相羽です。

 そういえば、京都アニメーション作品『小林さんちのメイドラゴン』最終回の感想を書きますよと言って、まだ書いてなかったのですが。

 これ、途中で東浩紀さん著の『ゲンロン0 観光客の哲学』が出版されてしまったというのもあったりでして。


参考:『ゲンロン0 観光客の哲学』特設ページ | ゲンロン友の会


 完全に絡めて書いたら大がかりな論文みたいになってしまうし、かといってすっかり無視して書くのももはやおかしいというくらい、これまで僕が十数年書いてきた京都アニメーション作品物語論に食い込んでいる一冊でして。

 「共同体」を主要なテーマの一つに扱い続けている近年の京都アニメーション作品。僕が感想記事で使ってきた「境界領域者」という言葉は、ほぼ『ゲンロン0』の「観光客」という言葉と重なります。最近の作品ですと、『響け!ユーフォニアム(2)』の久美子と『小林さんちのメイドラゴン』の小林さんは、明らかに『ゲンロン0』の文脈では「観光客」というポジションのキャラクターです。


小林さんちのメイドラゴン感想

響け!ユーフォニアム感想


 また、近年の京都アニメーション作品が現在のオルタナティブ(代替)として模索している新しい「共同体」像は、僕は「曼荼羅(マンダラ)」的なものだとずっと感想で書いていて、「曼荼羅」って何だよ(笑)!? って感じだったかもなのですが、僕の頭の中では、いわゆる南方曼荼羅(みなかたまんだら)みたいなものが想定としてありました。↓


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(中沢新一『熊楠の星の時間』P114より引用)


 一方で、『ゲンロン0』では、(捉えようと)模索する社会モデル(だいたい、京都アニメーション作品が模索してる「共同体」モデルと意味合いが重なっています)を近年の数学のネットワーク理論を用いて、こんな感じで捉えています。↓


170523mandara2
(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』P166より引用)


 「b」が一番フォーカスされてるモデルなんですが、細かい数学の理論は一旦置いておいて、というか買って読んでねということにしても、ね? 視覚的にも、僕が『響け!ユーフォニアム(2)』第十二話の感想で描写していた共同体モデルと似てる!? っていうのは伝わるんじゃないかと思います。↓


参考:まだ生きている大事な人にちゃんと想いを伝えておくこと〜響け!ユーフォニアム2第十二回「さいごのコンクール」の感想(ネタバレ注意)


 二つの層の「中間」(あるいは「全体性」の回復)を、京都アニメーション作品は「仏教(ブディズム)」的なものでやろうとしているという話は以前の僕の感想記事(『境界の彼方』のやつなど)に委ねますが、『ゲンロン0』では数学のネットワーク理論などを絡めながら「誤配」という概念でやろうとしているという感じです。そして、僕の現在の直感では両者の知的作業はかなりの程度重なる部分があると感じます。

 先に南方曼荼羅、つまり南方熊楠を出しましたが、熊楠の思想の源流には仏教の華厳経があり、京都アニメーション作品はどっちかというとこっちの方向です。(ちなみに、『響け!ユーフォニアム』や『境界の彼方』のシリーズ構成が花田十輝さんなのも関係してると感じております。あまり簡易に文脈化するのには慎重にならないとならないですが、お祖父様は作家・文芸評論家の花田清輝氏です。)

 で、日本の南方熊楠研究ではまず第一人者と言っていい中沢新一氏は、けっこう東浩紀氏の(編集の)本に寄稿してるのですよね。個人的にまだ未チェックの対談とかもあるので、チェックしてみないとだな……。

 さらに、二つの領域、つまり『ゲンロン0』で言う「スモールワールド性」(京都アニメーション作品における「共同体」志向とだいたい対応)の領域と「スケールフリー性」(京都アニメーション作品における「競争原理」志向とだいたい対応)の領域についての、この部分。引用となりますが。↓


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(『ゲンロン0 観光客の哲学』P183より引用:強調の「点」を相羽の方で省略)

 人間の社会にはスモールワールド性とスケールフリー性がある。一方には多数のクラスターがつくる狭い世界があり、他方には次数のべき乗分布がつくりだす不平等な世界がある。ここまでは数学的真理である。
 しかし、だとすれば、それは、ぼくたち人間が、同じ社会をまえにしてそこにスモールワールド性を感じるときとスケールフリー性を感じるときがあることを意味しているのだと、そのように解釈することができないだろうか。


(/引用ここまで)

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 これ、もろに京都アニメーション作品『無彩限のファントム・ワールド』で、「ルビンの壺」を使ってやっていたやつですよね。

 「見え方」が違うというだけで、同時に存在している、というやつ。↓


参考:無彩限のファントム・ワールド感想


 この二重存在性を、「おっぱいアニメ的大衆志向」と「文芸・哲学志向」を同時に存在させて、視聴者の「見え方」によって各々に受け取れるようにしている……というのが最近の京都アニメーション作品の作り方だという話をちょくちょく書いておりました。

 ここから一気に飛躍しますが、『無彩限のファントム・ワールド』を始め近年の京都アニメーション作品で既に成果が見られるように、「スモールワールド性」と「スケールフリー性」を同時に存在していると捉えて、その間の「誤配」について考えるというのは、実は日本の漫画・アニメーション表現が最高に相性がイイと思うのです。

