文脈的には、『甘城ブリリアントパーク』(感想)という作品の存在も外せません。西也より劣った支配人代行であるいすず(いすずからすると「私が死んでも代わりはいるもの」状態)はけっこう悩むのですが、本作の「代役」でもいいじゃん? という価値観は、西也がピンチになった時に、代役のいすずがいるからイイんだ、みたいな話ですね。

 本作に戻ると、第4話「模造家族」(感想)では玲奈の本当の家族の「代役」である「模造家族」にも意味はあったんじゃないか的なラストが描かれたり、第6話「久留美とぬいぐるみ王国」(感想)で、晴彦(小糸さんの元へ走って行ってしまってる)の「代役」としての久留美さんの意義が描かれたり、ちょっとギャグっぽいのだと、第8話「猿温泉を突破せよ!」(感想)のラストで、お猿ファントムの奥さんの「代役」として晴彦が収まるんですけど、まあそれでいいじゃん? みたいに(笑)結ばれていました。

 この「代役」でもいいじゃん? 要素も細かいのをあげると本作の様々な箇所に見られて、その積み重ねが、ラストの逆襲要素とリンクしていくという構成になっていると思います。


C. 誰にも評価とかされないけど、己が抱いてしまった「本懐」を尊重するということ

 ざっとあげるだけでも、


・第1話(感想)の電柱付喪神の「リンボーダンスしてほしい」
・第9話(感想)の亜弓先輩が抱いていた「演劇部に地区予選突破の栄光を」
・第10話のルルの「ラムネをおなかいっぱい飲みたい」
・同第10話の花火玉ファントムさんの「一花咲かせたい」


 などなどが、「誰にも評価とかされないけど、己が抱いてしまった「本懐」」要素です。こういうものを(市場価値ないでしょ! とか言って)やみくもに否定しないで、尊重してあげる、晴彦たちがその願望に寄り添ってあげる、肯定してあげる……というのが、本作の一つのフォーマットでした。

 じゃあ、当の主人公晴彦が願った「誰にも評価とかされないけど、己が抱いてしまった「本懐」」が何だったのか? というのがラストの逆襲要素とリンクしてくる展開だったわけですね。熱いです。


 ◇◇◇

 そんなこんなで、これまで積み重ねて描いてきた作品のテーマが、集約されての、ラストの逆襲劇。

 相手のエニグマさんは、ぶっちゃけ『ハルヒ』です。虚構実現化能力とか持ってやがるし、「特別」な存在だし、もうとにかく強いです。

 そんな大いなる相手に対して、くり出すことが可能な、「ただの人」たる我々の2016年時点での連撃。

 一撃目。

 ある日大きな厄災・破綻はやってきて、虚構実現化能力、それに象徴される「虚構」的、「非日常」的なものの意義は奪われた。「虚構」の産物、アニメーションとか意味がないって言われた気がした。そんな2011年を経過した2016年現在。

 自分自身に失われていたとしても、虚構・非日常・幻想を生み出す力は、ルルが持ってくれていた。まだ死んでなかった。

 「クラインの壺」のように、人間(日常)とかファントム(非日常・虚構)とか、同一の大本から分岐した「見え方の違い」に過ぎない……が炸裂。シンプルに、ルル=児童時間(ちょうど十年前くらい)に見ていた絵本(虚構)の産物ということで、『ハルヒ』という作品の比喩なのでしょう(抑圧していた「自由奔放さ」の産物というのも、ハルヒ(自由奔放な少女)的)。『ハルヒ』=虚構は、ずっとこの厳しい現実の裏側にいてくれた。我々の主観の方が要因で、見えてなかった時期もあったかもしれないけれど。まだ、「虚構を生み出す力」は死んでなかった。

 そんな彼女=ハルヒ=ルルからの、「虚構を生み出す力」・「虚構の意義を現実に反映させる力」の再譲渡は、十年越しに描かれる「白雪姫のキス」。十年前に『ハルヒ』最終回で描かれた、日常(キョン)と虚構(ハルヒ)の「契約」のシーンをもう一度。クラインの壺の見え方の違いのように、ずっとすぐ側にいてくれた「虚構」と再契約。まだアニメーション、創るんだよ。

 二撃目。

 そうは言っても、ルルはハルヒじゃない。ハルヒより劣る「代役」に過ぎない。

 この『無彩限のファントム・ワールド』という作品も、金字塔『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品には及ばない「代役」に過ぎないのかもしれない。

 そもそも、ハルヒのような本物の「特別」な人間に対して、矮小な我々の生自体が、「代役」めいた意味しかないのかもしれない。

 だけど、その点については、本作で描いた。「代役」でもイイんだ。と。取り戻したいものが、帰りたい場所があるんだから。「代役」でもいいじゃん? という考え方の価値、炸裂。

 ルルという「代役」との、再契約の、(本家のシーンと比べたら)「代役」的な「白雪姫のキス」シーン。

 三撃目(これでラスト)。

 最後に、「誰にも評価とかされないけど、己が抱いてしまった「本懐」を尊重するということ」について。

 晴彦が抱いた本懐について。

 それは、ルルという虚構。そんな存在にもこの世界にいてほしい、という願い。

 ルルなんて、児童時間に読んだ絵本作品のキャラの模造に過ぎない。『ハルヒ』の代役に過ぎない。そんな二次創作的存在には、世間的評価なんてないのかもしれない。「リンボーダンスしてほしい」並みに、市場世界では無価値な願いなのかもしれない。

