相羽です。

 毎年恒例、その年に触れた作品などで良かったものを、僕の主観でベスト形式で記載しておこうのコーナーです。昨年2016年の「アニメーション」作品から選んでおります。

 以下、基本的には各作品に関するネタバレを含みますので、注意です。

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 現在の日本という国。

 自殺率が未だに高いという例をあげるまでもなく、目の前には「厳しい」という現実があります。
 グローバル化がもたらした「貧困」を世界に平等にバラまくという力学は、現在は「二極化」という見え方をしていますが、いよいよかつての「中流」的な生き方ができなくなり、失業した人、借金をした人、労働が過酷になったりした人、あなた自身や周囲の人に心当たりがあるような状況になってきたのではないでしょうか。世間が「中流」的なものをプロモーションし続ける中で、自分はその中にも入れない。そう実感した時というのは、つらいものです。

 東日本大震災が残した傷跡も未だ大きい(と特に東北で生活していると感じたり)ですし。日本という国的には超少子高齢化・大介護時代、経済も、景気が良い話を受け取れる人というのは限られています。

 そんな危機的状況の中、昨年の特徴としては、「厳しい」現実の中にいる人々に「まやかしの」「自己実現」のようなものが、蜜の味をちらつかせながら忍び寄っていったというような「流れ」があったりでした。

 「自己実現」、自分のやりたいことをやること、そうして自分の理想に向かっていくこと、それ自体は正しいことのはずです。けれど、「厳しい」現実で足場が不安定になった人々に「めんどうなことはしなくていい」「悲しかったことはなかったことにしよう」という甘いささやきが浴びせられた結果、いつしか「自己実現」は「自分勝手」に変換され、その場のノリだけ、批判的だけど自分が責任を負って変えていきたいほどではない、何となくな「快」だけを求める、めんどうなことはすぐ「忘却」するといった、遠い昔から徳ある人達が積み重ねてきた善なる土台と切り離されてしまった人達が出始めた、というかだいぶあふれた一年でもありました。それは、具体的な事象としてはブレグジット、トランプ旋風、ポピュリズム、マイルドヤンキーといったキーワードに写像される現象として具現化したりした一年でした。

 この流れは多数派で、潮流ではあるかもしれません。しかし、「自分勝手」という方向で(はき違えた)「自由」を志向してしまった人々がいきつく先の、何にも縛られない「個」というものは、実際のところ風が吹けば飛ばされるような、刹那的で脆い「個(アトム)」に過ぎません。

 世界が、刹那的な消費マシンとしての「個」の大量生産に向かう中で、その暴風の中で土台を失わないための処方箋。徳ある先人たちが積み重ねてきた善なるものの「受け取り方」について描き続けた者たちと、作品群がありました。

 日本のアニメーション作品群です。(全部ではないですが……)

 世界がそういう方向に進む中で、透徹にそれは本当の「自己実現」とは違う。本当の意味で己の本懐を全うしてゆくという生き方は、通時的な歴史との関係性の中でこそ確かなものとして立ち現れてくるものだ、ということを見つめ続け、メッセージとして伝え続けたのが、今回選んだ2016年のアニメーション作品十選です。

 このインスタントであれという嵐が吹き荒れてる世界で視界がボヤけてしまって、見落としがちかもしれないけれど、あなたが気づいていないだけで、足元には根があるよ。土台というものはあるよ。それがあるから、逆説的ですが安心して「個」の本懐のようなものも追及していけるのだよ、ということ。

 それは言い換えると、「歴史」に目を向けるということ。昨年の「横軸(共同体)」(参考:2015年「アニメ作品」ベスト10〜共同体から零れ落ちた人間にも、それまでとは違うカタチなりの祝福を(ネタバレ注意))に続いて、「縦軸」を縫合するということです。歴史の中で、あなたは孤立した単体の「個」ではないということに目を向けてもらうということです。

 「歴史」的なものと丁寧に向き合うのには、とにかく時間が、労力がかかります。「めんどう」です。「めんどうな」ことは、なかったことにしたいという弱さ、愚かさも人間は持っています。そこを突かれて、刹那的な「個」に分解されて、暴風の中どこかに飛んでいくのに身をまかせたい人も沢山いると思います。ただただ、(介護が必要なような)老齢世代のことも忘れて、震災もなかったことにして、断絶の中で「今」というライブ感の中だけでブチ上がっていたい。刹那的な消耗品と化す麻薬めいた陶酔でアガっていたい。そんな、弱さ。

 ここで選んだ十作品は、でも、こんな時だからこそ、あえてめんどうなことほどやれ、を実践していた作品達です。

 めんどうでも過去に目を向けて「歴史」を受け取り直した上での本当の意味での「今」とこれからを模索し、悲しい・破綻的な出来事も「なかったことにはしない」うえで、未来に目を向けていきます。この手のことをメッセージとして伝えるというのは、既に刹那的な消費マシンになりかけている「個」からは、「めんどうだなぁ」「ウザいなぁ」と思われることが多々かと思います。実際に、昨年、真面目に頑張って作ったのに、炎上にインスタントな糾弾に、ろくなことがなかったなぁ……と傷ついているクリエイターさん達もたくさんいるかもしれません。

 この楽な方へ行け、というメッセージが吹き荒れる世界で、真面目な人達がまだまだいるものだなぁと思いながら鑑賞しておりました。

 だが、あなた達は絶対にエラい。

 あんまり褒めてくれない、というか特に日本人の視聴者さんたちは褒めるのが苦手なので、僭越ながら僕が言っておこうかと、ここに書き記しておこうと思います。

 ここにあげる十作品を作った人たちは本当にエラいです。

 「歴史」と、通時間的なものと向き合う時、戦争があり、震災があった国ですから、そこには「慰霊」の要素も含まれます。これもめんどうな類のことですが、十作品とも、真摯に、正直に、一生懸命に向き合っていました。

 この「今」だけで終わってしまって、何にもならない消耗品だったとしたら、「幸せ」とか「輝き」にほど遠くなってしまうから。

 「過去」の失われた存在に対する「慰霊」の態度は、同時に「今」生きている自分たちが将来は「慰霊」される側になるという精神的な態度を含みます。その時、失われた存在に対して向ける視線・態度は、同時に「今」を生きる当人が受け取る視線・態度として返ってきます。その循環の中にあるからこそ、刹那的な消費マシンと化して前後と分断されたライブ感に酔っているだけとは違う、本当の意味での「今」に大事なものとか、意義、もっといって「幸せ」とか見出していけるのではないでしょうか。

