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ネタバレ注意です。
やはり近年の京都アニメーション作品で、作品が変わってもリピートしたり変奏したりしながら受け継がれている、
・「虚構と現実」
・「共同体」
の二つのテーマは、本作の第1話からも感じるところでありました。
1.「虚構と現実」
こちらは分かりやすいですね。
『涼宮ハルヒの憂鬱(感想)』におけるハルヒ(虚構)とキョン(現実)、『境界の彼方(感想)』における妖夢(虚構)と人間(現実)、『無彩限のファントム・ワールド(感想)』におけるルル(虚構)と晴彦(現実)、色々と近年の京都アニメーション作品にはこの要素が組み込まれておりますが、本作もドラゴン(虚構)と人間(現実)という要素が一つあるのだろうと思います。
OPの小林さんがプログラミングでメイドラゴンの絵を具現化しているシーンなんかがそれで、トールをはじめ、ドラゴンさんたちは、どこか人間の想像力(創造力)が生み出した「虚構」というニュアンスが入っている作品だと感じました。
そして、近年の京都アニメーション作品が描き続けているのは、「虚構」と「現実」は「二項対立」的にお互いを排斥し合うものではなくて、間に「境界領域」を設けて、「波打ち際」のようにしなやかに行ったり来たりするような風景、相互貫入し合えるような「余裕」の領域があることがイイんじゃないか、というメッセージですので、本作でも第1話から、「虚構」と「現実」が「波打ち際」的な「境界領域」を形成している様子が描かれていきます。
「虚構」と「現実」のお互いの領域(テリトリー)への入口の象徴として描かれているのは「ドア」で、ここは入念にトール(虚構)視点からと、小林さん(現実)視点からと、両サイドから描かれるシーンがどちらも入っておりました。
トール(虚構)視点から「ドア」が開くと小林さんが、という冒頭。この後、小林さんが家の中という自分の「領域」に一旦トールを招き入れているのがイイですね。がっちり線を引いて、ここからこっちは私の「領域」、そっちはあなたの「領域」、お互いに相互不可侵! とギチギチになってしまうのじゃなくて、ちょっと自分の「領域」に入れてみたり、出て行ってみたり、そういう波が寄せては引くような「波打ち際」的なしなやかな感覚が描かれています。
そんな「現実」サイドの小林さんがこの状況を「夢(虚構)」と疑っているように、早くも「虚構」と「現実」が交差し始めます。つまり、作品タイトルにもなってる小林さんの家、「小林さんち」が「境界領域」ってことなんだと思います。
続いて今度は小林さん(現実)視点から、「ドア」に向かってトール(虚構)が出て行っちゃいそうになって、ここで(視聴者と重なる)我々「現実」で疲れたりしつつも仕事とかしながら生きてる大人と、いつか想像した「虚構」との接触は終わってしまうのか……とタメた上で、トール(虚構)に乗って会社(現実)に行く……という、「虚構」と「現実」が手を繋ぐ展開へ。
さながら、会社(現実)で仕事とかしてるよ、でも一方で胸にはアニメーション(虚構)的なものとか持ち続けてるよ、という我々視聴者の、こうあれたならという理想のごとしです。
こうして、物語は始まります。
2.「共同体」
京都アニメーション作品がずっと追っている「共同体」にまつわるテーマに関しては、前作『響け!ユーフォニアム2』にて、「次の」「共同体」のカタチを素描してみせていた、という点は、こちらの記事を参照して頂けたら幸いです。
一番、『響け!ユーフォニアム2』における「共同体」の構造を分かりやすく解きほぐしているのはこちらの記事ですね。↓
●まだ生きている大事な人にちゃんと想いを伝えておくこと〜響け!ユーフォニアム2第十二回「さいごのコンクール」の感想(ネタバレ注意)
本作でもやはり、(「共同体」における)「内」と「外」がキーとして描かれていそうです。
白眉なのは、本作では(広義での)「言葉」の要素を「共同体」の要素に絡めている点で、小林さんと滝谷さんの濃ゆいIT関係の仕事の話を、トールは全然理解できない、というシーンが描かれます。
これは、いわば小林さんと滝谷さんが自分たちの「内」だけで通じる「言葉」で話していて、トールはその「外」に置かれてしまっている、というシーンなのですね。
このように、ある「共同体」の中だけで通じる「言葉」(含意:コノテーションなどを含みます)でやり取りするコミュニケーションを、「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」と言います。
これは、「日本」という「共同体」の中で、「日本語」だけでコミュニケーションしているような状態です。
一方で、ある「共同体」と、別のある「共同体」が、お互いに「外」でやり取りするコミュニケーションを、「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」と言います。
こっちは、「日本」という「共同体」出身の人と、「アメリカ」という「共同体」出身の人とが、「日本語」と「英語」と両方を駆使しながら、なんとかコミュケーションをとっていく感じの交流の仕方です。
この二つのコミュニケーションの違いに関しては、加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」(『日本文化のかくれた形(かた)』収録)に詳しく書いてありますので、興味がある方は手に取って読んで頂けたら幸いです。↓
