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 公開初日に劇場で観てきた『この世界の片隅に(公式サイト)』の感想です。

 ネタバレ注意です。
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 最初に想いを馳せたのは、戦争での体験を絵に変えて、戦後に漫画で偉業を成した手塚治虫や水木しげるといった存在です。

 すずさんはそういう歴史に名を刻むような凄い人には「なれなかった」絵描きです。

 手塚治虫のような偉業を成した人間を「誰もが知る咲き誇った華」に例えるなら、すずさんのような名もなく咲いていた人々を「雑華(ぞうけ)」と言います(主に、仏教方面の用語ですが)。

 そんな、破綻的な出来事の中でも確かにそこに咲いていた雑華の想像力にも、意味はあった。そうした雑華の人々の想像力から続いている現在を我々は生きている、とした作品だと思いました。

 自由な想像力(=象徴的には絵を描く行為)が抑圧される時代において、すずさん、最後は手を失って絵が描けなくなっても、心の中の想像の灯までは消しませんでしたね。(最後の、想像的な存在と現実的な存在がリンクするシーンね)

 厳しい時代なのだから、そんな妄想にリソースを割いてる場合ではないよ、と一笑にフされがちになってしまった(まるで現在の2016年の状況のよう)想像力に関して、そうではないのだ、それは捨て去ってよい余剰ではなく、世界の対称性の中でバランスを取るために必要な片方なのだ、とばかりに想像と現実の相互貫入が、劇中では何度も描かれます。

 想像の領域の座敷童かと思っていた存在が、現実のリンさんとして現れたり。

 現実の晴美が失われてしまったのを、欠けた輪を想像のシントムで埋めていたら、原爆で親を失くした子供が現実としてすずさん夫婦のもとに辿り着いたり。

 この、「破綻的な出来事の中で世界の対称性を取り戻すようにゆらめく雑華の想像力」というモチーフが、『あまちゃん』と重なるので、すずさん役にのんさん(能年玲奈さん)をキャスティングというのは、キャスティングの手法をもちいた「表現」になっていると思ったのでした。

 手塚治虫(のような画業で偉大な功績を成した人)になることはなくとも、雑華の想像力を持ち続けて日常を生きたすずさんという物語と。

 一線のアイドルになる切符を手にしかけても、震災を機に北三陸に戻って雑華のアイドル(=想像力)となる天野アキという物語は、重なるという視点ですね。

 映画が終わる頃、この作品自体がそうした戦争、震災といった破綻的な出来事があっても途切れなかった雑華の想像力がここまで繋いだものを顕現しているのだ、と気づかされます。

 そしてその気づきは、二つのエンディングロールの二つ目が「クラウドファンディング」の支援者様達の名前の掲載になっている点で、確信に変わります。名もなき雑華(すずさんのようなあの時代の人々=クラウドファンディングの支援者様たち=あるいはこの映画を見ている「普通の」日常を生き続けている現在の人達)の想像力が、現実に善なる何かをもたらし得ることを証明してみせます。映画館を出る時にあなたが感じていたものが、何よりも偽れないそのことの証明になっているという、一種のメタフィクションにもなっています。

 たとえば、茶道。あの片隅の茶室に、宇宙を見るのが日本的な「和」の世界です。何気ないものに「道」を見つけるということ。それには、歴史的に一即多・多即一といった仏教的な世界観も関わっています。

 すずさんという片隅の雑華の想像力に世界との経路を見る、ということ。

 戦争と原爆に帰結した当時の一つの暴力的な潮流の中で、片隅の花の美しさと日常を生きる地道さに「道」を見出した「和」の想像力は、途切れずに現在まで繋がっているということ。

 当時のような暴力的なものが今なお世界中を暴れまわってる現在において、この映画自体が、アニメーションの語源となっているアニミズムのごとく、作品に「たましい」を宿して立ち現れたことを祝福したいと思います。

 この日本の歴史とアニメーション文化と、そして雑華の想像力がなければ生まれなかったであろう作品が、それ自体が一つの片隅の雑華の想像力となり、世界に経路を開き、バランスを崩しがちな世界に対称性を取り戻していくきっかけになったら良いなと思いつつ筆をおきたいと思います。

→こうの史代さんによる原作漫画







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