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少女☆歌劇 レヴュースタァライト に参加中!
 相羽です。

 アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト(公式サイト)』最終話「レヴュースタァライト」の感想です。

 第一話は、現在「スタァライトチャンネル(公式チャンネル)」で観ることができます。↓


 感想は、ネタバレ注意です。

 一部、前日譚コミックス版『少女☆歌劇 レヴュースタァライト オーバーチュア』第1巻のネタバレも含みます。
 ◇◇◇

 華恋がひかりを、もう一度見つけて会いにいく話だったんだなあと。

 「ループ(再演)」のようなSF的なギミック、クレールとフローラにまつわる劇中劇と対応する二人の「運命」(の交換)に関係するギミック、などなど壮大な仕掛けを一旦横に置いてむきだしの芯のようなものを取り出してみれば、華恋が「世界」から失われてしまったひかりをもう一度見つけて会いにいく……という素朴なストーリー。

 最後に華恋が見つけて会いにいく「世界」から失われたひかり……というのは、これまでの話数で何人かが描かれてきた、「脱落者」、「孤立者」、「犠牲者」たち、たとえば、

 第七話の感想(こちら)で書いていたところの、


 「あぶれていた女児(コミックス版『少女☆歌劇 レヴュースタァライト オーバーチュア』)」=「脱落した『成瀬さん』と『逢坂さん』」=「(第二話で)敗北した星見純那」=「孤独だったかつての大場なな」


 ……らと重なる位置づけとなるわけですから、

 そういった存在たちの全てを象徴したひかりを希求して、第一話をリフレインするように暗中に飛び降りていく華恋の生き方にも、やっぱり厳しくて再び塔から落下してからの、それでも塔を登りなおしたってイイんだと「運命」を変更(再生産)してもう一度ひかりの元まで辿り着いてみせる華恋の姿にも、心を動かされるものがありました。

 リアルの方に目を向けても、「競争」の一握りの「勝者」にリソース(作中では「キラめき」、現実ではまあ、「お金」とか「人気」とか「情報」とか)を集める代わりに、「脱落者(孤独者)」を産み出し続ける「競争」原理のシステム(作中のキリンの「オーディション」のシステムと重なるものですね)は中々に強く、視聴者たちのなかでもあっぷあっぷとしてる人とかも多そうです。

 本作の視聴者層とか、大人になってみて気がつけば訳が分からない「競争」主義社会に巻き込まれ、敗北し、かつてあった気がする「キラめき」は「勝者」の上層に搾取され、いつの間にやら第一話冒頭時点の(今回のループの)華恋みたいに、子供の頃の「約束」、自分の「理想」を叶えるといった情熱(キラめき)の灯は消えかけているおじさん・おばさんとか多そうですし(相変わらずの偏見!?)。

 時代性もある作品だと感じます。

 でも、本当はみんなどこかで、そういった「脱落者」、「孤立者」、「犠牲者」、今話のひかりのような存在を見つけてあげたい。あなたにもこの「世界」に「居場所」はあるって、言ってあげたい。

 素直に全力でひかりの元に走っていける華恋の姿には、憧れを感じます。

 一方、劇中の華恋ほどのヒーロー性はリアルでは持てなかったかもしれない視聴者としては、立ち位置はどちらかというと華恋とひかりのことを(ここに「居場所」はあると)待ってる他の「舞台少女」たちと符合する感じでしょうか。

 「鍋」を準備しながら、ひかりにも「居場所」を空けて待っているわけですが、わりと「鍋」が作中解を象徴するように描かれてもおりました。


 鍋。


 みんなで作るものであるという意味では、本作における「舞台」の比喩ですし。

 みんなで食べるという点においては、第一話では基本バラバラで食べていたのがリアルでいう「孤食」が意識されるのに対して(今振り返るとひかりの「散らかった部屋に独り」の描写とセット的な方向の要素ですね)、みんなで食べる前提で、そこにいない華恋とひかりの分の椀と箸が用意されているのは、「孤立者」への「居場所」も食事(「世界」で生きていくにあたっての基本と言えるでしょう)の風景の中には組み込まれている……というのが意識させられます。

 さらにさりげなく、「主役」が一つに固定されなくてもよいという要素も「鍋」を通して描かれていたと思います。蟹とかエビはまあ「主役」感あるって言えばありますが(それこそ真矢様やクロディーヌさんのように)、それは絶対じゃなく、色々な具がそれぞれにとっての「主役」になり得る。豆腐は蟹に敗北したのか? というと違う。蟹だけの鍋は、逆に単一的で味気なくもある。

 また、TJさんのこちらのツイート↓

 なども、なるほど……という感じです。

 「鍋」のシーンは「食材」を持ち寄る「贖罪」のシーンでもあるのかもしれないらしい。

 「罪」は劇中劇「スタァライト」の、激昂、逃避、傲慢、呪縛、嫉妬、絶望……などの「罪」にそれぞれの舞台少女が対応した「罪」でもあり、

 今話の「星罪のレヴュー」で華恋が言ったところの「ひかりちゃんが罪深いなら、オーディションに参加したわたしたち全員、同罪だよ」という意味の罪でもあると思いますし、ひかりという「犠牲者」を「忘却して」それなりに和気あいあいとした「世界」を過ごしていた罪でもありそうです。