 「過去」に囚われてもいけない。束縛されてもいけない。一方で「呪い」は解かないといけない。

 言うなれば、「過去」をなかったことにはしないまま「受け取り直し」て、自由で素晴らしい「未来」を選び取るための助走にしてゆくための試論。それが、2016年の日本のアニメーション作品だったと思います。

 そんな「慰霊」を考えつつも、エンタメ感も萌えも出して、おっぱいも揺らしていかねばなりません。アニメーションに携わる人達は、いつだってハイブリッドで、一即多・多即一にして、ニンジャです。

 そんな世界の片隅で。栄える者から貧した者。思慮を積み重ねた者から、考えるのをやめてどこかに飛ばされ行っちゃった者まで。お兄ちゃん、車掌さん、お嫁さん。以下、個人的2016年に視聴した2016のアニメーション作品ベスト10。

 冬眠中のシロクマもぬらりと起きて、アニメを観たりしつつ、2017年を始めよう。


第10位:『無彩限のファントム・ワールド』(公式サイト

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 本作における「過去」とは、「ハルヒ」を起点とした、東日本大震災以前の「虚構」的作品の歴史、特に京都アニメーション作品の歴史です。

 『ハルヒ』的な虚構を実現化する能力(晴彦の能力)、『けいおん!(!!)』的な「輝いた日常」……そういった歴史がメタフィクショナルに描かれていきます。特に、『けいおん!(!!)』に関しては吉田玲子さん(『けいおん!(!!)』のシリーズ構成を担当)が脚本を担当されてる回なんかもあって、かなり本格的に物語に盛り込んでおりました。↓


参考:『けいおん!(!!)』シリーズ構成の吉田玲子さん脚本による「バッドエンドけいおん!」を浄化する物語〜無彩限のファントム・ワールド第7話の感想(ネタバレ注意)

参考:『けいおん!(!!)』的「日常」と「日常」の成立のために犠牲になる存在を、両方守るということ〜無彩限のファントム・ワールド第10話の感想(ネタバレ注意)

参考:『けいおん!(!!)』的時間を終わらせても愛する人を守るということ〜無彩限のファントム・ワールド第11話の感想(ネタバレ注意)


 しかし、そんな『けいおん!(!!)』的な「輝き」・「楽しさ」も最後に全てが失われてしまいます。全ての「虚構」的なものなんて、意味がなかったんだ、と。終盤の「虚構実現化能力(「ハルヒ」の能力)」を失って成す術もなくなった晴彦の心情は、震災後しばらくの、「もうアニメ(虚構)とか言ってる場合じゃない」といったクリエイター達およびファン達の心情と重なります。

 その絶望から、「代役」的な虚構の力(ルル)の存在で逆襲を開始する最終回が、クリエイターの魂の叫びっていう感じで熱かった作品です。無意味だったのかもしれないけれど、(ユングの)集合的無意識のギミックも使いつつ、一番身近な虚構(ルル)に、バックアップが残っていたのです。それこそ、少しスピリチュアルな感じに聞こえるかもしれませんが、我々視聴者も、集合的無意識的な領域で、まだ『ハルヒ』や『けいおん!(!!)』と繋がってる感じというのはあります。そしてそれは、どこかで糧となるような善なる類のものであると、信じたいのです。

 それは本家のように今更高らかに掲げられるような燦然と輝く金字塔ではもうないかもしれないけれど(あの頃よりも現実がさらに厳しい)、その「代役」、模造の力をもってでも、我々は戦い(作り)続けるのです。描かれる、『ハルヒ』の「白雪姫のキス」2016ver。今使えるのは模造的で「代役」的な想像力だとしても、それは遠い「過去」から繋がってきた類の力です。歴史を受け取り直して、今の地平なりの戦い方を描くという、2016年を象徴するような一作。「今」の力とは「代役」の力だという結論もカッコいい。

参考:『ハルヒ』放映開始から十年、京都アニメーションがここまで進めた「日常」と「非日常」にまつわる物語〜『無彩限のファントム・ワールド』最終回の感想(ネタバレ注意)

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第9位:『ラブライブ!サンシャイン!!』(公式サイト

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 本作における「過去」とは、「μ's(ミューズ)」のことに他ならず、メタには一大ムーブメントになった前作『ラブライブ!』という作品です。

 で、どうしてその「過去(=μ's)」のことを「受け取り直す」必要があったかというと、やっぱり、μ'sという「過去」がなんかもつれて「今」に影響しちゃってる所から物語が始まるのですね。「呪い」のようなものになってると言ってもいい。

 一番は、穂乃果たちは、次の世代のことを想っていわば「ラブライブ!システム」みたいなものを残したのですが(『劇場版』ラスト)、皮肉にも、「ラブライブ!システム」は「今」では競争が過酷になっていて、非常に新自由主義的で競争原理的な「場」になってしまっているのですね。過酷競争ですから、頑張れるスクールアイドルもいれば、敗北してめっちゃ傷つくスクールアイドルもでてきちゃう。これが、いわば「過去(=μ's)」の「呪い」です。

 「過去」は二重構造になっていて、「μ's(ミューズ)」に加えて、先代「Aqours(ダイヤ、果南、鞠莉)」も「過去」として描かれるのですが、このグループは「μ's(ミューズ)」の「呪い」をもろに食らっちゃって、競争原理で敗北したのをきっかけに「共同体」崩壊を起こしてしまったグループです。

 そういった「過去」を丁寧に「受け取り直し」ながら、先代「Aqours(ダイヤ、果南、鞠莉)」に関しては関係性の縫合を、そして千歌自身は、穂乃果とは、「μ's(ミューズ)」とはちょっと違う道を行く、という所にまで辿り着く物語が描かれます。第12話「はばたきのとき」の、千歌の部屋の壁に貼ってあった「μ's(ミューズ)」のポスターがなくなってるシーンは良いですね。良い意味で、「過去」の、「μ's(ミューズ)」の「呪い」は解けたのです。

 この、「過去」を丁寧に追ってみて、「受け取り直した」上でなら、先人と別の解答に辿り着いても良い、というのが、とても2016年的で良かった部分です。「過去」を、自分のルーツ、歴史、土台を精査し直す地道さと、その上で自分なりの「未来」を選んで良いという自由さとの両立、ですね。

 まとめておいてみます。


・「過去」=「μ's(ミューズ)」が次の世代のために土台を準備するまでの物語の感想。↓

ラブライブ!The School Idol Movie/感想(ネタバレ注意)


・どうも、「過去」は「呪い」にもなり得てしまいそうだぞ、という話。↓

AKB48・μ'sが敷いたアイドル「システム」をブチ殺す(え)段階に入る? 10年代後半型アイドル達:『ラブライブ!サンシャイン!!』・『アイカツスターズ!』そしてSCK GIRLS


