ネタバレ注意です。
「喪失」的な出来事を受けてどうするか、という部分が、ウィンダミア王国サイドと惑星ラグナサイドで対照で描かれていると感じた一話でした。
ウィンダミア側における王国に空いている巨大な穴(実行者がウィンダミア王国側なのかどうなのか現時点で真相は謎)、ラグナ側におけるメッサーさんの死、がそれぞれ「喪失」ということになると思うのですが。
ウィンダミア側は犠牲者意識が先行して、ある意味過去に囚われて、何かが停滞したまま全宇宙に向けて侵攻開始。
一方で、ラグナ側は、隊長がメッサーさんと飲もうと思ってたお酒をチャックさん(まだ生きてる人)と飲むシーンが象徴的ですが、故人の生きた証を踏まえた上で、意識が未来側に向いている。犠牲者の「魂」みたいなものも想定するなら、ウィンダミア側がなんか停滞してるような印象を受けるのに対して、こちらは伝統文化にのっとって循環させるということをやっている(死者の魂はクラゲになる的な話の部分)。
あるいは、ウィンダミアの老王と、メッサーさんも対照になってるのかな。老王は過去に囚われてこの局面でも自ら軍の指揮を執ると出てきて(執着のように映る)、メッサーさんは自分が死んだ後は残された人達が囚われず進めるように、部屋とか全部片付けていた。
ウィンダミア側が年寄りが出張ってるのもそうなのですが、鎖国的な日本VSグローバリズムみたいな比喩もあるであろう本作。鎖国的な日本っぽいウィンダミア王国の方が敵側ポジションなのが面白い(というか皮肉っぽくしてるのかもしれないですが)。グローバリズムにさらされた末、逆ギレして全宇宙バール化してコントロールするとか、自国の価値観で逆に世界(宇宙)を染めようとしている滑稽さ。
時世がら、今季のアニメ作品だと『クロムクロ(感想)』なんかも日本VSグローバリズムな比喩的構図がある作品だったりですが、『マクロスデルタ』は(今話まで時点の)ウィンダミア王国の現在のダメな日本っぽさ、老人が出張って積極的平和主義だクールジャパンだみたいな流れに批評的な視点が感じられてエッジがあるなと思います。
という流れで、ダメな感じの日本的なウィンダミア王国出身で、グローバリズム(世界というか宇宙を席巻するワルキューレ楽曲)側に移動してきたフレイアさんが、閉塞した視点を変えてくれそうで物語は終盤へ。やっぱり、停滞は停滞の渦中にいる人からはいかんともしがたいということで(ロイドさん・キースさん同盟の限界)、一度外に出た人の視点・助力がないとダメなんだよな。
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【関連リンク2:当ブログの2015年アニメーション作品ベスト10記事】
→2015年アニメーション作品ベスト10〜共同体から零れ落ちた人間にも、それまでとは違うカタチなりの祝福を(ネタバレ注意)