 それぞれ違う食材を分担して鍋にして「みんな」で食べる(共有する)というのが、「贖罪」の儀式(イニシエーション)にもなってるのですね。

 さらにさらに、一度ひかりが嫌いだと否定された豆腐が、いや、豆腐いいじゃんと香子に救われたりもしています(「ええ豆腐なのに」)。何かに敗北した存在が他の何かによって掬われ、そして救われた何かがまた他の何かを救い得る。第二話で敗北した純那さんは華恋によって再び照らされ、第十話では照らされた純那さんが本当の大場ななさんを見つけてくれる……とか、そういう話ですよ。鍋の話ですけど。


 と、このように「鍋」が「競争」の世界観(塔の上の一つの「勝者」の椅子をめぐって争い合うキリンの「オーディション」のような世界観)だけじゃない、「代案」の世界観を象徴していたりもするようなのですが……。

 「競争」システム(だけ)じゃない、「世界」の「代案」。

 うちのブログの全話感想では、当初から本作は「競争(仲間を切り捨ててでも勝利を目指す上昇志向)」と「共同体(仲間を大事に)」の二律背反という題材を一つは扱っているのだろう、という話を書いておりましたが、では本作における「代案」とは結局どういうものであったのでしょう。

 第一話の感想(こちら)の時点で、


>競争を勝ち抜くぞ!(そのための努力とか尊いぞ!)という方向にだけ視聴者がコミットして没入して快感を感じていると、「いや、でもあなたが競争を勝ち抜いていく過程で蹴落としてきた人たちがいるよね?」と視聴者を告発してくるかのような構造になっている

>仲間を大事にとかが基本的な価値観のはずなのに、実情は社会に出たら競争に巻き込まれて自分が生きるのにも必死で他人のこととか気にしてられない訳わからないことになってる。個性を大事にも基本的な価値観のはずなのに、個人の本音を口にすると集団の和を乱すと叩かれるので、空気を読んで同調化圧力に屈しないといけない。この状況は何なの、訳わからーんという多くの現代日本人の混乱に応じて、これらの作品は作られているかのごとしです。


 といったことを書いていたのですが、

 そんな時代やばい感の中、「代案」のような「世界」観のようなものがあるのなら、見てみたい。気になる。という気持ちがあります。

 以下、ちょっと整理してみましょう。

 最終回を中心に語りますが、物語トータルを通して、愛城華恋が提示した「世界」の「代案」はざっくりとは、三つあると思います。


●華恋の代案その1〜再演(ループ)を含有した世界観への再生産

●華恋の代案その2〜上下の「ものさし」に左右を貫入させる再生産

●華恋の代案その3〜「あなたとわたし」を攪拌する自同律の再生産


 以下、順に見ていってみましょう。


●華恋の代案その1〜再演(ループ)を含有した世界観への再生産

 第二話の感想(こちら)の時点で「再演(ループ)」要素に関してはこういったことを書いておりました。↓


>キリンが、


>トップスタァ。それは運命の舞台に立つ者。無限の煌めきを放ち。時を超えて輝き続ける、永遠の主役。(キリン)


>と、いわばスーパー「競争原理」の中の頂点を一人決めて、時間を超えた未来永劫の永遠の勝者(主役)みたいなのを選抜しようとしているらしいのに対して、華恋の方は、


>ノンノンだよ。一度で終わりなんかじゃない。私たちは何度だって、舞台に立てる。(愛城華恋)


>と、「繰り返し(=やり直し)」を肯定的に捉えているようで、どうも、その度に主役は変わってもイイというようなスケール感の主人公であるらしい点です。


>・印象的な時計の描写
>・登校を「やり直す」
>・同じ演目(スタァライト)を繰り返す
>・ひかりのキャリーバッグの車が歯車のようになって「巻き戻る」


>などなどと、どうも本作は「ループ」構造か、そっち方面の何か仕掛けがある作品っぽい予感が第一話時点でビシビシ感じられていたのですが、ゼロ年代的な「ループ」(ちょっとSFチックなやつね)要素と、「演劇」という題材においての、「演目」は何度も繰り返し上演される……というのを、かけてる部分なのかな? と推察したりします。

>つまり、キリンは全「上演」全てで主役を演じるスーパーヒロインを選抜しようとしてるのに対して、華恋は、ある「上演」で華恋が主役でもイイし、華恋とひかりの二人が主役でもイイし、別の「上演」時には、たとえば今回敗北した純那が主役でもイイ、そんな世界観を提示している、という感じでしょうか。



 「再演(ループ)」要素に関しては物語当初から予感はあり、第七話で明示的になったカタチなのですが、つまり本作は多大に「メタ」的な要素を含んだ作品であります。


 「メタ」フィクション……作中だけでなく、作外の現実とも関係し合うような作品のこと。


 今回の最終回だと、キリンのいわゆる「メタ」台詞が入っていたりします。


 「そう。あなたが彼女たちを見守り続けてきたように」(キリン)


 と、キリンがこちら(あなた=視聴者)を見る演出が入ります。

 我々(視聴者)もキリンと同列!? と捉えると感じ悪い印象を受けるかもしれませんがw ポジティブに捉えるなら、我々視聴者も「観測者」であったということです。

 「観測者」は重要人物だとたとえば(当初の)大場ななさんのポジションだったりしますから、そんなに悪くない感じですw むしろ、ひかりというそのままでは「世界」から見えなくなってしまう、「脱落者」、「孤立者」、「犠牲者」ポジションといった存在、を見ていた(観測していた)のは一人じゃない! 的な方向では、視聴者もおいしいポジション、というか「舞台」を作り上げるのに一役買っている的なポジションです。

