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◇大学院時代

 目的を見出してからの時間の流れは速い。長いスパンでの長期的展望をビジョンとして見据え、それに繋がる短期的目標を立て、最後はその日一日に何が出来るかまで思考を下ろしてきて自分の行動を決める。そうやって生きた日々が3年ほど続いた。

 しかし、先ばかり見据えた日々も長くは続かない。

 今年の9月に母親が何の前触れもなく脳の血管性疾患で倒れた。

 3分の2は死んで、3分の1は半植物状態、車イスで生活できるまでに回復したら奇跡だろうと医師に告げられ、それでも積極的に治療を施すかとも聞かれた。

 不思議と迷いはなかった。順調と言えば順調な生き方。やりたかったプロジェクトにも入ることができたし、発表なり論文なりで定期的に結果を出せばアカデミックポストに推薦してやるとも言われていた。そんなコレまでの積み重ね、コレからの未来を全て破棄せねばならないことは確かだったが、それでも僕はどんな状態でも僕が介護するので生かすことに最前を尽くして欲しいと答えた。母親がいなければ19の時に死んでいたはずの僕なので、ここで母親を見捨てる道理はない。あの時の恩を返す時がきたのだ。それよりも何よりも未だ伴侶も子どももいない僕にとっては母親は最も大事な身近な人だった。一番大事な身近な人一人守りながら生きられないで、人の心を守る仕事がしたいもないだろうという話だ。

 結果として、奇跡はおきた。

 深昏睡状態まで落ちた母の意識に呼びかけ、自分の信じるままに呼び起こし、最初に入院していた救急病院では言語療法の先生がいなかったので、僕がこれまで身につけてきた知識を総動員して独自の言語療法をねばり強く施した。結果、僕の努力が効いたのか効かなかったのかは定かではないが、今では複雑な文法は使えないし、未だカタコトというのはあるが、かなり筋の通った会話ができるようになるまでに母親は回復している。体の方も、車いすに乗ってスプーンを使って自分で食事ができる程度にまで回復した。最初の医師の見立てから言えば、まさに奇跡が起こった状況だ。
 半身麻痺に失語である。母親も僕もこれからが大変だろうが、そんな母とでももう少し一緒に生きられる。そのことが今、とても嬉しくて日々病院に通っている。

 いつでも、長期的な展望を立てながらの思考しかできない。研究者になって上から人を助けるという展望は断たれたが、人の心を守る仕事がしたいという抽象化された僕の行動原理の原点に立つならば、まだ、下から行くことはできそうだ。それまでの目的に向けての思考を組み替え、新たな目的に向けての必要なこと、自分がこれからすべきことを高速で算出する。結果、今では今後本格的な深高齢化社会の到来とともに激増するであろうと思われる、今回の僕が体験したようなケース、身内に要介護者を抱えるケースに辺り、それでも経済的な自立と要介護者を含めた家族での楽しい暮らしとの両立は実現できるのだということを体現し、モデルケースとして世に示すこと自体が僕の目的に合致するのではないかと思い始めている。

 このように、コレからの僕の生き方、コレまでの僕の生き方に、ネガティブな感情はあまり無い。

     ◇

 ただ一つ心残りがあるとすれば、どうもこのままだと、目的の二つ目であった、重なる時間の中に自分を位置づけるために「本を書いて残す」という方の目的が達成できそうにないことだ。
 今まではこのまま順当に博士論文を書ければ、博論は出版できる程度のものを書く自信があったのだけど、180度生き方を変えた今ではその道は断たれている。

     ◇

 しかし、幸運なことに時代は変わっているのではないかとフと思う。重なる時間の中に自分を位置づけたくてまとまった文章を世に残したいというのが目的ならば、何も媒体は出版書籍に限られたワケではない。

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 特に、僕程度の人間の生きた証としての文章など、目撃する人間は100人もいれば十分だろう。

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 とりあえずそういう目的なら、難しい学術論文よりも、多くの人の心に簡易に浸透できる小説がいい。あの日僕を助けてくれた、「創作」という活動にも敬意を払うことになる。



◇予告/このための布石

 2004年12月24日、新サイトにて、相羽裕司初のオリジナル創作小説を公開。



 400字詰め原稿用紙換算152枚の中編に、23年分の生きてきた証を記してお待ちしております。