・「過去」を受け取り直した上で、「千歌(Aqours)」がどういう「未来」を選んだかという話。↓

普通「星」人の光が届いてモブ子さんは半分だけ「演者」になる〜ラブライブ!サンシャイン!!最終回の感想(ネタバレ注意)


 市井のμ'sフォロワーだった女の子(千歌)が、μ's(=「過去」)を受け取り直した上で(μ'sとは少し違う)自分の本来性にそった「未来」と再契約するという、広く2016年時点の現代人に共感可能な物語で、見事だと思ったのでした。

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第8位:『この世界の片隅に』(公式サイト

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 本作における「過去」とは、リアルの70年前の戦争の頃の「過去」です。

 どう「受け取り直し」ているかといったら、戦争というとイデオロギーチックなものだったり、悲しい出来事だったり、特に本作は広島に近い呉が舞台ですから、原爆の悲惨さだったり、そういうものがまず第一に連想されそうな部分を、そういった当時の状況でも、日常を生きている人達はいたという部分に焦点を当て直して現在まで連れてきてくれる映画とは一つ言えます。

 そこには笑いも、生活への工夫も、恋愛も、性的なものも普通に存在していて、「今」と地続きな感覚を受け取らせてくれます。何より、「自分の居場所はどこか」というすずさんの心情が、「今」でも居場所探しとかしている現代人にも共感できる心情になっていて、70年前と「今」とで環境や状況は変わっても、人間の心理には普遍的な部分があるなぁ、というのを主張し過ぎない機微で淡々と伝えてくれる映画です。

 様々な要素・事象が何重にも入れ子構造になってる作品なのですが、「戦い」だったり「イデオロギー」で受け取られがちな「過去」を、「日常」として「受け取り直す」というのは、劇中ではすずさんが楠公飯を作るシーンなんかもこの意味合いのシーンかと思います。楠木正成自体は「過去」の人で勇壮さであったり戦いであったりが最初のイメージにくる人ですが、そういう「過去」から劇中ですずさん自身が「飯」という「日常」を受け取り直している。このパートのオチがギャグチックなのも、当映画を見て現代人が、意外とギャグ要素もある作品(=「過去」)だった! と感じるとの重なります。

 こうして、戦争の頃の「過去」にも「日常」はあったと丁寧に描いたからこそ、だからこそ、空襲のシーンは怖いです。「日常」は壊れ得る、ということを否応なく意識させられるから。「日常」は70年前の「過去」から地続きだ、と思わせてくれるからこそ、逆に「現在」の「日常」も壊れ得るものなんだ……というのが浮き彫りにさせらる構造になっています。片渕須直監督が制作発表をしたのが2012年なので、制作の動機にはやはりこの国のクリエイター達の全てが影響を受けた東日本大震災の影響もあったかと推察します。全体として、「日常」は壊れ得ることを知っている人達向けに作られている映画と感じます。

 同じテーマに関して、別の視点からもう一つメタなギミックがある作品で、70年前の「過去」の風景描写を丁寧に描くことで、鑑賞者を70年前の「過去」に連れていってくれる、「現在」と地続きな感覚を与えてくれる作品でありながら、その「風景」描写が急に「虚構」的に、つまり「絵に描いたもののように」描かれるシーンが何か所かあります。

 そこで、鑑賞者は、ハっと気づかされるのです。我々は70年前の「過去」について、現実なんて知ってなくて、それこそ虚構的・フィクション的にしか「歴史」を認識できていないのではないか? と。そして、その「過去」と「現在」が地続きである感覚を与えてくれる映画ですから、そうなると、我々は「現在」の現実すら、虚構的・フィクション的にしか捉えらえていなくて、全ては仮想・仮構的な世界の中にいるのではないか? と。

 すずさんが絵を描く人という設定上、またそれが失われるという展開上、「現実」と「虚構」に関するテーマが組み込まれている作品なのは明らかとは思いますが、この「現実の仮構性」に関しては、良いとも悪いとも言わないまま、映画は終劇します。

 思うに、「日常」を媒介に過去と現在を繋ぐからこそ、逆説的に、過去と現在の「虚構」性があぶり出されていく。この構造から、最後にもう一度反転し得る、ギミックなのではないでしょうか。かなり仏教的な感覚になりますが、つまり。

 現在の「現実」も、「絵=虚構」に過ぎないかもしれない。しかし、壊れ得る儚い「虚構」的なものだとしても、そこで(この世界で)我々は「日常」を生きていく、と。100年に一度の映画という語り継ぎに、偽りなしという作品かと思います。

→こうの史代さんの原作漫画







第7位:『劇場版 艦これ』(公式サイト

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 本作における「過去」もまた、リアルの70年前の戦争の頃の「過去」です。

 TVシリーズが「ループする仮構世界」の中の話がメインで、その「外」の世界に関しては断片的に存在を匂わすだけだったのに対して(参考:アニメ艦隊これくしょん -艦これ-/第12話(最終回)感想(少しラストシーンの解説含む))、今回の『劇場版』ではクライマックスのイベントを経由して、「外」、つまり(リアルの)「過去」、太平洋戦争で沈んだ戦艦の映像も出てきます。このTVシリーズでは赤い映像でOPにワンカットだけ出てきた映像が、スクリーンが赤くなって全面に出てくるのは、かなり好きな演出です。解答編! みたいな。

 艦娘たちが過ごしていた「ループする仮構世界」が、「過去世」と「未来世」の両方から相互貫入的に影響を受けている、という複雑かつ哲学的な世界観なのですが、「過去世」側からの話が、やはり70年前の戦争の頃の「過去」ということになります。

 ある意味、そういう「過去」と繋がるまでが描かれているとも言えるのですが、そんな「過去」を「受け取り直せ」ているか? という部分は、若干イデオロギーチックに聞こえるかもしれませんが、リアルの方の現在を生きている我々の世界、平和の方向性とか、合ってる? 大丈夫? と、問いかけてくる感じのメッセージも感じる作品でした。田中謙介プロデューサー自体が、本作の根底には平和主義を置いてる感じですしね。

(田中謙介氏が原作の漫画作品)↓



 艦娘たちが過ごしていた「ループする仮構世界」を描くことで、我々鑑賞者のリアル世界もそんなものなのかもしれないよね、と、『この世界の片隅に』と同じく、我々視聴者が生きるリアル現在世界の「虚構」性をあぶりだしていく……ということをやってるわけですが、それはそうとして、この虚構的・仮構的かもしれない世界で、何故、それでも我々は生きるのか? という深淵な部分にまで本作は踏み込んでいきます。