 作中(画面の中)では「塔」を登っているクレールとフローラに対応するひかりと華恋の場面。劇中劇「スタァライト」のラストは、


 そして頭上では、永遠に星たちが瞬き続けるのでした。


 ですから、状況を総合すると、「塔」で演じてる劇中(画面中)の華恋とひかりの上空、空に輝いている星々=「観測者」である(それぞれに「星」=「キラめき」ももっていると信じてくれているらしい)我々視聴者……ということになりそうです。

 そんな、「メタ」的な仕込みが十全な中での、最終回の華恋の「メタ」台詞はこちら。↓


 (「スタァライト」は必ず別れる悲劇)

 「でも、そうじゃなかった結末もあるはず」(愛城華恋)


 表面的には、劇中劇「スタァライト」の(オリジナルではない)どこかの異聞(?)にはそういう結末もあったはずってことを言ってるのだと思いますが、「メタ」にはこの作品『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』自体に「ループ(再演)」要素がやっぱりある「世界」観である点を言っていると思います。

 その繰り返される「再演」の中で、誰が主役の「再演」も可能性としてあり得るから、自由さ、余裕があってよい……みたいな「世界」観に(「競争」原理一辺倒の「世界」から)「世界」を「再生産」しているのだと思います。

 その「自由」さ、「余裕」がある「世界」観のもと、一度塔から落下したフローラである華恋が、フローラがもう一度塔を登ってもオッケーと、可能性の跳躍を見せます。

 敗北しても、次の「再演」ではまた別の可能性が開けるかもしれないという、「幅」がある華恋の「世界」観に触れると、一度勝者が決まったら固定されるという従来の「競争」原理オンリー(「競争」に敗れるとたとえば成瀬さんや逢坂さんのように脱落してしまう)の「世界」観は、やっぱりちょっと窮屈に感じられたりします。

 その上で、舞台版とかアプリゲーム版とかが、アニメ版とは別な「ループ(再演)」だったりするのかな? とは、個人的に解釈&予想してみたりです。


●華恋の代案その2〜上下の「ものさし」に左右を貫入させる再生産

 何しろ「塔(タワー)」が中心的なモチーフの作品ですから、何かと「上下」が重要な表現に全編を通してなっていました。

 最終回の第一クライマックスでも、第一話をリフレインするカタチで、華恋が飛び降りて、上から下へ……などなどと「上下」の表現が見られました。

 第二クライマックスでは、今度は華恋は下からひかりが待つ上へと上がっていくと、「上下」が反転する展開もカッコいいのですが、ここまではまだ「上下」で、基本的には「塔(タワー)」がモチーフの世界観です。

 本作における「塔(タワー)」は、「競争」原理「システム」の象徴という面があって、勝者は上に行き、敗者は下に落ちる……というニュアンスがありました(キリンの「オーディション」の世界観ですね)。上は素晴らしい、下はダメ、基本的には「優劣」の世界観です。

 で、最終回の何が凄かったかって、ファイナルクライマックスでこの「上下」の「塔(タワー)」の世界観(システム)を、華恋がシステムブレイク&「再生産」して、東京タワーを「橋」にして「左右」の世界観を貫入させてしまうのですね。

 これは、「上下」の世界観では「優劣」だった「ものさし」を、横にした、「左右」にしたって表現だと思います。

 「上下」だと、上はエラくて下はダメだみたいな「優劣」が出てくるのですが、「左右」は「右」と「左」でどちらが優れてるとかはありません。「優劣」だったのが、ただの「ジャンル分け」くらいの世界観に「再生産」されたのです。

 「上下」で真矢さんが頂点(上)で優れてるとかではもうなく、「左右」で真矢さんはそこにいて「蟹」ね、そう、「豆腐」とはジャンルが違うネ……くらいの世界観です。

 それでいて、単純なシステムブレイクではなく、「再生産」なのがカッコいい。

 「塔(タワー)」的、「上下」的、「競争」的世界観を全否定したわけではないのです。あくまで、素材を生かして「再生産」した感じ。名称も「約束タワーブリッジ」ですからね。「タワー(塔)」の世界観と「ブリッジ(橋)」の世界観の両方が入ってます。

 ただただ、これまでの既存の「タワー(塔)」的世界観をぶっ壊してやるゼだけで終わってしまうと、場合によっては、僕らが生まれる前にあったという資本主義システム(基本的には「競争」システムと相性がイイとされます)を壊すべく活動していたという(ざっくりとは)左翼的な(この用語も、現在は色々変遷、混乱してると感じますが)方向に向う志向性も含まれ得ると思うのですが。

 華恋が志向している世界観の「再生産」はそういうのとは、ちょっと違う。ルサンチマンで自分たちに覆いかぶさっていた「システム」を破壊して終わりではない。「システム」自体を(ある意味)再利用して、新しいカタチへと「再生産」してみせる。

 もう、最後の「アタシ 再生産」からの、「塔」から「橋」へ「世界」のシステム変更(再生産)、けっこう過激に東京タワーがひかりへの「橋」になる……のところはテンションMAXでしたよ。

 そ、そんな……世界(システム)を変更してまで、華恋はひかりに会いにいくんだ……という……。

 では、「塔(タワー)」を「橋(ブリッジ)」へと最終回で「再生産」してみせて、何を描いてみせたのか?

