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 アニメ『響け!ユーフォニアム2(公式サイト)』第一回「まなつのファンファーレ」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 長年の当ブログの解釈の通り、京都アニメーション作品にはいくつか作品をまたいで受け継がれ・進展しているテーマのようなものがあります。

 現在リリースされている作品群の中で、その最も最新のものは映画『聲の形』(公式サイト)で描かれており、この『響け!ユーフォニアム2』は、「その次」の物語である、ということ。↓


参考:映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意)

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(画像は『涼宮ハルヒの憂鬱』・「内閣府/平成27年版自殺対策白書 概要(HTML形式)」より引用)

 ◇◇◇

 今回の第二期第一話から二か所、印象的にシーンとして(言葉にして分かりやすく)「共同体」について言及している箇所がありました。

 麗奈が久美子とだけでなく、葉月、緑輝ともいっしょに帰るのも悪くない……と語るシーンと、鎧塚みぞれ先輩から、優子と麗奈&久美子は仲が良くないのかと問いかけられるシーンです。

 いずれも、「共同体」の構成員としてOKかどうか? という「共同体」メンバーとして受け入れるかどうかの可否を問うシーンです。

 とかく一期に麗奈が、「いっしょにシュシュをつける」的な、望んでない同調化圧力による「共同体」を嫌ってる描写があり(第八回)、作品全体としても、同調化圧力で進んでいく「共同体」はどうか? という視点がずっとある作品でありました。(「みんなで一致団結して上を目指す表面的な快感」の物語の裏に、絶えず、「同調化圧力の気持ち悪さ」という要素を配置していた作品です。)

 その視点は踏まえた上で、改めて「共同体」について、やってみる作品であると。

 元々、当ブログでは第一期の時の感想から言及しているように、劇中には「壊れてしまった過去の共同体」が三重奏で描かれています。


1.大吉山北中学校吹奏楽部(久美子と麗奈)
2.久美子と姉の麻美子
3.去年の北宇治高校吹奏楽部(現二年生)


 の三つです。

 このうち、「1」に関しては、中学生時代最後のコンクールの日に根差した久美子と麗奈の一度分断された「共同体」は、無事縫合されて(再構築されて)第一期は終劇していたのですが、「2」と「3」に関しては問題がほとんど解決していないままでした。

 第一話の描写から、第二期では主に「3」、もしかしたら「2」に関して描くのだろうというのは明らかかと思います。

 なんでこんなに「共同体」について描くことに京都アニメーションはこだわっているかというと、「生きづらい」現代において(詳しくは先の映画『聲の形』の感想記事の通りですが、いまだ自殺率も多いです)、セーフティネットになり得るからです。

 資本主義(&新自由主義)の行きつく先は「共同体」の崩壊で、人間が「労働商品」になってしまうことだ、と言っていたのは有名どころだと柄谷行人ですが(読みやすいのだと文庫本の『世界共和国へ』など)(もっと、前々から色んな人は言ってますけど)、地域共同体も崩壊し、そろそろ家族共同体も危うく、ちょっと前まであった会社共同体の互助機能も最早ダメっぽいという状態で、全部から切り離された「個」が競争だけやってたんじゃ、そりゃ、死にたくもなるという話です。勝ってる時はまだ良いかも知れませんが、敗北したりして実存の危機、もっと生々しくは経済的危機に陥った時に、受け皿がないのがヤバいのです。(他の代替案は「可能性として」はあるかもしれませんが、現状「共同体」に代わる有効な「何か」がある状態とは言えない感じです)

 だから、そういう危機の時の受け皿、互助の枠組み、「共同体」の再生ないし、「次の形」を模索しないと……というテーマで京都アニメーションはずっと作品を作ってると思われるわけですが、『けいおん!(!!)』で輝いた「共同体(軽音楽部)」を描いてみたものの、残念ながら、それは現実にまではあんまり作用しなかった感じです。

 『けいおん!(!!)』の頃(2009〜2011)で既にだいぶヤバかったのですが、2016年の現在、悪化してる印象も受けます。

 みんなが、「軽音楽部」(唯澪律紬梓)みたいな理想的な「共同体」にリアルでも所属できて、それがずっと続いたなら、そりゃ実存の危機とか、大丈夫かもしれなかったのですが、現実はそうはいかなかった。そういった、『けいおん!(!!)』に自ら批評を加える視点があるのが映画『聲の形』ですが(監督も『けいおん!(!!)』の山田尚子監督自らです)、この『響け!ユーフォニアム(2)』もそういう系統の作品なのかと思われます(山田尚子さんも「シリーズ演出」で関わっております)。