 それでも、「いてほしい」。『消失』長門の二次創作に過ぎないかもしれない『境界の彼方』の栗山さん。『ハルヒ』の後追いに過ぎないかもしれない、後続作品。それでも、この世界には「存在していてほしい」。それが、晴彦の本懐。

 ラスト、エニグマ=本家『ハルヒ』的存在が言います。忘れるな、自分もその能力は使えるんだと。当たり前です、あっちが本家『ハルヒ』ですから。

 それに返した晴彦の言葉が、この作品の、そして「代役」的にでも這うようにギリギリ生きてる我々視聴者の解答です。それは、人は成長する、ということ。みすぼらしい本懐で作り続けた二次創作だとしても、十年続けると、成長してるのです。チャーミングマルコシアスが、やたらと作画カロリー高いグレイトな絵に。その成長を、本家『ハルヒ』に叩きつけよう。作画技術とか、めっちゃ向上してるんだから!

 かくして、エニグマという厄災は、乗り越えられる。最後まで、本物の母と過ごす時間も、偽物、「代役」的母として過ごしたエニグマとの時間にも、意味はあったと、本家『ハルヒ』とその「代役」的「虚構作品」の意義を、両方尊重するようにして。

 こうして、取り戻した、「母との風景」・「『輝いた』(『けいおん!(!!)』的)日常」・「そんな『日常』と表裏一体でいてくれた『非日常(虚構)』存在のルル」。

 それらが揃ってある場所こそが、「日常」と「非日常(虚構)」が同居する、きっと我々が「輝き」とか「幸せ」とか見つけられるかもしれない、「SOS団的・非日常的日常」。

 あれから十年経ったけど、もう一度言おう。

 キョンがハルヒと一緒に帰りたいと願った場所。「日常」と「非日常(虚構)」が縫合された、我々が「輝き」や「幸せ」を感じられるかもしれないと信じた場所は、嘘じゃ、無駄じゃなかったんだよ、と。

 ある日突然大きな厄災や破綻がやってくることを知った後でも、その願いは壊れてなかったんだよ、失われてなかったんだよ、と。

 『無彩限のファントム・ワールド』最終回のラストは、晴彦のこんな言葉で締めくくられています。


 俺達は幻想と現実が曖昧になった不安定な世界を生きている。だけど、俺は、この世界がけっこう気にいってる。


 現実はしんどい。2016年になって、10年前よりもますます厳しい気もする。でも、それでも、まだこの世界を肯定しよう。

 ◇◇◇

 ちなみに、当記事と合わせて読むとお勧めなのは、丁稚さんのこちらの記事二つです。↓


『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(前編)/ねざめ堂

『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(後編)


 わりと、京都アニメーション作品好きの方のみならず、アニメーション好きの方に広く読んで頂きたい感じです。

 やや大げさかもしれませんが、(もちろんこれで全てなどとは言えないのですが)京都アニメーション作品がここ十年ほど周辺作品に与えた影響は誰しも認めるところというのも加味すると、ここ十年の日本アニメーションの「物語的」方向性のようなものが、当記事と上の二つと両方じっくり読んでみると、しみじみと感じられたりするやもしれません(^_^.

 というか、そんな記事になってたらイイなーと。やっぱり、アニメーション作品は、イイですよね。

 ◇◇◇

●補遺

 また、近年の京都アニメーション作品は、『ハルヒ』の時ほどこの世界の中での「自身の無価値観」の払拭&「輝き」の回復の拠り所を男女二者間の恋愛に帰着させることを避けている、という同ねざめ堂さんのこちらの記事も今作のラストに繋がってきたりします。↓


『響け!ユーフォニアム』を振り返る 前編:他者の異質性の肯定/ねざめ堂

『響け!ユーフォニアム』を振り返る 後編:ポスト・キョンとしての黄前久美子/ねざめ堂


 『ハルヒ』における、キョンとハルヒの関係は、(いちおうは)男女二者間の恋愛関係的なものでした。

 そうなると、本作で晴彦にとって男女間恋愛的な意味で「代わりのいないあなた」という位置づけのヒロインは舞なのですが(第11話の感想より)、上記の記事の話のように、近年の京都アニメーション作品は、男女二者の恋愛の関係性にこの「日常/非日常」世界の肯定という物語を収斂させることを避けている傾向があります。

 ゆえに、『ハルヒ』を十年ぶりにリフレインさせるというだけの意図なら本作最終回の「白雪姫のキス『再び』」のシーンのキスの相手は舞となるのが自然な感じもするのですが、その相手があえて(晴彦の本命はという観点からすると)舞の「代役」であるルルになってるのかなと。ここでも、十年で「物語」が進んだ結果、近年の京都アニメーション作品は『ハルヒ』的「特別」性とは異なる、「代役」的存在なりの「特別」性・「ハルヒ」性を模索し始めているのが見てとれると思ったのでした。

 この「補遺」の話の関連記事としてはこちら。↓

響け!ユーフォニアム番外編「かけだすモナカ」の感想〜椅子に座れなかった存在への抱擁(ネタバレ注意)

→ハルヒ@電子書籍



→Blu-ray



→前回:『無彩限のファントム・ワールド』第12話「母は帰りぬ」の感想へ
『無彩限のファントム・ワールド』感想の目次へ

【関連リンク1:当ブログの2015年アニメーション作品ベスト10記事】

2015年アニメーション作品ベスト10〜共同体から零れ落ちた人間にも、それまでとは違うカタチなりの祝福を(ネタバレ注意)

【関連リンク2:これまでの当ブログの京都アニメーション作品感想】

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