 次項へと続きます。


●華恋の代案その3〜「あなたとわたし」を攪拌する自同律の再生産

 前項で本作の表現的に「左右」の要素が重要らしいという話を見てきましたが、最終回の「橋(ブリッジ)」の表現以外にも、本作では重要な「左右」の表現が存在します。

 僕はテリー・ライスさん(Twitter)の第四話感想、


参考:「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#4 キミとワタシの物語/In Jazz -What's Going On-


 で、初めて知ったのですが、作中には幼少時の華恋とひかりが劇中劇「スタァライト」に魅了されるという二人の原点のシーンが第一話のアバンタイトルと第四話のアバンタイトルに出てくるのですが、第一話のアバンタイトルの時と第四話のアバンタイトルの時では、(幼少時の)華恋とひかりが座っている「左右」の位置が逆になってる……という表現ですね。

 わりと、じっくり観てる視聴者たちの間では話題になっていた「謎」の一つです。


>1話アバンタイトルは華恋が主役の世界線

>4話アバンタイトルはひかりが主役の世界線


 という視点(仮説)からの第四話感想時点でのテリーさんの一連の考察も面白く、最終回まで観た現在でもけっこうその通りかなとも思うのですが、

 本項では、この点にもいよいよ僕なりの考察を加えてみることになります。

 ここで確認しておきたい基礎知識ですが、「わたしがわたしであること」を専門用語で「自同律(じどうりつ)」と言います。

 予備知識なしだと、わたしがわたしであるって、そんなの当たり前じゃない? って感じかもしれないですが、その「当たり前」を疑ってみる哲学なり作品なりというのは、とても昔から存在しています。

 わたしは、わたしではないかもしれない? 的な。

 神話のような非常に古くから伝わる話にもこのようなモチーフの話はありますし、日本の文学史に目を向けてピックアップするなら埴谷雄高(『死霊』など)とかですかね。

死霊I (講談社文芸文庫)
埴谷雄高
講談社
2014-05-16



 「わたしがわたしであること」を自明のものとはせずに攪拌(かくはん)して、たとえば「わたしはわたしではないかもしれない?」とか、本作の要素的には「わたしはあなたかもしれない?」とか、不思議な感覚を表現していく物語系譜です。


 攪拌(かくはん)=かきまぜる……こと。


 本作においてこの「自同律の攪拌」要素が色濃く表現されているのは、何と言っても劇中劇「スタァライト」のクレールとフローラが、どのようにアニメ版本編のひかりと華恋に対応しているのか? という部分でしょう。

 クレール&フローラと華恋&ひかりとの対応を考えながら追っていくと、ちょっとこの「ひかりが華恋であるような」あるいは「華恋がひかりであるような」、「自同律の攪拌」の感覚が生じるような構造になっています。

 ここで改めて軽く、劇中劇「スタァライト」のクレール&フローラとアニメ版本編の華恋&ひかりの対応関係について確認しておくと……

 基本的には、最終回まで観終わった今でも、第十話と第十一話の感想で考察した通りでけっこう合ってるのかな? と思っております。↓


参考:少女☆歌劇 レヴュースタァライト/感想/第十一話「わたしたちは」(ネタバレ注意)

参考:少女☆歌劇 レヴュースタァライト/感想/第十話「されど舞台はつづく The Show Must Go On」(ネタバレ注意)


 ざっくりとは、


・華恋とひかりの「運命」とは、劇中劇「スタァライト」の筋に対応している。

・華恋とひかりは「運命」を交換しているので、本来なら華恋がクレールの筋を、ひかりがフローラの筋をとおるはずだった。

・「運命」を交換した後は、華恋がフローラの筋を、ひかりがクレールの筋をとおるのが普通だったんだけど、「ある条件」でアニメ版で描かれてる「ループ(再演)」では、交換の前、華恋がクレールである「運命」も貫入してきてしまっている。

・第十話のラスト、このままでは華恋がクレール(実は塔に幽閉される「スタァライト」の「悲劇」の当事者)になってしまうのを回避するために、ひかりが交換後の「運命」通り、クレールになった。


 と。

 で、最終回を観て加わった大事な追加見解としては、ようは「一人二役」という要素も重要そうであるという点です。

 もともと、アニメ版(たぶんイレギュラールート)では、華恋一人とってもフローラの筋を通りつつも、(「運命」の交換前の)クレールの筋も時々現れてくるという複雑な状況だったのですが、

 華恋一人を見てもフローラ役とクレール役の「一人二役」を兼ねていると捉えてると、「舞台」を題材とした作品としては理解しやすいです。

 最終回で象徴的なのは、「塔」の中で虚無のレヴュー(ひかりの「運命の舞台」)を続けるひかりは、クレールの台詞もフローラの台詞も一人で喋っており、そういう意味で、ひかりはクレール役とフローラ役の「一人二役」をやっているという表現に思われます。

 その流れの中で、「運命の舞台」の一周目のラスト、ひかりが塔から落下するところ(本来なら塔から落下するのはフローラ)で、「思い出した」の台詞で、王冠の髪飾りをひかりが持っている絵のカットイン。これは、「運命」の交換前、ひかりがクレール(=星の髪飾り)ではなくフローラ(=王冠の髪飾り)だった時のことを思い出したってことなのだろうと。

 一方で華恋の方も、「塔」から落下するフローラの要素も今話では描かれますが(「星罪のレヴュー」のラスト)、虚無のレヴューのラスト(ひかりの「運命の舞台」の二周目)はむしろ「塔」から落下する(フローラ役)のはひかりで、華恋は落下するフローラ(ひかり)に上から手を差し伸べるクレール役になっています。

 つまり、今話だけでも、華恋の方もフローラとクレールの「一人二役」をやってる感がある。

 「役」と「演者(たましい?)」を分けた上で、シンプルに


・クレール=ひかり

・フローラ=華恋


 という「単線」的な話ではなく、おそらくあえて


・クレール=ひかりかもしれないし華恋かもしれない

・フローラ=華恋かもしれないしひかりかもしれない


 という「混線」的な表現をやっています。

 そうして、クレールはひかりなの? 華恋なの? 、 フローラは華恋なの? ひかりなの?

