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 相羽です。

 アニメ『ゾンビランドサガ(公式サイト)』第1話「グッドモーニング SAGA」&第2話「I♡HIPHOP SAGA」の感想です。

 ニコニコでの配信はこちらから。

 感想は、ネタバレ注意です。
 ◇◇◇

 「ゾンビ」が題材の一つの作品なのですが、「ゾンビ」の意味合いは「虚構性」のようなものだと感じました。言い換えるなら「ニセモノ」めいていて、背後に「歴史」や「ルーツ」がなく、社会と接続されてない存在としての「ゾンビ」。

 劇中のゾンビィたち、命が虚構、自我が虚構(特に主人公の《さくら》は生前の記憶がない)、佐賀県が虚構(え)、そしてアイドル(虚構的なもの)と、本当世界や社会の「歴史」とか「ルーツ」から切り離されている。

 世界や社会の「歴史」「ルーツ」から切り離されていることが受け入れられずに、ゾンビィたちは一旦、生前の「歴史」や「ルーツ」と符合していた頃の行動を、ゾンビィになってしまってからもとります。

 館の外に素(ゾンビ)のまま出る……というのが、その『「歴史」や「ルーツ」と符合していた頃』の郷愁の行動です。

 けれど、《さくら》は警官(社会の守り手)に撃たれてしまいますし……。(社会から拒絶された的な展開)

 第2話では、水野愛が「東京へ行く」と、本人の生前の「歴史」「ルーツ」「文脈」にそった行動を取ろうとするのですが、やはりラッパーと警官とのイベントで、不発に終わります。

 全体的に、愛や《さくら》たちがそれまで拠り所にしていた「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」、そういったものが儚く感じられる場面です。そんなもの、何か破綻的な出来事(たとえば不慮の死)で、あっという間に切断されてしまう類のものに過ぎないのかもしれない……。

 随所に、そもそも我々は、そんなに我々が生きてた社会の、「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」を知っていたのだろうか? ……というような要素も盛り込まれています。

 愛が巽幸太郎に佐賀のことを質問して、でも幸太郎は人口が答えられない、ウィキペディアの方が優秀と答える、ゾンビ映画(虚構)で世界観(現在の自分たちの状況)を把握しろと言う……などはギャグチックなパートではありますが、ぶっちゃけ今の現代人たる我々の社会理解なんて、それくらいの「虚構」的なものだよね……というシーンでもあるかと思います。

 リアルの方でも、地方の県の位置が答えられない東京の人とかは沢山いますし、日本の歴史、世界の歴史に関して体系だった知識がある人というのも少数な印象です。

 生前の、「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」が切り離せないゾンビィたちが、自分たちの生前の「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」で生きられないのでは、意味がないということを言います。やんわりと、今の社会、世界を否定するわけです。

 愛は東京を想い、佐賀では無理とイイ。

 二階堂サキは(暴走族としての)全国制覇を今だ志向し、生前育てていたたまごっちのことをまだ考えてる。そんな生前と断絶した今はもう終わりだという。

 そんな諦め、生前……というかそれまでの「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」への固執を、ブッ壊すべく、主人公《さくら》のラップが第2話で炸裂。

 めちゃめちゃカッコ良かったです。

 《さくら》自身がゾンビでアイドルで生前の記憶も佐賀への愛着もなく、「虚構」オブ「虚構」みたいな状態なのですが。

 おおむね、「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」、生前のものが全て失われたとしても、諦めんなということを言ってます(ラップで)。

 「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」……過去からの積み重ねが何もないからこそ、自由な部分があります。今から、過去のいっさいをパージして不確定未来に向かって再スタートできる。絆(ほだし)がないから、新しいこともやりやすい。ゾンビ(死者の復活)要素を、ポジティブに変換している……。

 第1話が(デス)メタル、第2話がラップと、刹那的な感じの表現で良かった。ほら、クラシック音楽とかだと、むしろ「歴史」とか「文脈」とか大事な感じになっちゃうじゃないですか。(いや、メタルもラップも歴史あるヨという順当な突っ込みに対してはスイマセン……)

 「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」、全てなくなった中で、メタルとラップで、それでも魂に残ってた「何か」だけ表現。現代視聴者の、もう色々と抜本的に壊して再スタートさせたい潜在願望にシンクロします。死んだ! 佐賀県で(?)再スタート! メタル! ラップ!