 艦娘と深海棲艦の関係が、いわば「存在の終わらないループ」になっていることが明らかになった所での、吹雪さんと大和さんの会話のシーンがそれで、このシーンが観られただけでも、この映画観て良かったな、と。

 我々が生きてるリアル世界もそんなループ的・虚構的・仮構的なものかもしれないわけですが、本当に「前」にも「後」にもなんの関係性もない切断されたループだけを生きているとしたら、途切れた断片だけだったとしたら、虚無的で寂しいわけで、何らかの「前」と「後」との関係性、ある種の「永続性」のようなものがほしくなります。

 その「永続性」要素を描いたのが、TVシリーズでは吹雪と提督の関係(未来世でおそらく結婚してる)で、本映画では睦月と如月の関係で描いています。つまり、この虚構的・仮構的・ループ的世界で結ばれた「縁」だとしても、意味はある、ということ。このループ世界での関係の終わり(如月の死)をむかえても、「未来世」での再会を誓う、睦月がもう一度如月を「見つけるから」と言うラストは感動的です。

 二人が再会できるような「未来」を選ぶためにも、この虚構的・仮構的・ループ的「今」を、「前」と繋いで、「外」とのパスを作る必要がある。この場合の「前」というのが、すなわち「歴史」ということです。

 やはり、本作も、これからの「未来」へ向かうための「儀式(イニシエーション)」として、「歴史」という「過去」を受け取り直す物語なのです。

→Blu-ray(TVシリーズ版)





第6位:『ハイスクール・フリート』(公式サイト

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 本作における「過去」は、事故で父母を失った主人公岬明乃の悲しい「過去」です。

 震災後にポスト3.11の「共同体」を模索するような作品の脚本を多数担当されてる吉田玲子さんがシリーズ構成・脚本ですし、父母を失った時期から、やはり東日本大震災という悲しい「過去」が連想されるようになっています。

 迫りくる水(=津波)という連想。


参考:ハイスクール・フリート感想/第7話「嵐でピンチ!」(ネタバレ注意)


 悲しい「過去」を受け取り直して「今」の力に変えていくこと、というのが描かれるのは他の作品と同じなのですが、本作が白眉なのは、いわば震災犠牲者側の明乃側の視点からのみでなく、自分は被災者にはならなかった側、「日常」を続けられた側、明乃に比べると色々恵まれていた側のましろ(家族も全員が元気に健在)の視点からの、明乃が受けた悲しい「過去」の「受け取り直し」が、かなり丁寧に描かれる点です。明乃みたいな立場の人に、大丈夫だった側はどう接すればいいのか?

 結論的には、実際の被災者ではないましろにできるのは、ただ悲しい「過去」を負った明乃と一緒にいることだけです。もちろん、超常の力で「過去」を改変して、無事避難できていたことにしました! とかもできない。

 そんなましろのおかげもあり、明乃も悲しい「過去」をなかったことにはしない上で、自分たちが「お祭り」とかできるくらいには立ち直ってきます(第10話「赤道祭でハッピー!」:感想)。けれど、この作品はそこからで、明乃という主人公は、自分がようやっと「日常」を、幸せを再び手にできそうな所まできながら、今はまだ悲しい立場にいるもえかのことが気になってしまいます。そこで描かれる、人間としての善性。自分も悲しい「過去」を被っていたとして、ちょっと大丈夫になってきたら、まだ立ち直れていない人に目を向けるということ。そして、手助けにいく、ということ。

 第10話で立ち直れたねハッピーだねで終わっていいのに、未だその「日常」の風景から零れ落ちているもえかを「なかったことにはせず」、彼女を助けるために晴風が出撃する第11話〜最終回は胸に来るものがあります。被災者、非被災者、立ち直りかけてきた被災者、それぞれの立場からの「過去」の受け取り直しを描きつつ、そういう様々な状態の人がいる上での「次の」「共同体」のあり方を描いた、吉田玲子さんがシリーズ構成を担当した一連のポスト3.11的作品の中でも、一つの結実に辿り着いている作品です。


参考:あの日欠けてしまった人の日常(=マヨネーズ)に私がなるということ〜『ハイスクール・フリート』第11話「大艦巨砲でピンチ!」の感想(ネタバレ注意)

→Blu-ray





第5位:『ポッピンQ』(公式サイト

 本作における「過去」は、メイン五人がそれぞれに抱えていますが、主立って焦点があたるのは、伊純の「最後の陸上の試合で勝つことができず、自分に嘘をついている」という「後悔」の「過去」と、沙紀のかつてのダンス仲間から排斥されてしまったという、「共同体」崩壊にまつわる「過去」です。

 舞台となる「時の谷」は、未来沙紀と過去沙紀の両方から干渉を受けているという、これは『劇場版 艦これ』の虚構的・ループ的・仮構的世界とほぼ同じ設定なのですが、本作だと未来の沙紀がだいぶ絶望していて、いかんことになってるのですね。

 そういう状況で、「過去」を受け取り直して、ちゃんとしてから前に進み始める物語です。たとえ、「未来」に絶望が待っているとしても、です。

 「過去」の受け取り直し要素は沙紀でも描かれますが、こっちは伊純からの承認という形なので(そのおかげで、一度は「共同体」崩壊を起こした「過去」があっても、その上で「他者」をもう一度信じてみようと思えるようになる)、一番の焦点は伊純で描かれています。

 かなり明確に、それこそ『君の名は。』を念頭に置いてるのか? というくらい、「過去をなかったことにしてやり直すか」それとも「やり直さずに今の友達を選ぶか」という選択肢が伊純に提示されて、伊純は後者を選ぶ、というプロセスが描かれます。

 そこからバトル展開になる(端折り過ぎ!?)飛躍がある作品なのですが、そこで主人公の伊純に立ち現れる能力がダッシュ=「加速」で、これは石ノ森章太郎は『サイボーグ009』の島村ジョーの「加速装置」のオマージュかと思います。ここが、東映さんが「過去」の宮城県は石巻出身の石ノ森章太郎氏の「ヒーロー像」を継いでくれたんだな! と個人的に一番熱かったシーン。東北の想像力は、「東映」さんの中で東京の想像力と共に生きてるんや……! 伊純、よく見ると赤いマフラーも巻いてますし、もろに「仮面ライダー」含む、石ノ森章太郎系の「ヒーロー像」の2016年版の顕現なのですね。

 そして、石ノ森章太郎系のヒーローは内に弱さも抱えながら生きていきますので、伊純も、自分が嘘をついていたことについて、「なかったことにする」のではなくて、「今」でしっかりと認めるシーンが描かれます。その上で、沙紀の元に走る。人が強くなれる理由を、こういう「地道な」要素で描いてくれたのが良かった映画です。ともすると、人間は自分の弱さを認めることを避けてしまいがちな生き物ですので。