 華恋はクレールなの? フローラなの? 、 ひかりはフローラなの? クレールなの?

 とか考え始めると、華恋が華恋であること、ひかりがひかりであること、つまり「わたしがわたしであること」が「混線」してきます。

 この、華恋はひかりでもあるようだし、ひかりは華恋でもあるような「自同律」が「攪拌」された感覚、伝わりますでしょうか。

 以上のことから、

 第一話と第四話のアバンタイトルのシーンで華恋とひかりが座ってる位置が「左右」逆になってる「謎」に関しては、SF的なギミックのために仕込んだ伏線というよりも(そっちの意味もありそうではありますが)、むしろ作品の主題として、華恋はひかりであるような、ひかりは華恋であるような、わたしはあなたかもしれないし、あなたはわたしかもしれないと、「自同律」を「攪拌」する表現をあえてやっている……

 というのが僕の考察の結論となります。

 傍証はOPで、ラストの方。華恋(の腕)が(画面)左、ひかり(の腕)が右で手を繋ごうとした瞬間、消えて無数の花びらになってしまう。画面が切り替わった瞬間には、「左右」が逆になってて、華恋が(画面)右、ひかりが左……という表現だったりします(華恋とひかりの「自同律」の「左右交換性」を表現している)。

 「約束タワーブリッジ」がかかったところで、ひかりが「これ、知ってる」とつぶやき、最終回でまた幼少時のひかりと華恋の「スタァライト」観劇シーンが挿入されますが、この時のひかりは座っている位置が(画面)左側です。

 つまり、テリー・ライスさんの第四話考察でいうところの「華恋が主役の世界線」である第1話アバンタイトルと同じ左側。

 ひかりは、華恋だった、ということです。

 何故、ひかりは「知ってる」のか。「自同律」が「攪拌」された表現の元、左にいたひかりは、左にいた華恋でもあった、ひかりは華恋でもあったわけですから、華恋が敢行した「約束タワーブリッジ」も、「知ってる」わけです。

 華恋の「たましい(?)」の想像力が「約束タワーブリッジ」を生み出したとして、ひかりの「たましい(?)」もまた華恋であったこともあるのだから、ひかりもまた「約束タワーブリッジ」の想像力は知っている、と理屈上はなります。

 何故、ここまでして「自同律の攪拌」というのを表現しているのだろうか? という点については後ほど考察しますが、その前に、本作ではかなり多層構造(二層構造?)的に組み立ててこの「自同律の攪拌」要素は表現しているようだという点も見ておきます。

 「二層展開式少女歌劇」と銘打っている本作。

 「二層」はシンプルには「舞台」と「アニメ」なのかな? という気もするのですが。

 ここで、アニメのキャラクターと演者の関係も、どうやら表現に組み込まれていそうだという部分も見てみます。

 「その1」で既に本作はループ(再演)が繰り返される世界観そのものが主題であることを確認しましたから、「二層展開式少女歌劇」である本作の舞台版が「ループ」的な構造になり、「再演」を繰り返しながらその度に様々なことが少しずつ変化する……というのは十分にあり得ます。

 第二話の感想の時点で、


>つまり、キリンは全「上演」全てで主役を演じるスーパーヒロインを選抜しようとしてるのに対して、華恋は、ある「上演」で華恋が主役でもイイし、華恋とひかりの二人が主役でもイイし、別の「上演」時には、たとえば今回敗北した純那が主役でもイイ、そんな世界観を提示している、という感じでしょうか。


 ということを書いていたのですが、これが、舞台版における「役」と「演者」との関係にも関わってくる、可能性としてはそういうのもアリな「世界」観なのかな、という。

 つまり、本作が提示している「代案」、「再生産」された「世界」観というのは、

 可能性として、たとえばある舞台では愛城華恋役を三森すず子さんが、神楽ひかり役を小山百代さんが演じるということもあり得るみたいなプロジェクトなんだろうなぁということです。

 本来だったら、愛城華恋役が小山百代さんで、神楽ひかり役が三森すず子さんですから、「逆」ですね。なんか、アニメ本編で華恋とひかりが「左右」が「逆」になってたみたいな……。

 となると、「二層」というのは、「アニメ」と「舞台」の関係のみならず、「役」と「演者」の関係にもかかってきそうだと。

 まず、


●クレールとフローラ
 |
●華恋とひかり


 ここが「二層」です。


 で、同時に、


●愛城華恋と神楽ひかり
 |
●小山百代さんと三森すず子さん


 ここも「二層」です。

 さらにカメラを引いて、


●クレール&フローラと華恋&ひかりの対応
 |
●愛城華恋&神楽ひかりと小山百代さんと三森すず子さんの対応


 が、「二層」ということになります。

 これらが「交換」というモチーフを介しながら展開されていきます。

 もう、クレール&フローラと華恋&ひかりの対応だけでもだいぶ「攪拌」されていたのに……


 クレールは、ひかりなの? 華恋なの?