 ここでゼロ年代漫画表現論の金字塔、泉信行さん(いずみのさん)(ブログTwitter)の『漫画をめくる冒険』についてちょっと触れますが、「観光客=郵便的マルチチュード」の視点を持つというのは、ようはいずみのさんのタームで言うなら、「主観ショット」でもなく、「客観ショット」でもなく、「身体離脱ショット」の視点を持つ、ということです。↓


参考:『漫画をめくる冒険』を読んだ


 この本も、(基本同人誌という形態だったこともあり)今では手に入りづらくてたまにオークションとかに出ててもプレミア付いてたりですが、もうちょっと広く読めるようになるとイイのですけどね……。『UQ HOLDER!〜魔法先生ネギま!2』も今年アニメ化しますし、何とかなりませんかね(本の中に『ネギま!』の例が豊富に出てくる)。

 少し強めに言ってしまうと、『ゲンロン0』の「郵便的マルチチュード」の場所というのは、漫画・アニメ表現論における「身体離脱ショット」の場所のことであって、ここが今一番熱いのは京都アニメーション(など)を中心とした日本の漫画・アニメ表現のジャンルです。このことに気づいた時、これ、和の国のアニミズム(一応アニメーションの語源とされる)まで遡る、せいぜいここ百年の文脈でなんちゃって日本! の顔をしている人々を置き去りにした数千年単位の日本的なものの再発掘くるか!? と勝手にテンション上がりましたね。まず、『源氏物語』が何故「紫」なのかから考えようよ、っていう。

 さすがに学問の王様・哲学の本だけあって、『ゲンロン0』は広域に接続可能なのですが、前述の二つの領域の中間を考えるという知的作業は、漫画表現論だと「身体離脱ショット」ということになりますが、僕のジャンルである言語学だと、「主観と客観の総合表現」ということになります。

 言語(の統語論)における主観表現と客観表現の二分法が支配的だった頃に、時枝誠記(1950)が既に主観と客観の中間の表現について指摘しております。

 その後、ノーム・チョムスキーの生成文法が隆盛するに連れて、一時、やっぱりちゃんと形式化できるものだけで「言語」を捉えようという雰囲気になったのですが、いや、そんな単純化は絶対無理だから、主観と客観は二層のまま捉えて、むしろ時枝誠記に還れ(「主観と客観の総合表現」を組み込んだ理論を作れ)と書いたのが僕の修士論文です。たぶん、まだ東北大学で見られるよ……。

 当時(2006年)は道具立てがなかったから「主観」と「客観」の間は「段階性(Gradability)」という概念で捉えていたのだけど、『ゲンロン0』経由で知った最近の数学の知見だと、これ「つなぎかえ」とかの概念で再生できるのかもしれない。これは完全に認知科学的な問いかけで、たぶん「主観」も「客観」も同時に存在してるのだけど、どういう時に人は主観的に見て、どういう時に客観的に見るのか(主観と客観の経路)? という話です。

 「主観と客観の総合表現」的なことを考えることと、「身体離脱ショット」的なことを考えることと、「誤配」=「観光客」的なことを考えることは、おそらくかなりの程度繋がってゆきます。

 ドヤ顔で片方の領域で語ってみたりするとSNSでバズったりしやすい昨今です。特に、従来「互酬」の領域(ナショナリズムより)に属していた話を強引に「経済」の領域(グローバリズムより)の話に持ち込んで話してみたり、その逆だったりは、毎日バズってますね(苦笑)。

 ただ、より普遍的なのは同時に存在している二つの領域の「中間」を豊かにしていく作業です。

 あらゆる意味で、山から出てきたから熊殺せじゃなくて「里山」という「中間」について考える。海に還れでも陸に出ろでもなく「波打ち際」について考える。そういう「中間」の想像力が、もともと日本人は得意だったと思うので、僕は黙々と「中間」について考え続けたいと思います。

ゲンロン0 観光客の哲学
東 浩紀
株式会社ゲンロン
2017-04-08


小林さんちのメイドラゴン 1 [Blu-ray]
田村睦心
ポニーキャニオン
2017-03-15


【関連リンク0:昨年2016年の「アニメーション」作品ベスト10記事】

2016年「アニメ作品」ベスト10〜過去の悲しい出来事を受け取り直し始める震災から五年後の想像力(ネタバレ注意)


【関連リンク1:京都アニメーションがこの十年どういうテーマで作品を繋いできたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事】

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『響け!ユーフォニアム2』の感想へ
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【関連リンク2:(特に東日本大震災以降)「共同体を再構築してゆく物語」を日本アニメーションがどう描いてきたかに興味がある方向けの手引きとなる、当ブログの関連記事(主に吉田玲子さんが脚本・シリーズ構成を担当していたもの)

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『SHIROBAKO』(シリーズ構成ではなく同テーマのキー話の脚本)の感想
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【関連リンク3:京都アニメーション作品の2016年までの"テーマ的な"連動・変奏の過程がよく分かる『ねざめ堂』さんの記事】

『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(前編)/ねざめ堂
『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点(後編)