 「過去」は「後悔」や「嘘」といった良いことばかりではないかもしれないけれど、そういう清濁の濁も含めて受け取り直した時に、「過去」の高潔なるもの、『009』も受け取ることができる。大事な「今」、友の元へ加速できる。良い映画でした。

→小説版

ポッピンQ
東堂 いづみ
小学館
2016-12-20




第4位『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜 THE LAST SONG』(公式サイト

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 とにかく「過去」の受け取り直しということに関しては、本作は2016年最高の作品だったと思います。登場するヒーロー(超人)とか怪獣とか妖怪とかが、それぞれリアルに存在した実在のヒーローなどがモデルになっており、彼・彼女らの物語を通して、一種の「昭和ヒーロー史」の再構築のようなものを試みている本作。本格評論何十冊分くらいの、質・量がギュっと全24話に詰め込まれています。

 問題は、詰め込まれ、表現されてる事象の質・量が一個人が一度の視聴で咀嚼できる範囲を超えてることですが(笑)、フローになりがちな最近の世で、圧倒的にストックよりの作品ということで、こういう仕事は世界に必要です。何かのタイミングで戻って、読んで(視聴して)また何かを得られるというような、「全集」的な作品も、世には必要なのです。

 そういうわけで「過去」の受け取り直し要素は書き記せる範囲を超えてるので、ここでは最終回の熱さについてだけ。

 主人公、人吉爾朗の前に最後に立ちふさがる里見義昭は、電通の創業者光永星郎がモデルか? と推察されたりなこともあり、まあヒーローとか、そういうものを刹那的な消耗品に変えてきた側の男です。

 そんな世のエスタブリッシュメント側が、ヒーローとか綺麗事を言ってないで、理想ばかり言ってないで、消耗品になれ、タイヤキ的な鋳型で溶かされてエネルギーに還元された方がまだ効率に利すると、ヒーロー(=超人)を嘲笑う。そこで、それまで自らを超人(ヒーロー)と名乗ることを忌避していた爾朗が(自分のルーツがゴジラ的な存在であるため)、ついに「超人」を名乗る。「超人」を守るための「超人」が自分だと。この、自分はヒーローというよりも、ヒーローを守るいわば「メタヒーロー」だ、というヒーロー像がヒーロー的特撮的アニメ的なものを信じて「こじらせた」まま大人になってしまった我々視聴者と重なります。『仮面ライダーディケイド』ですね。そうですよね。同じ會川昇さんですものね。

 結局、ヒーロー(超人)は爾朗も含めていなくなってしまうのですが、読者が、視聴者が信じて望む限り、ヒーローは蘇り得る、というラスト。

 実際、昨年2016年は「過去」のヒーローが蘇ったりな事例が豊富な年でした。『レッドマン』とか蘇りましたからね。↓


参考:過去が今と繋がる時、熊のぬいぐるみは変身し、赤いあいつは蘇る


 僕とTJさん(ブログTwitter)はだいぶ本作の影響受けたからね。TJさんの『レッドマン』同人誌(正確には別にレッドマン中心じゃない!?)も合わせて読むと、「過去」を繋いでいく旅を巡る2016年という年の感覚を、より味わえますよ、と。(TJさんは『コンクリート・レボルティオ』っていうよりむしろ『ディケイド』だって言ってましたけどね。ただ、やっぱり會川先生繋がりでつながると。)↓

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(画像は同人誌『漫画版 仮面ライダーゴースト 60の眼魂と3人のアイドル』より引用)

 在庫なくなる前に買っておくと良いよ! と。↓

→Blu-ray





第3位:『魔法つかいプリキュア!』(公式サイト@朝日放送公式サイト@東映

 →感想(別ブログ)へ

 本作における「過去」はとても重層的に描かれるのですが、エッセンスは第1クールの物語に詰まっています。僕が書いた2016年の(PV数的にも)一番のヒット記事でしょうか。↓


参考:リコ(=Record)が過去を赦して未来に目を向け始める〜『魔法つかいプリキュア!』第1クールのエッセンス(別ブログ)


 まずはリコさんの視点から、人間関係における「過去」の受け取り直しが描かれます。「過去」ではあんなに仲が良くて憧れだったお姉さんとのリズとの関係が、いつの間にかもつれて、リズ姉さんはいつの間にかリコにとって、「プレッシャーを感じる身内」「競争相手」になってしまっていた。

 この歪んでしまっていた「過去」、リコとリズ姉さんの関係が、みらいさんを媒介にして本来性を取り戻して、実は「過去」は「見え方」が歪んでしまっていただけで、「受け取り直す」ことができるというのが描かれます。リズ姉さんは変わらずに、リコさんに無償の愛情を向け続けていてくれたのです。

 この第1クールの「人間関係」の「過去」の「呪い」が解けて、「今」において「過去」との健全かつしなやかな関係性を回復するという物語が、やがて、「世界」の「過去」にまつわる遠大な物語にまで繋がってゆきます。

 なんだか、二つの「世界」。ナシマホウ界と魔法界は、元は一つの世界だったという「過去」があったりするらしい。

 その劇中の「世界」の「過去」にかつて何があったのか? というのを受け取り直していく物語が、今では二つに分かれた「世界=物語」が過去は一つだった、原初「物語」みたいなものがあるのだろうと描かれていくので、劇中で『シンデレラ』がモチーフとして多用されているのを踏まえて(一番は、:第29話「新たな魔法の物語!主役はモフデレラ!?」:感想:別ブログ)、これはリアルの方の南方熊楠の「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」という論文を踏まえての作品なのだろう、という説は僕が提唱していたところでした。↓


参考:過去と未来、現実と想像は「シンデレラ」で「和(=プリキュア)」に至る〜魔法つかいプリキュア!第40話「愛情いっぱいのおめでとう!リコの誕生日!」の感想(ネタバレ注意)(別ブログ)


 リアルの方でも、あまり考えないで生きていると、「過去」に何があったのか僕達は知らなかったりする。それではあまりに「今」だけに束縛された「個(アトム)」になってしまって、結局それは、孤独という状態に落ちていってしまいます。