 華恋は、三森すず子さんなの? 小山百代さんなの?

 小山百代さんは、華恋なの? ひかりなの?

 ひかりは、フローラなの? クレールなの?

 クレールは、小山百代さんなの? 三森すず子さんなの?

 三森すず子さんは、ひかりなの? 華恋なの?


 などなどと、考え始めるともう、「自同律(自分が自分であること)」における「攪拌」中の「攪拌」表現ですね。

 こういった「自同律の攪拌」表現は実際は神話や文学以外でも、近年のアニメーション作品でも見られたりします。本作は、その「文脈」の最新の一作とも捉えられそうです。

 個人的には、この流れで一番には『魔法つかいプリキュア!』を紹介したくなります。

 以下、どのように『魔法つかいプリキュア!』で「自同律の攪拌」表現がされていたかをちょっとだけ最終回のネタバレで書きます。

 『魔法つかいプリキュア!』の話は別にイイという方は読み飛ばしてくださいw↓


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(以下『魔法つかいプリキュア!』のラストまでのネタバレを含みます)

 「運命」の二人であるみらいとリコ。

 最終回では次世代のみらいとリコを彷彿とさせる二人の少女が登場するのですが。

 外見とは逆に、キャストがみらいっぽい方が堀江由衣さん(リコ役)でリコっぽい方が高橋李依(みらい役)さんなのですね。

 もしかしたら、わたしはあなたかもしれないし、あなたはわたしかもしれない。あんまり、自分が自分であることにこだわらない感じなのですね。

 「魔法界」と「ナシマホウ界」、二つの世界が繋がったところから物語が始まり、リアルの方を意識するなら一つは「異文化交流」が主題として念頭にあったと思われる『魔法つかいプリキュア!』という作品。

 これは、異世界の誰かが、あるいは未来の誰かが、自分自身かもしれない……みたいな考え方なので、じゃあ、異国のあなたも排斥するんじゃなくて、大事にしておこうか……という発想に繋がっていきます。

 何気ない異国の人、縁あって手にしたクマのおもちゃ、そういう「存在」が、自分自身かもしれないし、自分の大事な誰かかもしれない。そういう世界観になると、ぞんざいに扱ったり排斥したりというよりは、大事に、尊重しようという方向にいきやすくなります。

参考:魔法つかいプリキュア!感想/最終回「キュアップ・ラパパ!未来もいい日になあれ!!」(ネタバレ注意)/別ブログ(プリキュアシリーズの感想)

(/『魔法つかいプリキュア!』の話、ここまで)
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 『魔法つかいプリキュア!』こと『まほプリ』はイイぞ……。百合(え)だし。「運命」の二人ネタでもあるし……。

 はい、次に映画『君の名は。』

 2016年に大ヒットした例の作品ですが、これはそんなにネタバレ配慮しなくてイイですかね。該当の「自同律の攪拌」表現の部分はPVとか事前広報時点で既に明らかな要素なので。

 主人公の瀧と三葉が不思議な力で入れ替わりました!(ドヤァ)という序盤の展開ですが、やはりこの部分でも「自分が他者かもしれない」ということを描いていた表現だったと思います。

 瀧は三葉かもしれない、三葉は瀧かもしれない。

 このあなたはわたしかもしれないし、わたしはあなたかもしれない……という要素が、物語後半の展開でキーになってくる作品ですが、やはり「自同律の攪拌」要素を描いた作品の一つという文脈に位置づけられると思います。

 『君の名は。』に関しては、そもそも元ネタの一つである『とりかえばや物語』が、「役」と「演者」の交換のギミックを使いながら「自同律の攪拌」を描いた日本の古典物語だという点も押さえておきたいところです。

 続いて映画『リズと青い鳥』。

 これは、かなり「自同律の攪拌」を表現するギミックが本作『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』とも近いですね。

 こちらも、『リズと青い鳥』の話は別にイイという方は読み飛ばしてくださいw↓


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(以下映画『リズと青い鳥』のラストまでのネタバレを含みます)

 物語の途中で、希美とみぞれそれぞれが童話『リズと青い鳥』では、リズと青い鳥のどちらにあたるのか? という役割が入れ替わります。

 当初は、


 リズ=みぞれ

 青い鳥=希美


 だったのが、


 リズ=希美

 青い鳥=みぞれ


 に、入れ替わるのです。「スタァライト」における、クレール&フローラと、華恋&ひかりの対応関係及び「交換」のギミックと似てますよね。

 「相手(他人)の立場を想像する」という表現において、かなり文芸的ですが、やはり希美はみぞれかもしれないし、みぞれは希美かもしれない……的な表現なんだろうと思います。

参考:リズと青い鳥の感想〜伝わらないまま美しい時間を生きる(ネタバレ注意)

(/映画『リズと青い鳥』の話、ここまで)
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 ラスト、本命です。

 『輪るピングドラム』。

 本作は幾原邦彦監督のお弟子さん的なポジションにあたるらしい古川知宏さんが監督の作品ということで、幾原監督の代表作の『少女革命ウテナ』と絡めて論じた話が、感想としてはけっこう多かった気がします。

