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 アニメ『響け!ユーフォニアム2(公式サイト)』第九回「ひびけ!ユーフォニアム」の感想です。

 ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 長年の当ブログの解釈の通り、京都アニメーション作品にはいくつか作品をまたいで受け継がれ・進展しているテーマのようなものがあります。

 現在リリースされている作品群の中で、その最も最新のものは映画『聲の形』(公式サイト)で描かれており、この『響け!ユーフォニアム2』は、「その次」の物語である、ということ。↓


参考:映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意)


 そして、その流れの中でもこの『響け!ユーフォニアム』は「ポニーテール」に象徴性を持たせた「ハルヒ」文脈の作品であるという点は、当ブログのこちらの記事を。↓


[5000ユニークアクセス超え人気記事]響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)


 ここまでを前提としつつ。

 ◇◇◇

 あすか先輩が抜けた、座る人がいなくなった「椅子」が印象的に描写される冒頭。

 この、限られた「椅子」に座れるかどうか? という話が、本作では「競争原理」に基づく「限られたリソースの奪い合い」、いわゆる現実社会の「椅子取りゲーム」に模されていて、その点に関してそれだけ(「競争原理」オンリーの世界観)ではどうなの? と批評性を加えている作品であるということは、これまでの感想で何度も書いてきた通りです。

 今話では、第一期〜第二期と通底して、自分自身も「椅子取りゲーム」に敗れた側の人間(オーディションで久美子に勝てなかった)でありながら、敗れた側の人間(葉月・優子など)の味方、そんな「特別」もある、と描かれていた夏紀先輩が、あすか先輩に「席を譲る」というのが描かれます。

 この、全てが限られた椅子・枠の奪い合いじゃないでしょ? という精神・世界観は、ここ数年の京都アニメーション作品がずっと追いかけているテーマの一つで、先行作品では『Free!(第一期)』のラストで、怜が限られた選手としてのレースへの出場枠を凛に譲る……という最終回が描かれていたりします。こういう形での、「競争原理」の方に傾きがちな世界への抵抗運動をずっと続けています。抵抗、というか、別に「競争原理」を全否定して打倒しようというわけではなくて、そちらに傾き過ぎるとバランスが悪くなって色々いかんことになるので、バランスを取って調和する方にもっていきたいという感じですが。たとえば「陰陽」のバランス的な世界観で一方の色だけ肥大してしまったら、それだけではいかんという作品を描く必要が出てきます。現在、2016年の世のフェーズはその辺り(ちょっとバランスが崩れてる)、ということ。


参考:Free!/感想/第7話「決戦のスタイルワン!」〜第12話(最終回)「遥かなるフリー!」


 このシーン、夏紀先輩が、「代役」としての「特別」に至ってるのがカッコいいですね。久美子に「それは本心か?」と問われているのは、後半で久美子があすか先輩の母親に関する本心の気持ちを看破してしまうのとセットになっているシーンです。久美子、麗奈の時もそうですが、相手の表層的な言葉のガードを突破して、相手の本心、深層心理に漂っている源泉かけ流しの気持ちのようなものを、まるっと引っ張ってきて出しちゃうような特性を持ってるキャラ付がしてあるのですね。

 その、久美子の能力に照らし合わせても、夏紀先輩のあすか先輩に「椅子」を譲るという気持ちは本心。彼女も「ポニーテール」で、競争を勝ち抜いて至るような類の「特別」の他に、こんな「代役」という形での「特別」もある。

 夏紀先輩や久美子(第一期第十二回の感想を参照)が自分なりの「特別」に至っていったのに対して、現在「特別」が揺らいでいるのはあすか先輩です。

 いくつかのアンビバレント(二律背反)を抱えたまま、現在「特別」から堕天していて、いわばこのあすか先輩からの「特別」性の剥奪が、北宇治高校吹奏楽部という「共同体」からの離脱とリンクして描かれている……というのが現在です。

 アンビバレント。

 一つ目は、お母さんが好きという気持ちと、嫌いという気持ちのアンビバレント。これは、今話で好きと表面上取り繕っていたのが、上記の久美子の能力で嫌いの気持ちの方も引き出されて、むしろ「正邪」を併せ持って全体性を回復しています。

 二つ目は、「コンクールで勝つ」という気持ちと、「お父さんに自分の演奏を聴いてほしい(私情)」というアンビバレント。コンクール、つまり「競争原理」で勝つことがお父さんに辿り着くことなのですが、そもそもお父さんが離れて行ったのが「競争原理」に基づいているので(お母さんを選ばなかった)、「競争原理」で勝ってしまうと、お父さんが自分から離れて行った「競争原理」を肯定してしまうことになり、どこかで「競争原理」によらない無償の親からの愛のようなものを求めているあすか先輩の気持ちとアンビバレントを起こしてしまいます。この点は、後述するシーンで、解決、というかすごい領域をアニメーション作品における表現として現出させておりました。