 そこで、『けいおん!(!!)』共同体よりも現実路線というか、よりセーフティネットっぽく本作で描かれている共同体が、「チームモナカ」です。競争(オーディション)から敗れた側が作った、まさに競争から零れ落ちた者の互助機能を担う「共同体」というポジションですね。

 象徴的なキャラクターは夏紀先輩(「ポニーテール」の一人)で、番外編「かけだすモナカ(感想)」にて、オーディションという競争にも敗れ、恋愛という競争にも敗れた葉月を、夏紀先輩が優しく抱きしめるシーンが印象的に描かれています。葉月は何とか「支える」という自分なりの「輝き」を見つけ直すことができますが、チームモナカが、夏紀先輩がセーフティネットとして働かなかったら、それも難しかったかと思います。

 こういう、「チームモナカ」的、セーフティネット的な「共同体」が何故大事なのか。現実に当てはめてみても、例えば会社を首になった時(ある程度余裕ある正社員のポジションという椅子取りゲームに敗れた的な話で、本当コンクールの出場枠の椅子取りゲームに敗れた的な劇中と重なります。そもそも、本作で北宇治高校吹奏楽部はリアル社会の縮図として描かれていると思います)とか、やっぱり再起できるまで互助してくれる場所があったらイイな〜とか、そういう率直な感覚でも理解できるかと思うのですが、劇中でも、意外と、というかけっこうヤバい綱渡りをしてるのは実は麗奈と久美子です。

 もしセーフティネットがなかったら、(今話時点の考え方では)勝ち続けないと「特別」になれない麗奈はいつか敗北した時に死ぬしかなくなりますし、麗奈並みの「特別」にはなれないと悟った久美子は、一期第十二回(感想)で、「ユーフォニアムが好き」という気持ちと再契約することで自分なりの「特別」性を取り戻しますが、こちらも、情熱が消えた時が最後で、死ぬしかなくなります。この二人、実は破滅系百合なんですよ! 僕も昔そういう話書いてた!

終末の週末
相羽裕司
2013-10-14


 あな、チームモナカ、夏紀先輩、セーフティネット、ありがたや、ですね。

 とはいえ、チームモナカで全てのセーフティネットが代替できるわけではないので(リアルでも、現時点では生活保護は全員には配れないのですよ……)、北宇治高校吹奏楽部自体が、「次の形」の「共同体」へと変化する必要があります。

 その変化の視点として焦点があたっているのが、第二期から焦点が当たっている新キャラクター傘木希美を受け入れるか問題、一度排斥した者とか、外部からとかに、「開けて」いる「共同体」か? という視点なのだと思います。

 「フルートが好き」という気持ちと再契約している希美は、「ユーフォニアムが好き」という気持ちと再契約して「輝き」を取り戻した久美子と重なるポジションで、疑似久美子です。

 そんな、自分と同じ境遇の希美が久美子は気になりますし、麗奈がドヤ顔で希美の部活復帰に否定的な意見を述べると、複雑な表情をみせます。それだと、自分もこの「共同体」から排斥された時、もう戻る場所はないのか、と。

 希美は鎧塚さんとの、過去に分断されてしまった「共同体」(人間関係)が縫合できるか? という物語をも抱えていて、ほぼ、第一期の久美子の疑似ポジションというキャラクターであると推察されます。その上で、第一期のリフレイン構造を取りながら、第二期では少し違う部分をあぶりだしていく、という物語構成なのかなと。

 外に開けているか、というのは「共同体」に関しては重要な視点として早くから指摘されていて、これは、開けていないと、内部に閉じて硬直した「共同体」だと、ダメになっていきます。

 リアルの方の日本社会では「勝てば官軍」の雰囲気が強くなっていて、みんないかに「勝ち馬」に乗るかと競争しているという印象を持っていますが(苦笑)、大会で勝てたからといって、私たちの勝者「共同体」がエライと、外部からの経路を遮断し始めては、それは壊滅行きルートなわけです。

 少し歴史的な「共同体」論の話も絡めてみるなら、日本古来の神社を中心とした「共同体」の話とか。

 歴史的に日本は神社と森を中心に、人々の小さな、そして無数の「共同体」が形成されていたわけですが、人間中心の世界観に囚われることなく、絶えず外部的世界、境界領域の外からやってくる、それこそ妖怪的な存在とか、鬼とかに対して、経路を開いて、独特に上手くやっていました。そこには「全体性」が存在していて、社会の「全体性」は個人の精神の「全体性」と経路を繋いでいますから、実存の危機のようなものは起こったとしても、うまく内と外とを還流して、調和を保つようなシステムになっていました。