 中でもテリー・ライスさんの、『少女革命ウテナ』の「黒薔薇編」を絡めて大場ななさん関係の物語を考察した第七話の感想記事、


参考:「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#7 舞台少女の条件/In Jazz -What's Going On-


 ……などはとても素晴らしいです。

 そういう流れも踏まえつつ、僕は、幾原監督の作品の中でも、本作は2011年の『輪るピングドラム』と絡めて語ると色々見えてきそうだ、という方向でいきたいと思います。

 こちらも、『輪るピングドラム』の話は別にイイという方は読み飛ばしてくださいw↓


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(以下『輪るピングドラム』のラストまでのネタバレを含みます)

 最終回の「運命の乗り換え」が行われた後の世界では、陽毬がすれ違う何気ない兄弟が、実は乗り換え前の世界ではあんなにも大切だった冠葉と晶馬だった……というのが描かれます。

 冠葉は冠葉である、晶馬は晶馬である、という「自同律」が「攪拌」されて、二人は「何気ない人」になってるのですね。

 これは、乗り換え前の世界で自分に関係がある主用登場人物以外の関係ない他人は記号で描かれていたのや、こどもブロイラーのシーンでたくさんの選ばれなかった子ども達が記号で描かれていたのと、正反対の表現です。

 淘汰されていくかもしれないたくさんのあなたにとって無関係かもしれない何気ない人が、本当は何か縁があったりする、大事な人なのかもしれないよ。だとしたら、ちょっと(劇中でいう「リンゴ」を)分け合ってみてもいいんじゃないか、そういうシーンなのだろうと解釈しております。

参考:輪るピングドラム/最終回/感想

(/『輪るピングドラム』の話、ここまで)
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 以上が近年のアニメーション文脈としての「自同律の攪拌」を表現する系譜のざっくりとした紹介でしたが、やはり本作『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』もこの流れの中の最新の一ページという気が僕にはします。

 では、核心ですが「自同律の攪拌」を『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』では何のために描いているのか?


 この「世界」はエゴだけじゃないでしょ、ということを言いたいから。


 だと個人的には推察しています。

 エゴだけを押し進めると、エゴとエゴがぶつかり合って、「勝者」は手に入れ「敗者」は失う……という「競争」の世界観に突入します。

 エゴ、というのは、「わたしがわたしであること(=自同律)」を強めていく方向性のもの、と捉えられます。

 つまり、本作でも重要だった「競争」主体の(エゴを押し進めていく方向の)「世界」システム(キリンのオーディションの世界観ですね)の対置として、こういった「自同律の攪拌」という(エゴを手放していく方向の)概念を持ち出してるのかなと、個人的には考察しております。

 「あなたがわたしかもしれない」なら、少なくとも「あなた」を「競争」で蹴落とそうとだけは思わないですよね。

 エゴを必ずしも否定的に描いているわけではありません。純那さんが語る「自分星」は捉えようによってはエゴのことかと思われますが、エゴ=自分星を磨いていこうという姿勢自体は肯定的に描かれていると思います。作中のキーワード「キラめき」も、何らかの意味で個々人のエゴに根差しているともとらえられますし。

 ただ一方で、エゴだけを押し進めていく「だけ」では「世界」はどうもおかしくなっていくという視線も、透徹に存在していた作品です。

 「キラめき」はイイものですが、「キラめき」だけを求めて「競争」システムに埋没すると、たとえばひかりのような「犠牲者」を出さないと成立しなくなる……というような構造の話であり、でもその「犠牲者」(=ひかり)である「あなた」は「わたし」でもあるかもしれないと、華恋が見つけて会いにいく物語であったわけですから。

 「アンコール」の部分での、


 華恋:「奪ってイイよ、わたしの全部」

 ひかり:「わたしの全て、奪ってみせて」


 の台詞の対応は、かなり究極的にお互いがエゴを手放してる様子だなあ……とは感覚的に感じないでしょうか。

 わたし(=エゴ)を、奪ってくれてイイって相手に言ってるわけですからね。

 橋という「左右」で、「左右」が「交換」されてるかもしれない華恋とひかりが見つめ合う、わりとラストのシーン。


 「あなたをスタァライトしちゃいます」


 「自同律」が「攪拌」された、あなたはわたしで、わたしはあなたという世界観の中で、


 「ひかりちゃんがわたしが掴もうとした星」(愛城華恋)

 「華恋がわたしが求めていたスタァ」(神楽ひかり)


 お互いが星でキラめき。お互いが、お互いだ、っていうことを言ってるのだと思います。

 「レヴュー」。「Re-View」。何を? あなたであるわたし(=Star Light)を。再び見つけたのですね。お互いを。

 以上。


 そのままだとエゴ(「わたし」)を押し進め合う「競争」の「世界(システム)」に絡めとられてしまう中で、「あなた」のためなら「わたし(エゴ)」を手放してもイイと、「自同律の攪拌」の中で「約束」を交わした華恋とひかり。(「システム」よりも)その「約束」を尊重した二人の「あり方」を、とりわけ尊いものとして描いた。


 これが、僕の本作のコアな部分の解釈の結論です。

 ◇◇◇

 最後にちょっとだけ、『仮面ライダー龍騎』の話もしてみます(え)

 僕は第一話を観た当初から、本作を『仮面ライダー龍騎』と絡めて語っていたりもしましたので。


 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』と『龍騎』を重ねてみるような見方の最終回時点での見解もどうなったのか、書き記しておきます。