 生前の「ルーツ」、「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」の慣性に引っ張られて、再び東京を目指そうとした愛でしたが、考えてみれば、人気絶頂だったアイドルユニット「アイアンフリル」不動のセンターな自分がいなくても、十年間世界はそれなりに回っていた(愛は2008年8月没←公式サイトより)。自分(アイドル)という存在も、「虚構」めいていた。視聴者の我々も、実は自分がいなくなっても、それなりに世界(社会)はまわっていくという意味で、自分という存在は「虚構」めいていることをどこかで知っています。その上で、自分が「虚構」だったとしても、ゾンビだったとしても、この世界で何をするのか? どうせいつか死ぬ。それは、明日かもしれないし、第1話冒頭のヒロインのように、次の瞬間事故で死んじゃったりするかもしれない。

 ゾンビ(虚構)でアイドル(虚構)になって生前の「歴史」、「文脈」、「習慣」、「世界観」からは切り離されてしまったゾンビィたちと、彼女たちがいなくてもそれなりに回っていた世界とのコンフリクト(衝突)を描いてもいるのですが、面白いのは、死んだ彼女たちを忘却していた世界の方も、『デス娘(仮)』に興味を持ってくれたメタル系のお兄さん×2、ラッパーたち、おじいさん・おばあさんと、「顔が見える他者」として描かれている点です。警官さんにしても、職務上撃っちゃったけど、おそらく根は優しくて面白い感じの「顔が見える人間」として描かれていると思います。

 ここは、東京の人からは忘却された佐賀県。だけど、本当は「顔が見える県民」が住んでます。果たして、「自分がいなくなってもそれなりに回っていた世界(東京含む)」は、ゾンビィたちと衝突するものなのか?


 東京と佐賀を。

 それなりに回っていた世界と死者(忘却された存在)を。


 断絶を縫合する(かもしれない)存在としての、「ゾンビでアイドル」。

 《さくら》のラップで、《さくら》と他のゾンビィたち、およびメタル愛好家さん×2とかおじいさん・おばあさんたちとか佐賀県民たちとの断絶が一時だけ和合する場が現れる第2話ラストがとても良かった第1話&第2話でありました。

 ◇◇◇

『ゾンビランドサガ』が何を描こうとしてるかは、境宗久監督(Twitter)がシリーズディレクターだった『スイートプリキュア♪』、および演出を担当された『スマイルプリキュア!』第19話&第41話…を読解するとよりよく分かる感じです。

 多数の人間の共同制作の意味合いが大きくなってる最近のアニメーション制作ではありますが、ある程度作家性のようなものも反映されてると推察します。

 『スイートプリキュア♪』は過去の「共有体験」を媒介に人々の断絶を縫合する話。

参考:『スイートプリキュア♪』の全話感想(プリキュアシリーズの感想を書いてる別ブログ)


 『スマイルプリキュア!』は「メルヘン(虚構)」に意味はあるのか? みたいな話です。

参考:スマイルプリキュア!感想/第19話「パパ、ありがとう!やよいのたからもの」(プリキュアシリーズの感想を書いてる別ブログ)

参考:スマイルプリキュア!感想/第41話「私がマンガ家!?やよいがえがく将来の夢!!」(プリキュアシリーズの感想を書いてる別ブログ)

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→アニメ版Blu-ray

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→主題歌

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2018-11-28


→次回:ゾンビランドサガ第3話の感想〜昭和と平成を縫合して佐賀の片隅でライブ(ネタバレ注意)へ
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