 だから、「過去」を受け取り直すプロセスを旅してみる。

 遠大な、通時的、歴史的なものを受け取り直して、繋がっていく物語。現在ラスト三話が残っておりますが、物語が閉じられる絵を、楽しみに待っているのです。

→Blu-ray

魔法つかいプリキュア! Blu-ray vol.1
高橋李依
ポニーキャニオン
2016-09-21




第2位:映画『聲の形』(公式サイト

 「破綻的な出来事」が主には二つ描かれます。

 まず本作における「過去」は、「いじめ」という帰結にしか辿り着くことができなかった、西宮硝子と石田将也にまつわる、小学生時代の悲しい「過去」です。

 その「悲しい過去」を、現在で浄化することができました、めでたしめでたしという物語であったのなら、どんなにかシンプルで、ともすれば「分かりやすい」感動も得られやすい物語だったのかもしれないのですが。

 本作では、容赦なく、硝子と将也という二者間の関係性、仲間という「共同体」、そういうものを作り直した「今」が、再び崩壊してしまう展開が描かれます。

 どこかで、「悲しい過去」「破綻的な出来事」「後悔」、そういったものを、安易に「今」の想像力で「なかったこと」にしてしまうことについての、批評的な展開のように僕には思えます。

 山田尚子監督・吉田玲子さん脚本の『けいおん!(!!)』コンビで再び作られている作品だからということもありますが、(たとえば「軽音楽部」の)仲間の存在、(「音楽」を)好きって気持ちだったりで、「日常」を生きていくことの「輝き」を取り戻せたなら、どんなにか良かったのですが、本作は、『けいおん!(!!)』で描かれていたような「輝き」の中には入れなかった側の人間の物語なのです。

 二つ目の「破綻的な出来事」。「橋」のシーンにて、表面的に再生されたかに見えた「仲間」という「共同体」は、取り繕っていたこと、「なかったこと」にしていたことが表出して再崩壊してしまいますし、西宮硝子は「花火」(『けいおん!(!!)』における「日常の輝き」の象徴)の日に投身自殺をはかってしまいます。彼女の笑顔の奥のものを、将也も視聴者も捉えられてはいなかったのです。印象的な「告白のすれ違い」のシーンのように、我々は分かってるようで分かってない、「すれ違い」のまま生きている。

 ここからの将也に助けられて生き残ってしまった硝子というパートが、特に劇的なことは何も描かれないのですが、この作品のコアの一つかと思います。自分だけ生き残ってしまった、という感覚。こんな自分が生きていて良いのか、という感覚。

 そういうものを抱えながら、ただ生きる、ということ。超常の力でなかったことにできたりも、しない。


 私が壊してしまったものを取り戻したい。


 雨に打たれながら、硝子はもう一度「橋」で別たれた人間たちのもとを訪れて回ります。静かな。絶望の中を生き続ける、ということ。

 劇的なことは起こらない。最終的に将也は目を覚ますのですけど、ファンタジー的な力とかはもちろん絡んでないですし、なんら奇跡的なことがあったわけではない。でも、目覚めないかもしれない人のことを想って、歩き続ける。何かが届くことが、ある。僕も経験がありますし、分かる人には、分かる。

 生き残った硝子も将也も、幸せになりましたハッピーという感じのラストでもないです。

 ねざめ堂さんのこちらの記事で知ったのですが。↓


映画『聲の形』感想メモ:「スキ」と「バカ」/ねざめ堂


 ラストの硝子と植野の手話を絡めたやり取りも、ようやっと通じ合えました、めでたしめでたしというシーンではないのですね(植野の手話は間違ってる、「バカ」が「ハカ」になってる)。反目し合った二人が通じ合えたエンドでもない。あくまで、我々は最後まで「すれ違った」まま。

 ラストシーンは場としては文化祭ですが、『けいおん!(!!)』のように将也や硝子が何らかの檀上に上がるでもない。どこまでも、「輝き」があたる場所にはいなかった人間たち。「特別」「完全」からは遠い側の人間たち。

 だけど、耳をすますと聴こえてきます。「日常」の声が。あるいは、自分を批判する声が。つまり、やはり「特別」でも「完全」でもないまま、この世界で生きている人達の声が。

 分かりやすい解法はないです。それでも、不完全なままで、この世界で生きていくということ。

 なんら問題を解決する類の劇的だったり奇跡的だったりするイベントが起こらない映画ですが、あえて最後のシーンで将也と硝子がちょっとだけ生きやすくなってる理由をあげるなら、世界にある、あなたに向けられている善なる視線。つまり、それが本作における『声』の一つだと思うのですが、そういうものを少しだけ受け取れるようになったから。

 それはあるいは、親・お祖母ちゃんから子や孫へ向けられている視線。そこに生きる人間につらいことがあっても、何千年も変わらずに見守ってくれている風景。将也自身が姪のマリアが椅子から降りたいけど降りられない……と迷っていたところを椅子から降りられなくなっていたのに気づいて、何も言わずに下してあげる……ということをやってるシーンが描かれていますが、そんな何気ない人の、何気ない手助け。これらは捉え方次第では、何れも「過去」から送られてくる類のものとも言えます。本作は、そういうものを受け取れるようになるまでのリハビリの過程を綴った物語とも言えるかもしれません。そして、こうした『風景』・『声』を受け取り直すという物語は、続く同京都アニメーション作品、『響け!ユーフォニアム2』の「過去」からの『風景』の中で「慰霊」の音楽を奏でる、というシーンで結実していきます。


参考:映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意)

→Blu-ray

映画『聲の形』Blu-ray 初回限定版
入野自由
ポニーキャニオン
2017-05-17


→大今良時さんによる原作漫画





第1位:『響け!ユーフォニアム2』(公式サイト

 →当ブログの感想へ

 本作における(悲しい)「過去」を受け取り直す物語は、四重奏にて描かれていて、それぞれが同じ構造を取りつつ、しかしそれは単調ということではなくて、繰り返されるうちに少しずつ色彩を深くしてゆくようになっています。

 まず第一に、北宇治高校吹奏楽部の二年生メンバー・旧南中学出身組という「共同体」の「過去」の破綻を受け取り直す物語。かつて(中学生の頃)「特別」性を有していた希美さんは競争原理(コンクール)における敗北という「過去」を機会に、何かがもつれていってしまいます。

 ちなみに、本作が全体として、京都アニメーション文脈において「ポニーテール」の記号で継承・変奏されながら描かれている、『ハルヒ』文脈の作品で、特に『響け!ユーフォニアム2』は「特別」性を手放すまで(受け取り直すまで)の物語だというのは、前提となっているこちらの記事を参照して頂けるとよりしっくりと馴染んで頂けるかと思います。↓


参考:[5000ユニークアクセス超え人気記事]響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)


 さて、「もつれ」は主にみぞれさんと希美さんの人間関係が破綻してしまったという形で立ち現れています。「もつれ」の結果、希美さんは北宇治高校吹奏楽部という「共同体」の「外」に排斥されてしまって、だけど、みぞれさんはずっと希美さんのことを想って演奏を続けている。この「想い」が届くのか? というのが、第五話までの第一の物語です。

