劇場で観てきた『シン・ゴジラ(公式サイト)』の感想です。

 ネタバレ注意です。
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 『天空の城ラピュタ』ラストのバルスのシーンと、本作のゴジラが東京を破壊していくシーンとを重ねて捉えてしまうのは、どちらも、文明・科学技術の積み重ね(ラピュタ/東京)が強大な力でめちゃめちゃにぶっ壊されていく……という部分に、視聴者である我々がある種の爽快さを感じてしまうというのが共通しているから。

 また、劇外の要素的には、『天空の城ラピュタ』はじめ数々のジブリ作品の宮崎駿監督と、本作の庵野秀明監督は一種の師弟の関係にある、というのもあります。『風の谷のナウシカ』の巨神兵のシーンが庵野秀明氏担当である話は有名ですが、あのシーンも、「何もかもぶっ壊れていく」シーンですね。

 この人々がどこかで抱いている「何もかもぶっ壊してしまいたい願望」を、仮に「バルス願望」とでも呼んでおいてみます。

 そうなると、子供の頃はバルスと叫んで、このバルス願望を開放して何もかもぶっ壊して終わりで良かったのですが、大人になってくると、そうも言ってられません。

 バルスでラピュタ(科学技術文明の結晶)をぶっ壊したのはイイけど、描かれないあの後、大地に帰ったのはイイけど、科学技術がまったくなしというのでは色々大変かもしれないぞ、とか、そんなことまで考えてしまうのが大人です。

 そういう話の流れの中、本作はわりと大人よりの視点を感じる作品でありました。

 ゴジラ自体がバルス願望全開で大暴れしていますが、もう少しミクロに、主人公がバルス願望的に、やぶれかぶれになりかけるところがあります。

 第二戦でゴジラに完敗した後、もう誰も頼るなとキレかけるシーンです。

 ですが、同僚から落ち着けとペットボトルの水を差しだされて、一口。落ち着きます。子供みたいにキレてるフェーズは終わった。主人公、大人だ、と感じたシーンです。

 あるいは、対策本部で何日もシャツを変えずに臭っていた、なんて要素も、小さなバルス願望的シーン・子供的シーンと言えるかもしれません。その場合、まずシャワーを浴びる、シャツを変える、というのが大人的な行動といえます。

 そういう、大人としての「当たり前」の積み重ねで、ゴジラ(=震災とか、=原子力とか、の象徴)と対応していくという、地道さを描いている映画だと思いました。

 最後の手札も、(凍結剤の)量産、(外国との)交渉と、一人のスーパーヒーローが解決してくれるとか、謎のスーパーロボットが出てくるとかとは、真逆の地道さです。

 最終戦で使われる、ビルディング、電車、重機といったものは、「日常」「復興」とかを連想させるアイテムを演出として使っているのかなと思いました。

 ビルディングを作り直す、電車が再び開通する、行きかう重機、個人的にも、東日本大震災後、観てきた風景です。

 本震から数日後に、地道に道路の復旧作業にあたっている工事のおじさんと重機を見て、この人達こそが本当のヒーローだったんだ、と感じた経験がある身としては、胸に染みる映画でした。

 最後の、重機でゴジラの口に凍結剤をねじこんでいく様は、見ようによっては滑稽です。震災後の原発への対応の滑稽さを風刺してる面もあるのかもしれませんが、僕はその滑稽さと表裏一体の、「それでも(滑稽に見えても)地道に対応するしかない」という部分に、ああ、そうだよな、と感じました。

 最終的にゴジラは冷温停止しましたが、これで終わりではない(原子力との付き合いも、復興もこれから)ということが強調されています。「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」が映画のキャッチコピーですが、どちらが勝ったという分かりやすい落としどころではなく、これからもゴジラ、災害とも原子力とも地道に対応していく現実が続いていく、という部分に、やはり「大人」な映画という印象を受けた感じでした。バルス願望ばっかり叫んでいればよかった子供時代のフェーズと、今はちょっと違うという部分が、ゴジラ自体をバルス的なもので破壊して終わりとはしなかった部分に、そのままかかってくる感じです。

 個人的には、庵野秀明監督の作品では『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の時点で、大人になったアスカと歩いて行くシンジ君というラストシーンに、この何とも言えない「大人」さを感じておりました(もともと、『Q』はアスカが大人になっている(対してシンジ君はそのまま)というのに、色々象徴させてる映画かと思います。)。

 虚構全開。バルス願望放出、みたいな作品を作っていた庵野秀明監督が、こういう地道な落としどころの作品を作ったという事実に若干の寂しさは感じつつも、現在というのはそういうフェーズだよなーと、共感できるラストでありました。『エヴァ』でいけば、人類補完計画もサードインパクトも(ちょっとベクトルは違えど)バルス願望感がありますが、2016年のこの時期に、何もかもなくなった世界に存在する男女二人というラストシーンとかやられても、それはそれで困ったと思います。

 そういう意味ではこの映画の本当のラストシーンはゴジラの尾? のシーンですが、考察し出すとそれこそかつてのエヴァの時のように永遠に終わらなさそうですが、僕はゲルニカ的なものを連想しました。諸説はありますが、ピカソが政治的なメッセージを込めたとされている作品で、反戦などの話にいく前段階としても、この映画のかなりの部分を「政治」要素が締めて、この作品自体にも何らかの「政治」的なメッセージを込めざるを得なかったのだとしたら、それ自体が、「現実」的、「大人」的な態度だなぁ、などと思ってしまったのでした。

 空から少女が降ってきたり、謎のスーパーパワーが発動したり奇跡が起こったり、ただバルス願望を発散させたりしていれば良かったフェーズが終わって、地道に対応したり、政治の話もしたり、一方を倒して終わりじゃなくてめんどうでも付き合い続けなければならなかったり、そんなフェーズに入ってきた近年なりのカッコ良さとか、まだ日本のどこかにあると信じたい善性とかが描かれている、素晴らしい映画だと思ったのでした。

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