で、このシーンで描かれているのは、小林さんと滝谷さんが「IT関係の言葉」という「内」の中だけで通じる「言葉」を使った、「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」をしている、というシーンなのですね。
図にすると、
[小林さん→←滝谷さん] トール
という状態です。
続いて、小林さんと滝谷さんは、今度は「メイド関係の言葉」という「内」の中だけで通じる「言葉」を使った、「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」をするというシーンが描かれます。ここでも、トールは「外」の位置にいて、「内」の会話には入っていけません。
図にすると、再びこうです。
[小林さん→←滝谷さん] トール
なんで、「IT関係の言葉」と「メイド関係の言葉」と、題材を変えて二回繰り返しているのかというと、ここが妙味で、まず「IT関係の言葉」でやりとりされている小林さんと滝谷さんの会話の内容を注意深く聞いてみると、これは「親会社」と「下請け」という、それぞれの「領域」を持つ二者が、「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」の方をしているという内容になっていたりします。
そして、小林さんが概ね、「親会社」・「下請け」と、違う「領域」だ! ときっちり線を引いてしまうんじゃなくて、間に「境界領域」があることが大事だ、みたいな話をしています。
図にすると、
A:[親会社]→<境界領域>←[下請け]
という感じですね。こっちは「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」ですので、全体としては、「IT関係の言葉」という「内」同士で「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」をしている小林さんと滝谷さんの会話の中に、「親会社」と「下請け」に関する「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」が組み込まれている、という構造になっていって、近年の京都アニメーション作品で頻繁にみられる、「二項対立」で捉えるのではなく、二つの概念を一即多・多即一みたいな(仏教方面の用語ですが)「全体性」で捉える、ということが成されています。「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」と「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」は排他し合うものではなく、この世界にある両面、みたいな感じですね。
続く「メイド関係の言葉」で成されている話もまったく同じ構造になっていて、こっちは会話の内容を詳しく追ってみると、「クラシックメイド」(まあざっくりとは英国源流)と「フレンチメイド」(まあざっくりとはフランス風)という、それぞれの「領域」を持つ二つの概念が、「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」の方をしているという内容になっていたりします。
そして、ここでは滝谷さんが概ね、「メイド」と「ゴシックロリータ」という違う「領域」はお互いに認め合いながらも安易に混同するのには慎重に! みたいな、やはり「境界領域」が大事だ、みたいな話をしています。
図にすると、
B:[クラシックメイド]→<境界領域>←[フレンチメイド]
ということですね。こちらも、「メイド関係の言葉」という「内」同士で「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」をしている小林さんと滝谷さんの会話の中に、「クラシックメイド」と「フレンチメイド」に関する「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」が組み込まれている、という、総じては「全体性」で捉える、という構造になっています。
そしてそして、何で話題が二つ出てるのか、という理由ですが、この「IT関係」と「メイド関係」が、それぞれ「仕事」と「趣味」という二つの「領域」にそれぞれ関係しています。「仕事」と「趣味」はそれぞれ(どちらかというと)「現実」と「虚構」に対応しますから、「1」の「虚構と現実」テーマともここでリンクする、とも捉えられるかもしれません。
「A」と「B」の話題内でそれぞれ「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」の話になっていながら、メタにもう一歩カメラを引くと、「A」と「B」自体が「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」になってるという構造ですね。
メタな部分も図にしてみると、
C:[仕事の話]→<境界領域>←[趣味の話]
となってる、ということですね。
そしてここから、「仕事の話」にしろ「趣味の話」にしろ、小林さんと滝谷さんの「内」だけで通じる「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」でやられてしまったトールは拗ねてしまって、滝谷さんに自分のドラゴンである姿を見せて威圧しようとする、という行動に出ます。