 この物語は、優子さんという、みぞれさんにとって希美さんの「代役」である存在の助けを借りながら、「過去」のもつれは縫合され(受け取り直され)、いわば「共同体」の「外」と「内」がリンクすること(想いが届くこと)、歴史における「過去」と「今」がリンクする瞬間が描かれることで、結実します。

 この第一の物語が、作品全体の物語の暗示・エッセンスになっていて。

 続く第二の物語。こちらの(悲しい)「過去」を受け取り直す物語は、あすか先輩が、幼少期に父と母が離婚してしまっているという「過去」を受け取り直す物語として描かれます。お父さんはお母さんを選ばなかったということですから、こちらも根底にあるのは「競争原理」です(本作で「恋愛」要素が「競争原理」と絡めて描かれている点については、過去の感想を参照です。)。

 この第二の物語の「もつれ」も、主にあすか先輩と父・進藤和正との人間関係の破綻を、どうしていくのかという物語として描かれます。あすか先輩はユーフォニアムと「響け!ユーフォニアム」という曲(=あすか先輩という存在の肯定)を自分に送ってくれた父・進藤和正に「想い」を届けたいと思っていますが、それはエゴでもあると葛藤して、最終的には自棄、自分自身を北宇治高校吹奏楽部という「共同体」から排斥するということを選ぼうとしてしまいます。

 この第二の物語は、主人公の久美子が、いわばあすか先輩にとってお父さんの「代役」として怒涛のあすか先輩の存在の肯定を行って(この第十話の黒沢ともよさんの演技がすごいのです)、あすか先輩が受け取れなかった「過去」の分の存在承認も久美子から受け取って、あすか先輩は「共同体」の「外」から「内」へと戻ってくるという結末で結実します。第十二話の最後の演奏でも、滝先生からの伝言という形で、どうやらあすか先輩の演奏(想い)は父・進藤和正に届いたらしい、というのが描かれます。この第二の物語もまた、「過去」の「呪い」と向き合い、「もつれ」を解く物語なのです。

 あすか先輩をめぐる第二の物語について詳しくは、こちらの記事などを参照です。↓


参考:この世界との縁がほどけてしまわないように〜響け!ユーフォニアム2第九回「ひびけ!ユーフォニアム」の感想(ネタバレ注意)

参考:『けいおん!(!!)』から五年経ったあなたへ〜響け!ユーフォニアム2第十回「ほうかごオブリガート」の感想(ネタバレ注意)


 第三の物語。主軸の物語。主人公の久美子と姉の麻美子といういわば家族「共同体」の人間関係が、姉がトロンボーンを辞めてしまったという「過去」をきっかけに破綻し始めているというのが描かれます。麻美子がトロンボーンを辞めたきっかけは「受験」ですので、こちらも「競争原理」的な事項で、全体として四つの物語は、「競争原理」がきっかけでもつれはじめた悲しい「過去」を受け取り直してゆく物語として、同じ構造を持っているのが見てとれます。その「もつれ」に起因して、麻美子が家族「共同体」から「外」へと出て行ってしまうという構造も同じです。

 それでも、これまでの物語と同様に、久美子は「外」に出ていってしまった麻美子に「想い」を届けたいと思っています。

 この第三の物語は、秀一が、いわば久美子にとって麻美子の「代役」(秀一も高校に入ってから麻美子と同じトロンボーンを選び直している)として久美子への存在承認を行って(誕生日・久美子という存在が生まれたことを祝福する「あなたを想い続けます」が花言葉の「イタリアンホワイト」の花飾りを贈る。「代役」である秀一の方の「想い」は届かないとしても)、麻美子への「想い」という「過去」を受け取り直した久美子の演奏が、「想い」が最終的には麻美子に届くという結末で結実します。「共同体」の「外」へ行ってしまった麻美子から、四つの物語のうちで唯一、麻美子本人から「内」にいる久美子へと「私も大好きだよ」という「返事」が戻ってくるという結末の感動については、こちらの記事などを参照して頂けたら幸いです。↓


参考:まだ生きている大事な人にちゃんと想いを伝えておくこと〜響け!ユーフォニアム2第十二回「さいごのコンクール」の感想(ネタバレ注意)


 ラスト、第四の物語。本記事を締めくくるにふさわしい、「慰霊」にまつわる物語。

 最後の(悲しい)「過去」を受け取り直す物語は、滝先生が、奥さんを亡くしているという(悲しい)「過去」を受け取り直す物語として描かれます。劇中の滝先生の奥さんが亡くなったのは五年前ですので、東日本大震災から五年という月日と重ねる、意図的な演出であろうと思われます。

 この最後の物語の「もつれ」は、滝先生の奥さんは故人ですので「共同体」の「外」というよりは、この世・この世界の「外」に行ってしまった存在です。ここで、希美さん(第一の物語)、進藤和正(第二の物語)、麻美子(第三の物語)といった、「外」に行ってしまった人間に「想い」を届けるという物語が、全て、この世界の「外」へ行ってしまった故人へと「想い」を届ける「慰霊」の物語として、変換され、また集約されていきます。

 これまでの全ての「外」の存在へ「想い」を届けるための物語に関わった登場人物たちの物語を受けて、最後に滝先生の奥さんの「代役」になるのは、麗奈です。つまり、『響け!ユーフォニアム2』という物語は、「競争原理」の中で一番勝ち抜けそうな意味で「特別」だった麗奈が、第一〜第三の物語における、優子、久美子、秀一のような「代役」の位置にまで降りてきて(「特別」性を手放して)、ただ、亡くなった故人のために「慰霊」の演奏を捧げるまでの物語でもあった、ということです。

 第十一話のラストシーン。墓地にて、滝先生の奥さんの「代役」として、故人の代わりにトランペットを演奏する麗奈……というシーンは、美麗な背景美術で千年を超える京都の風景を描写しているのも相成って、「過去」、「亡くなった人々」、「風景」、そういう存在と「想い」を相互貫入する……ということについて描いている、ちょっとすごく、美しく、そして切ない領域を描いている場面です。↓


参考:響け!ユーフォニアム2感想/第十一回「はつこいトランペット」(ネタバレ注意)


 麗奈は勝ち抜く意味での「特別」にはなれなかったけれど、今後、彼女が当初から忌避していた同調化圧力に流されることも、競争原理に翻弄されることももうなさそうです。「慰霊」を通じて、歴史・風景とのパスを再構築しているので、その「確かさ」は、ともすればどこかに飛ばされそうになってしまう現在において、彼女を繋ぎとめる楔になるはずだから。

