「巨大な玩具箱のような、とでもたとえれば良いだろうか。探偵小説というものの、ありとあらゆる魅力的な要素をぎっしりと詰め込んだ玩具箱。これはそんな小説である」(綾辻行人)

 上↑の綾辻行人の『匣の中の失楽』評が、非常に的を射ていて僕的にもしっくりキます。密室、双子、作中作、衒学的解体、館、サプライズラスト、ありとあらゆるミステリの娯楽要素を全部ブチ込みましたと、そんな印象。

 魅力の一つに衒学を挙げましたが、この衒学ラッシュが凄まじい。何が凄まじいかって、唐突に出てくる衒学が、別に作品のテーマとかに関係してないのが多分に混じってるのが凄まじい(笑)。京極夏彦の『京極堂シリーズ』、奈須きのこの『空の境界』と、各種衒学をじっくりと煮込んで作品のテーマにねじ込み、クライマックスを盛り上げていたタイプの今年僕が読んだ小説とは、そこがちょっと違います。
 作中で根戸という人物が、羽仁という人物から唐突に3ページほどかけて長々と披露された「プルキニエ現象」と「人間の視覚」に関する衒学に対して、

 「ちょ、ちょっと待てよ。最後にそのひとことを言うために、そうやってながながと訳の判らんことをひきあいに出したのか?

 と語る場面がありますが、僕もそう思いました。例の如く、作品のテーマとかにあんまし関係無い衒学だし。つーか、コレ、根戸の口を借りた竹本健治のセルフ突っ込みじゃないの?
 ぶっちゃけ、テーマに関係あるのは最後の「視覚像が相対的か絶対的かは証明できない」という衒学と、「エーテルの存在を追求するのは無意味」という衒学だけなんじゃないかと……その他は、なんつーかただ竹本健治が言ってみたかっただけっつーか

 えーと、うん、だが僕的にはそれが良かった!(←良かったんだ!)

 やたらめったらの衒学乱れウチ、僕は大いに楽しめましたぜ?知らなかった話も結構あったし。

◇ミステリの謎を解体仕切ることは可能なのか?

 何気に、竹本健治氏はこの作品を書いた頃こういう(↑)疑問を抱いていたのではないのかと邪推します。
 作中で影山という物理学生がこんな台詞を語っています。↓

 「勿論、人間がそういうトンネル効果でもって壁を通り抜けるという場合には、その確率はほとんど零に近いほどの小さなものになるとしても、やはり確率的に起こり得ることなんですよ。(中略)どれぐらいの確率で通り抜けられるかというと、(中略)1のあとに0が10の24乗個くっついた数字だけの回数壁にぶつかってゆけば、そのうち1回だけは通りぬけられるということなんですよね。」

 『京極堂シリーズ』なんかはある怪奇を探偵役の中禅寺秋彦が解体しますし、読んでる僕らはその解体で満足してすっきりとカタルシスを味わえているんですが、それ本当に解体できてるの?みたいな。1のあとに0が10の24乗個くっついた数字だけの回数壁にぶつかってゆけば、その解体、論理に穴が空くこともあり得るんじゃないの?みたいな。

 ちょっとミステリ限定ではなく、思考の仕方全般の話になりますが、この竹本健治の徹底的に考えを煮詰めている辺りに、僕は大いに共感できます

 竹本健治氏がその辺りをその後どう考えているかは分かりませんが、僕的にはこの辺りは究極的には自分なりの解体、論理で納得するという点に落ち着けるしかないと思ってるんですが、問題はそこに至るまでの過程で、竹本健治ほどに考え抜く思考プロセスを経過してから自分なりの解体をアウトプットしてる人間が、今の世の中にどれほどいるかということです(←ちょっと毒吐き気味)。
 壁に一回体当たりしてダメだった。それくらいで後は思考放棄、他罰型で全部人のせいにして、自分は不幸鬱モード、悪いのは世の中。そういう人いませんか?
 そういう人に言いたい。一回でダメでも竹本健治ほどに考え抜いてみろと。1のあとに0が10の24乗個くっついた数字だけの回数壁にぶつかれとは言わないけれど、せめて二桁くらいはぶつかってみろと。そこまでやっての結果で自分なりに落としどころを見つけた場合と、一回で逃げモードに入った場合とでは、同じ「僕なり私なり」でも質が全然違うと思います

◇若き日の世界への懐疑が小説家を生む

 実はコレが一番僕が感じた『匣の中の失楽』の感想なんですが、22歳という今の僕と同じ歳の若さで『匣の中の失楽』書いたこの時の竹本健治に、世界の中での実存の孤独、あるいはそれと戦うために必然性を持って小説を書くという行為に至った竹本健治、そんな像を見ました(まったくの想像ですが)。三田誠広の初期小説に近い動機付けを感じました。
 『匣の中の失楽』には「不連続線」、「自己同一性」、「現実とは何か」といった概念、命題に触れられているのですが、僕が思うに人間には二種類いて、20歳頃までにこのような答えが無さ気な命題について考えてしまう人と、全然考えない人とがいるんじゃないでしょうか。そして、竹本健治や、三田誠広や僕(同列に語るのはおこがましいですが)は、考えてしまう人。若いウチにこの手の小説を書くのは考えてしまった人のように思います。答えのないような問いを考えてしまうがゆえに精神にかかる負荷。それらを自分なりにまとめてアウトプットすることで昇華するために小説を書かざるを得ない。そんな、若いゆえの必死さをこの竹本健治の処女作には感じました(同じようなモノを三田誠広の処女作にも感じたのですが)。
 ゆえに、読者を楽しませる娯楽に徹し切れてないような印象を受ける部分もあります。読者以上に、作者のその時期に必要だった作品。そんな印象を受けます。
 それゆえに、上述の答えがなさ気な命題を、さらに上述した竹本健治なりの徹底的に煮詰めた思考でアウトプットした、22歳時点での竹本健治がつけたこの『匣の中の失楽』のラスト、是非ともご一読下さい。


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 あと、例によって旧相互の人の活字中毒記の竹本健治話もステキに面白いので、『匣の中の失楽』及び竹本健治に興味を持った方は是非。普段は巨乳アイドル写真集話をしながらも、普通にステキな読書話も書いてます。