 ところが、明治期に悪名高い廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と神社合祀(+神社整理)をやって、森は斬り倒し、神社や祠の数もめっちゃ減らして(一番ひどかった三重県だと、87パーセントが壊滅しました)、そういった「全体性」の中で還流していた世界観は失われてしまいます。当時既に帝国主義の段階に入っていた資本主義の潮流の中での、古来型「共同体」崩壊の始まりの頃です。

 そういう風に、より強く、より競争(戦争)で勝つために、外部との経路を遮断していって富国強兵に集中して、結局先の戦争と敗戦に辿り着いたこの国の姿と、モデルの規模は違いますが、競争で勝利するために外部との経路を閉じて、内側での強化策を取る、という「可能性の一つとして」今後あり得る北宇治高校吹奏楽部のこれからは、重なるとも言えます。

 「勝てば官軍」ですから、勝てればイイのかもしれないですけど、日本は戦争に負けましたし、北宇治高校吹奏楽部もいつかは敗北します。その前提に立つと、北宇治高校吹奏楽部がバッドエンドを回避してトゥルーエンドに抜けるには、いかに、廃仏毀釈的・神社合祀的方策を取らず、別の「次の形」の「共同体」を構築していくか、ということです。希美は、外部からやってきた鬼・妖怪の類なんですね。それを、合理的じゃない(競争で勝ち進むにあたって効率的じゃない)と排除するのか、そういう存在も含めた「全体性」の力学で進む、今はまだ見えない「共同体」を目指すのか。

 抽象的な話も書いてみると(ここから数パラグラフ読み飛ばしても良いです……)、「共同体」の先には「社会や国」があり、その先には「世界のシステム」があり、その先には「世界のシステムを動かしている原理・世界観」がありますから、眼の前の吹奏楽部共同体をどうしていくかというミクロの話から、どこまでもマクロな話まで、射程を広げようと思えば広げられます。

 現行の世界システムが、これはもう、ちょっとこのままではヤバいでしょと、特に東日本大震災以降文明論と絡めて発信しているのは梅原猛氏ですが、氏はそもそもの発端を、現行世界システムの土台にある、合理主義偏重の世界観に見出し、その起点にデカルトの存在を見ています。

 それは、少し別系統になりますが、中沢新一氏が、「ロゴス」的パラダイムと称している現行の世界観と重なり、こっちの方は、既に南方熊楠にまで遡って、「ロゴス」的パラダイムとは別なパラダイムが必要だという話が出てきます。そして、その代案となるパラダイムの可能性を、ブディズム(仏教)的世界観の中でも龍樹(ナーガールジュナ)に見ている、という話とかもあったりします。

 参考図書をあげるならこの辺り。↓

人類哲学序説 (岩波新書)
梅原 猛
岩波書店
2013-04-20




 で、「ロゴス」的パラダイムっていうのは、

1.同一律
2.矛盾律
3.排中律

 という三つの法則で成り立ってます。

 このパラダイムでイイなら、まあ、ざっくりとは北宇治高校吹奏楽部も、希美とか排して、富国強兵でいこうぜ、という話になっていきます。

 「その次」を目指したいわけですが、近代哲学ではカントが「1.同一律」を取り除き、ヘーゲルが「2.矛盾律」を取り除いてくれたわけですが、「3.排中律」が取り除かれないままでした。

 で、ナーガールジュナとか明恵とか南方熊楠とかを持ち出して、中沢新一氏とかが、この「3.排中律」も取り除いたパラダイムを模索している現在なのですが、ええ!? って感じかもしれませんが、そういう一線の思想家も試みてますが、京都アニメーションもこれを試みてると感じております。

 『境界の彼方』はまさに、そういうブディズムチックな世界観で排中律を取り除こうとした作品ですし(参考:『境界の彼方』最終回の感想(少しラストシーンの解釈含む)はこちら)、その発展系の『無彩限のファントム・ワールド』は、あくまで作品の中ではとはいえ、排中律が取り除かれた地点(人間とファントムが相反しない)に辿り着いて、主人公の晴彦が世界を肯定して終わっています(参考:『ハルヒ』放映開始から十年、京都アニメーションがここまで進めた「日常」と「非日常」にまつわる物語〜『無彩限のファントム・ワールド』最終回の感想(ネタバレ注意))。

 なので、『響け!ユーフォニアム2』も、排中律を取り除く的な展開に後半は向かってゆくのではないかと。

 その時に立ち現れるのが、「その次」、「ロゴス」的原理由来の「共同体」ではなく、中沢新一氏のタームとかでいうなら「レンマ」的パラダイムでの「共同体」ということになるかもしれないのですが。それはかなりの程度ブディズム(仏教)チックで、イメージとしては曼荼羅(マンダラ)に例えられます。北宇治高校吹奏楽部は曼荼羅だったのです。この表現新しい! 北宇治高校吹奏楽部は曼荼羅!