 この「過去」を受け取り直し、「歴史」を尊重し、「故人」へ「慰霊」の態度を向け続けることから導かれてゆく「確かさ」こそが、大事なものだと感じたので、『響け!ユーフォニアム2』という物語を、2016年に描かれた大事な物語として受け取って、ここまで選んできた十作品の帰結としたいのでした。


参考:響け!ユーフォニアム2最終回の感想〜全てに終わりがあるとしてもゆかりにまつわる音楽を響かせること(ネタバレ注意)

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響け!ユーフォニアム2 1巻 [Blu-ray]
黒沢ともよ
ポニーキャニオン
2016-12-21


 ◇◇◇

 以上。2016年のアニメーション作品ベスト10でした。

 2016年の作品なのに、一番の大ヒットを記録した『君の名は。(公式サイト)』を選んでいないのは、「過去」の「悲しい出来事」「破綻的な出来事」、そして「後悔」に対する態度が、本記事で選んできた作品とは逆だと感じられてしまう部分が、個人的には気になってしまったからです。

 『君の名は。』劇中の糸守の彗星災害は、防災無線、発電所、「てんでんこ」を連想させるシーンなどなどから、東日本大震災が連想されるように作られているのは、ほぼ確実かと思います。

 「東京(関東)の想像力」と「関西の想像力」の違いについて、こちらに書いたりしました。↓


参考:2016年年末上京雑記〜相羽さんとTJさん大泉で今年の作品を振り返る編


 どうしても、「東京の想像力」的な超常の力で震災を「なかったことにする」エンディングと受け取れてしまって、そこが気になってしまったのでした。個人的な感覚を多分に含みますが、あの日から、大変な時間、苦しい気持ちと、何とか折り合いをつけながら地を這うように生きてきて、今も生きているのに、なかったことにしました(みんな避難できていたことにしました)、ハッピーエンドとしましょう、というのは、どうしても引っかかってしまうのでした。その「なかったことにする」志向性は、本記事で選んだ十作品の「慰霊」の態度とは、違うものです。

 僕個人も震災で友人を亡くしていますが、生きていたことにしました、ハッピーエンドとしましょう、と言われても、うーん、そういうことじゃないのだけどな……という感覚になってしまうという。

 東日本大震災を扱った、「ポスト3.11作品」という側面からの『君の名は。』評が国内から出にくいのは(海外だとけっこうある。僕が読めるのは英語圏のものだけですが……)、東京側からの視点で論じようとすると分別がある方ほど「当事者でもない自分たちが論じてよいものだろうか」という意識が働きますし、逆に被災地側からの視点で論じようとすると、上記の「なかったことにする」問題に触れる必要が出てくるので、世の中が絶賛してる中で、わざわざ「めんどうなこと」を言い出すのは気がひける……という構造があるからかもしれません。

 海外でもヒットして、経済効果を生み出してくれたり、日本のブランドイメージに貢献したりしてくれているところはめっちゃありがたくて、大絶賛したいのですけど、ただ作品内容に関しては個人的な一東北人としては「倫理」の面で気にかかってしまう……という複雑な想いを『君の名は。』に関しては2016年、感じ続けていました。

 しかし、もう少し広い通時的なスパンで考えてみると、当記事の「過去」を「受け取り直す」という姿勢は、やがて『君の名は。』という作品、そして大ヒットしたという事象にも適用されていきます。

 その時、しばらくして「過去」になった『君の名は。』が大ヒットしたという「悲しい」出来事(作品の内容というよりも、震災という破綻的な出来事を前提として、それを「忘却」したいという潜在意識的ニーズに応えていた側面があったという点において)を、僕も「受け取り直す」ことはできる気がしております。また、新海誠監督自身が、しばらくしたら『君の名は。』を受け取り直すような、新たなる「ポスト3.11作品」を作りそうだよな、とも。(その時は是非、「なかったことにする」を「しない」ヴァージョンでかつ、ヒットもするというような凄い作品を期待したいです。)

 そうなると、大事になってくるのは、個人的には絶えず「過去」を受け取り直し続ける、「なかったこと」にはしない、「忘却」に抗う終わらない過程、地道な態度ではないかと思っております。

 これは、「今」だけに向けることも可能だった(たとえば資金的・時間的・人材的)リソースを、「過去」にも向けるということなので、「めんどうな」ことかもしれません。

 しかし、その「過去」を受け取り直し続けるという「めんどうな」ことをあえてやり続けることこそが、人間存在を前後から分断された「刹那的な消費マシン」に変えてしまう類の力から一人一人を守ることに繋がり、逆説的に「今」の「輝き」とか「幸せ」の補強に繋がってゆくと思えてならないのです。

 中村伊知哉さんのTwitterからの引用になりますが。

 この、世界からあると思われてる「創造性」のけっこうな部分が、アニメーション作品によって担われているのは想像できるところです。

 何かと厳しい昨今、(国際競争力があるという意味での)良い部分は、発展させていきたいところです。近年特に話題になっている、アニメーション制作の現場の低賃金の問題や、制作・プロデューサー等の独立のための制作会社の分離・分社化の進行。そして各社の営業に対する受注本数が増加した結果、それに伴う1社当たり、および1ラインあたりのクリエイター、制作進行スタッフが相対的に減少してるといった状態をどう改善していくか(参考:プロデューサー2/山本寛オフィシャルブログ)、そもそもの新自由主義の帰結としての富の偏在の問題をどうしていくのかなど(再分配方式をちゃんとやっていく方向なのか、もっと根底からのパラダイムシフトを目指すのか、など)、地道に解決していく道のりが、2017年以降の我々には待っています。

 本記事が、読んでくださった方にとって、今年の助走となるような文章になっていたなら幸いなのでした。

 アニメーション作品が大好きです。続きは、2017年へ。

●参考リンク:去年以前の当ブログのベスト記事など↓

・2015年
2015年「アニメ作品」ベスト10〜共同体から零れ落ちた人間にも、それまでとは違うカタチなりの祝福を(ネタバレ注意)

・2014年
2014年ランゲージダイアリー的ベスト、「アニメ部門」へ
2014年ランゲージダイアリー的ベスト、「漫画部門」へ

・2013年
2013年ランゲージダイアリー的ベスト、「漫画部門」へ
2013年ランゲージダイアリー的ベスト、「アニメ部門」へ
2013年ランゲージダイアリー的ベスト、「小説部門」へ

・2012年
ランゲージダイアリー的「2012年にふれた作品ベスト10」(この年はまとめの記事でした)

・2011年
ランゲージダイアリー的2011年ベスト/アニメ編
ランゲージダイアリー的2011年ベスト/小説編