 例によって、『仮面ライダー龍騎』の話は別にイイという方は読み飛ばしてくださいw↓

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(以下『仮面ライダー龍騎』のラストまでのネタバレを含みます)

 神崎優衣の命を救うために、兄の神崎士郎が何度も世界を「ループ」させながら十三人の仮面ライダーたちを戦わせていた……という構造の『仮面ライダーの龍騎』。

 どんなエンディングだったかというと、最後の「ループ」での真司の生き方を見た優衣が、自分の命を救うことを手放し、最終「ループ」後の世界では真司や蓮、仮面ライダーたちが争い合うことのない優しい世界が訪れた。しかし、そこに神崎兄妹の姿はない……というエンディングだったと個人的には解釈しています。

 つまり、「競争」原理の中でエゴを手放すことが描かれるのですけど、最後の優しい世界の成立には、神崎兄妹は「犠牲」になった……というエンディングだと思うのですよね。

 この構造は、そのまま華恋とひかり=神崎士郎と神崎優衣……のカタチで本作でも当てはまりかけています。

 なので、最終回で華恋かひかりのどちらか、あるいは両方が「世界」からいなくなることで(「犠牲」になることで)、「競争」システムから解放された優しい世界が訪れた……と描かれたりしたら、これは2002年の『龍騎』エンドを2018年にもう一度……というカタチになってしまうのです。

 個人的には、もう2018年なので、『龍騎』の「先」のエンディングが見たいかな、と。

 「世界」のために「犠牲」になるひかりを救いたいという華恋の願いは、優衣を何とか助けたかった真司くんの願いと重なります。

 『龍騎』は真司くんもラスト2で死亡し、最終回では最終「ループ」して真司くんと蓮は生きてる世界になったけど(お互いが戦い合う関係だったのを覚えてないのかもしれないけれど、二人が何らかの縁で接触する……っていう最後のシーンイイよね)、代わりに優衣がいない……という作品でしたが。

 真司も優衣も生きられる「世界」はあり得なかったのか?

 ……というところで、(テーマ的な)アフター「龍騎」とも捉えられそうな今回の『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』最終回。

 これは、言うなれば「龍騎」の最終回の後に、真司くんが消えてしまった優衣に会いに行って再び「変身」。

 優衣を無事連れ出して、蓮とか北岡さんとか待ってる「世界」に戻ってきた……みたいなラストだったので、僕としてはテンションが上がりました。

 「競争」を否定したわけじゃないから仮面ライダーはいそうですが、争い合うというよりは、龍騎もナイトもゾルダも王蛇も、「優劣」っていうより「ジャンルの違いだね」みたいな「世界」になって幕……みたいな感じでしょうか。

 2002年の「龍騎」の時にはなかった、今回の記事で書いた、


・「上下」に「左右」を貫入させる「世界」観
・「あなたとわたし」を攪拌する自同律を再生産した「世界」観


 とかの要素を作中で十全に描いた上で生かしてこのエンディングにもってきてるので、2018年、「物語」は進んだんだなぁ感を個人的には感じていたりします。

参考:小説仮面ライダー龍騎/感想(ネタバレ注意)

(/『仮面ライダー龍騎』の話、ここまで)
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 ふぅ。

 どうせなら後にこの三ヶ月をふり返った時に、熱のようなものを思い出せるテキストを残しておこうかと思って、けっこうな量の文章を書いてしまいました。

 個人的な話で恐縮ですが、「オリンピック」という概念に最近あんまりピンときてないというのがあります。

 より速く、より高く、より強く……がキャッチフレーズなわけですが、そうして「上」を目指してどうするのか、という感覚があります。

 もちろん、「上」を目指す向上心自体は良いことなのですが、それ「だけ」に目を向けてしまうと、「上」に行けなかった敗北者たちがたくさん「下」の方に横たわっていたりするのだけど、そちらには目が向かないのだろうか(光が当たらないのだろうか)、というような。

 オリンピック的、「塔(タワー)」の高いところまで行った存在だけがサイコー、あるいはアメリカ的大量生産大量消費精力強い存在だけサイコー的な、

 わりともうガタがきてるかもしれない「世界」観そのものをアップデートしてみせる(そして、作品の主題のようにそれは過去を否定するのではなく、あくまで「再生産」する)、野心的にはリアルと虚構を含めた「世界」を「再生産」して次の「再演」を始めてみせたいという意志力のようなものまで感じさせてくれる、キレッキレッの作品でありました。

 ナチュラルに眺めてみると、「競争」の「上」の方も競争負荷が過酷でつらそうですし(劇中の真矢様やクロディーヌさんのつらさですね)、一方で「下」の方も淘汰圧がキツくてつらそうな昨今です。「上」側の存在は「上」側の存在なりに、「下」側の存在は「下」側の存在なりに、「再生産」してゆけたなら……という本作はカッコいいです。

 作品自体が過去(原点・原典)の(作品などの)「再生産」をしているというのを体現しながら、トータルではだいぶ先鋭的な方に入る作品な気がするので、もうちょっと先、後々意味を持ってきそうな予感がある作品です。

 舞台版、アプリゲーム版などへと展開が続くことは既に発表されてるので、その未来に立ち現れてくるものなのが何なのかも気にしながら、引き続き本作については考えてみたりしていってみたいと思っております。

→2021年2月24日、「再生産総集編」Blu-rayが発売



→舞台版Blu-ray



→前回:アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』第十一話「わたしたちは」の感想へ
アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』全話感想の目次へ

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