今年最後の更新です。去年の今頃は曙VSサップにわくわくしてたりしたんだけど、あの頃はまさか今年は半身不随と失語になった母の一時帰宅に喜びつつ過ごすことになろうとは思いもよりませんでしたよ。

 一日やってみたけど、やはり介護は大変だー。3月から自分一人でできるのだろうか、それプラス仕事しつつなんて……みたいな(あと実は大学もまだやめてないしね)。でもそれ以上に、去年の今頃院試のために帰省しなかった僕に対して、「今年がんばれば来年は(地元の院だから)一緒にのんびりと大晦日を過ごせるねー」なんて言ってた母と、実際にどんな状態であれ今年一緒に大晦日を過ごせる運びになったのが嬉しい。10月の頃は、もうこんな光景が訪れることはないかと本当思ってたんで。雪の中、病院から借りた車イスを押しながら自宅のマンションに向かって町の道筋を帰ってきた時は感慨深かったですよ。このために、この三ヶ月があったんだな、と。

■観念的な雑想

 毎年大晦日に書いているんで、今年も少しだけ。例によって観念的な話なんで読み飛ばしてもらって結構ですが。ちなみに去年書いたのは、→こちら

 去年僕が考えたのは、世の中の諸問題の根底にある観念的な事実として、「1=1という普遍的な論理が破壊されている事実」があるのではないかということだったんですが、さらに今年思ったのは、「差異を認めることができない」人々が多いという事実もまた、世の諸問題に深く関わっているのではないかという想念でした。

 自分が見えている、自分が構築してきた世界が全てで、それと異なるものの存在を認めることができない……そういった人々が生み出す軋轢が、世の諸問題を生み出しているという側面が強いのではないかという話です。

 少し身近でミクロな話をすれば、僕の知人の老人に、耳が遠くなって補聴器をつけてる人がいたりするんですが、その人が、最近「おばあちゃんは何言っても聞こえないんだから!」と、娘らからハブにされてる……なんて愚痴をこぼしていたのが印象に残ってます。娘さんからすれば、自分は耳が聞こえるものだから、それと異なる耳が聞こえづらいというその老人は異質に映る。結果、「何も言わない方がマシ」と排他することになってしまっている。耳が聞こえる人と聞こえない人という間にある差異、それを認めることができるかどうか、これは、大きなポイントだと思います。上述の娘さんの場合は、その辺りが中々認められないワケですが、その流れを推し進めていくと、おそらくはそのおばあちゃんが老齢と共に倒れてしまった時に、その娘さんは「自分は動けるのになんでおばあちゃんは動けないんだろう」とその(「動ける人−動けない人」の)差異を認められないことがストレスになり、結果、老人の介護を放棄してしまうんじゃないだろうかと僕は心配しています。

 失語の例なんかもそうです。自分は「花子を太郎が殴った」という文を理解できるのに、この失語の老人はそれができない。それが異質に感じられてしまい、その老人を「障害者」として排他する……そういった理屈がまだまだ世の中にはまかり通っているように思います。

 しかしながら、僕はそういった世の中があまり好きになれなく、逆に「差異を認める」方向に思考を転換していくことで、世の中は上手く回っていくんじゃないかという思いを抱いております。

 高齢化社会の進展と共に、若い人達と、老人達との間に、「耳が聞こえる−聞こえない」や「ある言葉が理解できる−理解できない」といった差異がどんどんと広がっていくことを止めることはおそらく誰にもできません。だとするならば、差異を認めないまま異なる人を排他する世の中になっていくよりも、差異を認めた上でお互いがお互いなりに交流できる世の中になっていった方が、全体的に見て一人一人に負荷が少ないと思うのです。

 差異を認めることさえできれば、突破口はあります。上述の例で言うならば、「このおばあちゃんは私と違って耳が聞こえづらいのだ」という差異を認めた上で、その差異を踏まえる上で適切な、「声を大きくして喋る」、「ゆっくりと喋る」といった代案を実行すればいいのです。それだけで、お互いの負荷はグッと軽くなります。失語の場合なら、実は、1.「花子を太郎が殴った」という文は理解できなくても、2.「太郎が花子を殴った」という文なら理解できるという失語の人が結構いたりします。だとするならば、「1のような「ヲ格」が前に来る文はこの人は理解できないという差異が私との間にはあるのだ」という理解のもと、1のような文を使わずに2のような文のみを使ってお互いに対話していけばいいだけだったりします。案外、そのような簡単な差異認識だけで話がすむ部分が上手く回らないがために、深刻な他者否定、軋轢を生み出している場合が今の世の中多いような気がするのです。

 形はそれほど深刻じゃなくとも、こういった「差異が認められない」という症状は、身近な所にも多々あるような気がします。僕のサイト絡みで言うならば、作品批評なんかもそう。皆さんも、なにやら自分の持っている尺度の作品評価が全てで、それと異なる評価を持ってる人を認められず、深刻に対立しようとしてる……なんて人を見かけたことがありませんか?人はそれぞれ異なる評価の物差しを心に持っている……その事実が認められず、自分の物差しと相手の物差しとの差異を認められずに頭からの他者否定に走ってる人。実に無様です。

 本当に作品批評なんかを通して生産的な何かを生み出したいのならば、まずはそれぞれの尺度があるという差異を認めた上で、ではその差異を生み出しているのは何なのか?差異ではない共通部分は何なのか?と対話を発展させていくべきです。自分の尺度=世界の尺度で毒吐きに近い自己白露だけを続ける人、その人の世界はそこで止まっており、そこには先に進むべき生産性は存在しません。

 そういうのは、つまらないな。その思いが、僕が去年から今年にかけて持続して持ち続けた一つの観念的な思考ポイントです。そんな視点を一つのポイントにしつつ、来年も色々と何かを書いて行けたらと思います。来年というか、この先数年はこのポイントは変わらないような気がしますけれど(^_^;

◇えー

 今知ったんだけど、また曙戦うのかよ!しかも相手ホイスかよ!これは、また、色んな意味でバカな(褒め言葉)マッチメイクです。観れそうだったら、これは是非観ねば。

■終わる2004年

 とまあ曙に期待しつつ、夜はまったり母親と紅白でも観ながら過ごしますよ。また来年お会いしましょう。

 今年ランゲージダイアリー(及び旧サイトmot×mot)を訪れてくれた方、ありがとう。そして来年もヨロシク。