 ちなみに、この「どちらか片方を選べば、どちらか片方は選ばれない」は、2009年に『涼宮ハルヒの消失(感想)』で扱って以来、京都アニメーションが昇華しようと試みてるテーマだったりします。その一つの頂点が、ポスト『涼宮ハルヒの消失』というポジションの作品である『境界の彼方』で描かれていたというのは、こちらの記事を参照です。↓


参考:『涼宮ハルヒの消失』と『境界の彼方』との関係について(『境界の彼方』第8話〜第11話感想)


 三つ目。これが凄くて、絆、「共同体」、そういうものに対して、人間が持つ他者と繋がっていたいという気持ちと、繋がりを切って自由になりたい、という気持ちのアンビバレントをも描いています。

 山田尚子さん(『けいおん!(!!)』の監督)もシリーズ演出に加わっていますし、「共同体」のテーマに関して、何かと『けいおん!(!!)』の「次」を意識させる物語、演出が豊富な本作ですが、わりと絆、「共同体」を「正」の方面から捉えて終劇していた『けいおん!(!!)』に対して(ラスト、梓と唯澪律紬は表面的に一旦は離れても一種の永続的な繋がりを獲得している)、絆、共同体の「邪」の部分、今話でいうと、あすか先輩には母親との繋がりが重荷になっているという側面も明示的に描いております。

 絆(キズナ)は語源的には絆(ホダシ)ですが、日本古来の物語作品(古典の類)から、他者との繋がりは救いでもあり、束縛でもある、というのは普遍的なテーマです。

 その普遍性がある題材を、中世古先輩があすか先輩の靴紐を「結び直す」シーンで描いています。


 「こうやって結ぶと、ほどけにくいんだよ」


 「共同体」との絆、縁を、結び直そうとする中世古先輩と、その絆に重荷・束縛も感じてしまっているあすか先輩と……という、もの凄いシーンです。

 今年大ヒットした映画『君の名は。』で、「組紐」がほぼ同じテーマの象徴アイテムとして使われていましたので、時代と一線のクリエイターの想像力はやはりシンクロしますね。確かに、「紐」を象徴にしてこういう物語を描くしかない、という2016年です。

 「共同体」、北宇治高校吹奏楽部、あるいはあすか先輩の両親との関係。表面的にそういう他者との関係を「靴紐」に象徴させて描いているのかな、という時点で凄いのですが、このシーンにはもう一層奥があって、日本古来の物語や和歌の世界まで由来を遡るなら、絆(キズナ)を絆(ホダシ)と捉える場合は、「この世との縁」という捉え方をする、ということです。

 2016年同時期に、実際に投身自殺をはかってしまう西宮硝子を描いた映画『聲の形』を、本作シリーズ演出の山田尚子監督がとってます。

 ユーフォニアム=お父さんとの縁=自分を生み出してくれた人との繋がりなわけですから、そのラインが危機的な状況に陥っているあすか先輩は自分という存在の存立が脅かされていて、映画『聲の形』の西宮硝子のように本当に行動に移すかはともかく、この時点であすか先輩の深層心理は確実に死(タナトス)に向かって足を踏み入れています。

 どうして、靴紐、「足」なのか。これも、日本古来の物語から、比較的近年の邦画にまで見られる「文脈」的な話ですが、「足」はこの世界、現世とのパス、「生」とのリンクです。日本では、幽霊には、「足」がないのですよ……。

 その、この世界との「縁」の「結び」が、あすか先輩はほどけそうになってしまっている。

 そこで、ウザがられようとも、絆(キズナ)は絆(ホダシ)で、束縛にもなるから……と、そんな世界で、誰が何と言おうとも、ここで、中世古先輩があすか先輩のソレを結び直しに来るんですよ。

 不自由さとの再契約。

 この世界との再契約。

 すごい領域を表現していました。涙が止まりませんでした。

 中世古先輩自体が「椅子」に座れなかった敗者(オーディションで麗奈に敗北した)で、隅々の描写から、実際、中世古先輩ちょっとバカな子(え)なんですが、あすか先輩をこの世界に繋ぎとめる役割を、中世古先輩にふる。これが京都アニメ―ション作品ですよ。

 中世古先輩が繋いだ、あすか先輩をこの世界に繋ぎとめるためのバトンは、久美子に送られます。


 「黄前ちゃんは、本当にユーフォっぽいね」


 ラストシーン、久美子は、「真の意味での」ユーフォニアム奏者という共通項からも、あすか先輩にとって、お父さん、進藤正和の「代役」として機能しています。

 「否定してほしかった」、自分という存在が生まれたことを祝福する父親からの曲なんか否定してもらってよくて、あすか先輩は死(タナトス)に向かいかけていました。

 けれど、そのアンビバレントを、「正邪」こもごもを含有しながらも存在していて生まれてきたあすか先輩を祝福する曲を、お父さんの「代役」として、「好き」だと言う久美子が聴いている、承認している、この世界に繋ぎとめている、というラストシーンです。