外国人であるトールがいる中で、小林さんと滝谷さんが日本語でばかりコミュニケーションするので、つい、「この東洋人が!」みたいな態度を取ってしまったがごときシーンとでも言えるでしょうか。
このシーンでの滝谷さんの返しが素敵でしたね。自分とは違う「領域」にいる(何しろドラゴンなので)トールが迫ってきても、ナチュラルに受容するということをやってみせます。
「君は小林さんが大好きなんだね」(滝谷真)
民族問題とか人種問題とか、「領域」にまつわる軋轢・悲劇が生じやすいこの世界において、日本的な、「和歌」の前の平等の精神を滝谷さんが見せたがごときシーンです。
階級、カーストは歴史的に日本にもあったのですけれど、たとえば『万葉集』には上は天皇から下は農民、兵士、乞食に至るまでの人々が詠んだ歌が収録されていて、男女の差別もないですし、地域も様々な場所で読まれた歌が収録されています。
「和歌」が「好き」っていう気持ちの前にカーストが無効化されていたのですね。これは、各々の自発的たましいが発する「好き」が出発点で出現する「平等」であって、言葉は同じ「平等」でも、トップダウン式の旧社会主義圏の「平等」とはだいぶ違っていて、個人的にいつか地球に出現するかもしれない真の意味での「平等」に関して、示唆を与えてくれる考え方だと思っております。
日本的な精神性に関して、「和歌」の前の平等という捉え方を最初にしたのはおそらく渡部昇一氏で、氏の本は全体的にちょい「右」よりに偏りがちだなぁとは思いつつ(最早右左という捉え方自体が現実の捉え方に関してプラクティカルな意味を持ってないとも思いつつ)、この「和歌」の前の平等に関する考え方の部分はけっこう好きな部分で、何かと民族・人種、エトセトラ、「領域」にまつわる悲劇が生じがちな最近の世界の中で、日本的なものが役立てるとしたら、その一つではないかと、「アニミズム」と共に注目している概念です。
こちらの本なんかに詳しく書いてあるんで、興味があったら読んでみてください。(ただ、歴史認識の話は例によって全体的に右よりです)↓
そんな感じで、「和歌」が「好き」っていう気持ちに貴賤はなく、異なる「領域」の者でも通じ合えたように、このシーンではトールの小林さんを「好き」っていう気持ちを、「領域」が異なる滝谷さんも尊重してるってシーンだと思うのです。滝谷さんも恋愛的な意味かはともかく、小林さんに好感は持ってるのでしょうから、いわば小林さんの前の平等です。
滝谷さんもメイドが「好き」って気持ちを持ってる人ですから、対象が違っても、何かを「好き」って気持ちはイイね! っていうのが分かってる。その気持ちが、時に「領域」が異なる者同士の橋渡しをする。ラブライブ!ガチ勢だろうと、イングヴェイ・マルムスティーンガチ勢だろうと、「好き」って気持ち自体はイイんじゃないか、という。
京都アニメーション作品のファンとしては、この部分に、『けいおん!(!!)』の唯の「好き」っていう気持ち、『響け!ユーフォニアム(2)』の久美子の(ユーフォニアムや麻美子を)「好き」っていう気持ちまでを、遠景に見てみてほしい感じです。
このシーンは本当に良いですね。個人的には友人の与力さん(ブログ)が昨年開催した「丸会」とかを思い出しましたよ。大河ドラマ『真田丸』が「好き」という気持ちでネット(与力さんのブログ)を通して集まった、下は二十代前半から上は六十代中盤までの年齢一つでも「領域」を超えた人達が集まって楽しい時間を過ごせたという。↓
●徒然『真田丸を語る会』日記 〜2016/10/22〜/〜 Literacy Bar 〜
いわば、『真田丸』の前の平等ですか(笑)。
何か、「次の」「共同体」の可能性の一つを感じずにはいられません。
さらに一歩進んでみると、『響け!ユーフォニアム2』の感想で、たとえば『源氏物語』が「日本」という「共同体」を維持する楔の一つになっていたように、『響け!ユーフォニアム』という作品自体が、一つの「共同体」の楔になれたなら、と願う領域まで入っていってるんじゃないか、という話をこちらの記事で書きました。↓
●響け!ユーフォニアム2最終回の感想〜全てに終わりがあるとしてもゆかりにまつわる音楽を響かせること(ネタバレ注意)
「和歌」、アート的なものを媒介にして、(ある種の理想的な意味での)「平等な」「共同体」があり得るかもしれないという話がアリなら、「和歌」の役割を、これからは「アニメーション」が果たしていけたなら、というのは夢物語ではないとも思うのです。たぶん、それくらいの射程でもっては制作してますよね。
一方でトールはトールの方で、同じ背景の者同士、「内」の中でしか通じない「言葉」を持っているのも描写されています。
ファフニールさんとルコアさんに電話をかけるシーンがそうで、ファフニールさんの方は半分ギャグチックですが、「人間殺せ」っていうのは、まあドラゴン同士としては共通で理解できる「内」の「言葉」で「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」なわけです。
で、ルコアさんの方が描写量は多くて、いわば小林さんと滝谷さんが「IT関係の言葉」や「メイド関係の言葉」という「内」でだけ通じる「言葉」で「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」していたように、世界樹がどうこうという例えは、ドラゴン同士の「内」では通じやすい「言葉」なのですね。なので、ここではトールとルコアさんが「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」をしていると言えます。
