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 アニメ『クロムクロ(公式サイト)』第11話「闇に臥したる真」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 ここしばらくの「すれ違い」要素。

 とくに各々が「見たいものを見てしまう」がゆえ(コメディな感じでこの現象が表現されていたのは前回の茉莉那先生のパート)、Aさんが見ているものとBさんが見ているものがあまりに違い、「すれ違う」。

 今話で主に描かれたのは、過去の真実に関する解釈がフスナーニと剣之介で絶望的に違っているということ。お互い、自分はこう見る、いや自分はこう見るということを主張してすれ違ったまま殺し合うしかない。

 そんな、どっちが正しいのか、何が正しいのか分からないので、周囲(視聴者も含む)が揺さぶられる中、再び描かれる「信じる」というキーワード。


 「君が生きた時代から大きく世界は変わった。だがね、信じてほしいんだ。同じ人として」(薬師和尚@第3話)


 第3話(感想)で剣之介がこの時代の人々を信じてくれたお返しのごとく、この揺さぶられる状況でも、由希奈の母も由希奈も剣之介を「信じる」というのが美しかったですよ。

 剣之介自身が自分(の記憶)に自信がなくなってる状況なので、信じがたい自分を他人が信じてくれているという熱いシチェーションでもあります。

 今話のもう一つのエッセンスと感じるのは、これはソフィーが「葉隠」を持ち出した辺りから続いている「サムライ観」の話の流れだと思うのですが、窓越しの銃撃を行う(愉悦を伴ってるようにも見える)フスナーニと、フスナーニを刺殺した時に震える剣之介とが対照として描かれていた部分。

 当事者性がないフスナーニと当事者性がある剣之介みたいな対照でしょうか。

 フスナーニ側はロングアームも遠隔からの自動操作で当事者性がない演出だったので、リアルとの比喩も持ち出すなら闘争(戦争)における「殺人ドローン」VS「刀での斬り合い」みたいな意図だったのかなと。(ここにゲームに興じてる赤城君のパートが、「ゲームの中の戦争」=「当事者性の欠如」でリンクしてくる。)

 刀で斬り合いの方が野蛮とも言えそうですが、反面「人を殺す」ことに当事者性が、実感が伴いやすいのはこちらの方かと思います。そう考えると、自爆した敵(「ハラキリ」の比喩)、ソフィーの「葉隠」、謎の信長アニメとかだけで残ってる模造的なサムライ……などなどで描いてきた「サムライ観」の話。一つは、「当事者性=サムライ的」って感じで描いたのかなと。

 ラストは「人を殺す」当事者性を共有してしまった剣之介と由希奈の、別の意味での当事者性イベント、カレー、餃子という、これまで「食の場の共有によるすれ違いの解消」イベントで出てきた食材が入ったおにぎりを二人で食べる(場を共有する)というラスト。

 フスナーニさんとは一緒にごはん食べられなかったけれど、今後、エフィドルクさん側とも一緒にごはん食べるよ的な方向の展開にも期待したいのでした。というか、(Netflixで世界配信という番組の文脈も込みで)明らかに「日本」VS「グローバリズム」みたいな比喩がある作品と感じるので、敵を倒し切りましためでたしめでたしとももっていかないだろうしなぁ。

→主題歌

デストピア
loversoul music & associates
2016-05-11


→Blu-ray



→前回:クロムクロ第10話「不遜な虜」の感想へ
→次回:クロムクロ第12話「黒部の夏に地獄を見る」の感想へ
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【関連リンク:当ブログの2015年アニメーション作品ベスト10記事】

2015年アニメーション作品ベスト10〜共同体から零れ落ちた人間にも、それまでとは違うカタチなりの祝福を(ネタバレ注意)