 競争を勝ち抜いて偉業を成した類の人間を「誰もが知る咲き誇った華」に例えるなら、勝利するようなことはなくとも名もなく咲いていた人々を「雑華(ぞうけ)」と言います(主に、仏教方面の用語ですが)。


参考:この世界の片隅に/感想(ネタバレ注意)


 ラストシーンで静かにあすか先輩の演奏で流れる音楽は、「競争原理」の「勝者」が奏でる音楽とは違うけれど、咲き誇ることがないとしても、存在を祝福している雑華(ぞうけ)の音楽です。久美子がお父さんの「代役」としてあすか先輩を承認してあげる風景が訪れるまで、夏紀先輩の、中世古先輩、沢山の人達の「縁」が繋がっています。麻美子の「代役」としてトロンボーンに変えて久美子の側にいることを選んだ秀一の、滝先生の奥さんの「代役」にしか(あるいは「すら」)なれない麗奈の気持ちもが乗ってるかのような趣です。

 「久」美子という名前までが生きてくるかのようです。

 ただ、この「正邪」含めて一つの存在が生まれたことを祝福する音楽が流れているシーンを、悠「久」の時間を刻んできた日本の、京都の、宇治の風景を絵で、アニメーションで表現するということをやっています。

 それは、近代化の波で変わったところもあるけれど、何千年も前の人達も観ていた風景です。

 今話で「蚊」に言及しているシーンがあるのすら、『枕草子』に記述がありますし、「秋の蚊」は季語ですから、千年とか前からの「京都あるある」ネタで、悠久の風景・場所という演出に一役買っている感じです。

 『源氏物語』だと、個人的には光源氏が死んでからの「宇治十帖」が好きです。

 偉大な父(祖父)=自分のルーツに関して。何故、自分は生まれてきたのか。同じ普遍的なテーマを、千年前には紫式部は持ち得なかった、アニメーションという表現技法の極致で表現しています。

 ずっと凄い、凄いと思っていましたが、だからこそずっと作品の感想を書いてきたのですが、ついに『源氏物語』とかと並ぶ千年に一度の物語作品という領域に京都アニメーション作品が入り始めた瞬間を目撃した気分です。

 勝者にはなれなかったとしても、生まれてきた一人の「特別」性を、風景に宿る雑草の魂を、ワンカットに込めるアニミズム(アニメーションの語源と言われます)、それは、遥か昔から悠久の時を超えて連続性を伴った上で現在に繋がっている類のものだということ。

 明治期と敗戦後とで二度断絶したと捉えたりもする「和」の精神を、数千年の時を超えて途切れないものとして伝え続けている。一つの極致が、本作にて、ここに生まれたのです。

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黒沢ともよ
ポニーキャニオン
2016-12-21


→公式ガイドブック



→前回:『響け!ユーフォニアム2』第八回「かぜひきラプソディー」の感想へ
→次回:『けいおん!(!!)』から五年経ったあなたへ〜響け!ユーフォニアム2第十回「ほうかごオブリガート」の感想(ネタバレ注意)
当ブログの『響け!ユーフォニアム(2)』感想の目次へ

【関連リンク0:2016年秋時点での京都アニメーション文脈(ハルヒ文脈)の最新地点、映画『聲の形』について】

映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意)


【関連リンク1:京都アニメーションがこの十年どういうテーマで作品を繋いできたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事】

『ハルヒ』放映開始から十年、京都アニメーションがここまで進めた「日常」と「非日常」にまつわる物語〜『無彩限のファントム・ワールド』最終回の感想(ネタバレ注意)
[5000ユニークアクセス超え人気記事]響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)
『甘城ブリリアントパーク』第12話の感想はこちら
[5000ユニークアクセス超え人気記事]『境界の彼方』最終回の感想(少しラストシーンの解釈含む)はこちら

『中二病でも恋がしたい!』(第一期)最終回の感想はこちら
『Free!』(第一期)最終回の感想はこちら
『氷果』最終回の感想はこちら
『けいおん!!』最終回の感想はこちら
『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回の感想はこちら


【関連リンク2:(特に東日本大震災以降)「共同体を再構築してゆく物語」を日本アニメーションがどう描いてきたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事(主に吉田玲子さんが脚本・シリーズ構成を担当していたもの)

あの日欠けてしまった人の日常(=マヨネーズ)に私がなるということ〜『ハイスクール・フリート』第11話「大艦巨砲でピンチ!」の感想(ネタバレ注意)
『けいおん!(!!)』シリーズ構成の吉田玲子さん脚本による「バッドエンドけいおん!」を浄化する物語〜無彩限のファントム・ワールド第7話の感想(ネタバレ注意)
『SHIROBAKO』(シリーズ構成ではなく同テーマのキー話の脚本)の感想
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【関連リンク3:京都アニメーション作品のこれまでの"テーマ的な"連動・変奏の過程がよく分かる『ねざめ堂』さんの記事】

『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(前編)/ねざめ堂
『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(後編)