図にするとある意味、
[トール→←ルコアさん] 小林さん
ですね。(ルコアさんは「翻訳者」的なポジションかと思います)
このように、「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」と「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」は同時に存在しつつ、絶えず相手を変えたりしながら行き交っています。
ラストシーンは、小林さんと滝谷さんの前では二人の「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」に入れない「外」に置かれちゃったりしていたトールが、それまでは小林さんと「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」しかできていなかったトールが、「布団の中」という「内」で、初めて小林さんと「intra-group communication(集団内コミュニケーション)」ができた、というシーンになっています。
図にすると、ようやく、
[小林さん→←トール]
ですね。
ここでようやく明らかになるのが、小林さんに伝わるのが、トールの「傷」、「痛み」だというのが妙味で、これ、酔っ払った小林さんとトールがどういう話をしてトールが「小林さんち(=「境界領域」)」に来たのかはまだ明らかではないのですが、おそらくトールは『響け!ユーフォニアム2』における、希美さん、あすか先輩、麻美子、滝先生の奥さん辺りのポジションの、「外」に追いやられてしまった経験がある子なのですよね。
ドラゴンと人間が「inter-group communication(集団間コミュニケーション)」の悪い方の帰結として戦争した結果、「傷」を負った子。
小林さんはそういう子に「居場所」をあげたんだろうと思います。
小林さんが「ポニーテール」なのも、これはどこかで彼女も何らかの意味で「特別」性を有してると描かれるのかな? と楽しみですし。
参考:[5000ユニークアクセス超え人気記事]響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)
「虚構と現実」「共同体」について、しなやかに、時に陽気に「次」を描きだそうとしている京都アニメーション作品の最新作として、本作もとても楽しみなものになりそうなのでした。
→Blu-ray
→原作コミックス
→次回:『小林さんちのメイドラゴン』第2話「第二のドラゴン、カンナ!(ネタバレ全開ですね)」の感想へ
→当ブログの『小林さんちのメイドラゴン』感想の目次へ
【関連リンク0:昨年2016年の「アニメーション」作品ベスト10記事】
→2016年「アニメ作品」ベスト10〜過去の悲しい出来事を受け取り直し始める震災から五年後の想像力(ネタバレ注意)
【関連リンク1:京都アニメーションがこの十年どういうテーマで作品を繋いできたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事】
→『響け!ユーフォニアム2』の感想へ
→映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意)
→『ハルヒ』放映開始から十年、京都アニメーションがここまで進めた「日常」と「非日常」にまつわる物語〜『無彩限のファントム・ワールド』最終回の感想(ネタバレ注意)
→[5000ユニークアクセス超え人気記事]響け!ユーフォニアム最終回の感想〜ポニーテールと三人のハルヒ(ネタバレ注意)
→『甘城ブリリアントパーク』第12話の感想はこちら
→[5000ユニークアクセス超え人気記事]『境界の彼方』最終回の感想(少しラストシーンの解釈含む)はこちら
→『中二病でも恋がしたい!』(第一期)最終回の感想はこちら
→『Free!』(第一期)最終回の感想はこちら
→『氷果』最終回の感想はこちら
→『けいおん!!』最終回の感想はこちら
→『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回の感想はこちら
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→あの日欠けてしまった人の日常(=マヨネーズ)に私がなるということ〜『ハイスクール・フリート』第11話「大艦巨砲でピンチ!」の感想(ネタバレ注意)
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→『SHIROBAKO』(シリーズ構成ではなく同テーマのキー話の脚本)の感想
→『けいおん!』と『ハナヤマタ』で重ねられている演出とその意図について
【関連リンク3:京都アニメーション作品の2016年までの"テーマ的な"連動・変奏の過程がよく分かる『ねざめ堂』さんの記事】
→『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(前編)/ねざめ堂
→『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(後編)