 今話ラストの「花火」のシーンは、そんな曼荼羅が実現未満で、久美子と麗奈がラブラブしてる一方で、葵という第一期で「共同体」から「排斥された」キャラクターも、今の時点では外部からの妖怪ポジションの希美さんも映っています。

 「花火」自体が『けいおん!(!!)』という作品の象徴という意味合いが京都アニメーション作品にはありますが、同じ「花火」を見ても、心象は違います。久美子がずっと続けばイイな〜みたいな『けいおん!(!!)』全開のことを考えている一方で、葵は何を想っているのでしょうか。この葵が、もう一歩進んでしまうと、「花火」の日に投身自殺をはかってしまう、映画『聲の形』の西宮硝子になります。

 葵さんはな……。競争原理に向かった北宇治高校吹奏楽部からそれは違うと離脱しても、その先の受験という場もまた競争原理で、この娘は大丈夫か、と。

 そんな感じで、同調化圧力で富国強兵ウェーイでもなく、「軽音楽部」共同体は輝いてるキラリッでもなく、勝ち抜けるかもしれない麗奈もいれば、なんとか好きって気持ちで繋ぎとめてる久美子も入れば、敗れたチームモナカもあって、排斥された葵がいて、外部から戻りたい希美がいて、それら全部をひっくるめた、「次の」「新型共同体」というか、曼荼羅的な「何か」を目指して、『響け!ユーフォニアム2』開幕です。「『CLANNAD』は人生」「『Fate』は文学」「『けいおん!(!!)』は生き甲斐」に次いで、「『響け!ユーフォニアム』は曼荼羅」を、個人的には流行らせていきたい所存です(え)。

 他、『ハルヒ』文脈からするとどういう物語に位置付けられるのかとか、そもそも第二期の一番のキーパーソンであるあすか先輩はどういうことなのかとか、語りたいことは多々ありますが、今回はここまでで。

 京都アニメーション作品は深堀していくと、地球の中心の真実まで到達するので(え)、せっかくここまで徳の高い作品を作って頂いているので、深度増し増し(「二郎」で「マシマシ」する感じで)視聴勢も、徐々に増えていくといいな〜と思っていたりです(^_^.

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→前回:響け!ユーフォニアム番外編「かけだすモナカ」の感想〜椅子に座れなかった存在への抱擁(ネタバレ注意)
→次回:『響け!ユーフォニアム2』第二回「とまどいフルート」の感想へ
当ブログの『響け!ユーフォニアム(2)』感想の目次へ

【関連リンク0:2016年秋時点での京都アニメーション文脈(ハルヒ文脈)の最新地点、映画『聲の形』について】

映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意)


【関連リンク1:京都アニメーションがこの十年どういうテーマで作品を繋いできたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事】

『ハルヒ』放映開始から十年、京都アニメーションがここまで進めた「日常」と「非日常」にまつわる物語〜『無彩限のファントム・ワールド』最終回の感想(ネタバレ注意)
[5000ユニークアクセス超え人気記事]響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)
『甘城ブリリアントパーク』第12話の感想はこちら
[5000ユニークアクセス超え人気記事]『境界の彼方』最終回の感想(少しラストシーンの解釈含む)はこちら

『中二病でも恋がしたい!』(第一期)最終回の感想はこちら
『Free!』(第一期)最終回の感想はこちら
『氷果』最終回の感想はこちら
『けいおん!!』最終回の感想はこちら
『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回の感想はこちら


【関連リンク2:(特に東日本大震災以降)「共同体を再構築してゆく物語」を日本アニメーションがどう描いてきたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事(主に吉田玲子さんが脚本・シリーズ構成を担当していたもの)

あの日欠けてしまった人の日常(=マヨネーズ)に私がなるということ〜『ハイスクール・フリート』第11話「大艦巨砲でピンチ!」の感想(ネタバレ注意)
『けいおん!(!!)』シリーズ構成の吉田玲子さん脚本による「バッドエンドけいおん!」を浄化する物語〜無彩限のファントム・ワールド第7話の感想(ネタバレ注意)
『SHIROBAKO』(シリーズ構成ではなく同テーマのキー話の脚本)の感想
『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられている演出とその意図について


【関連リンク3:京都アニメーション作品のこれまでの"テーマ的な"連動・変奏の過程がよく分かる『ねざめ堂』さんの記事】

『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(前編)/ねざめ堂
『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(後編)