突然ですが、当ランゲージダイアリー商店の売り上げブッチ切りNO.1書籍、『論理トレーニング』より、4節「議論を作る」の一部を引用。

 「論文を作成するということは、いわゆる作文とは区別される。言うまでもないことだが、われわれがここで行うのは文学的訓練ではない。文学的表現の場合には、曖昧さや飛躍も重要な技術となる。さらには、書いた本人が自分の言いたいことを明確に把握していない場合もあり、それがむしろ表現の深みとなることもある。だが論文の場合には曖昧や飛躍は許されず、自分の言いたいことが分かってないなどは論外である。論文は散策のようなものではなく、明確な目的地をもったものでなければならない」

 意外と、創作作品の鑑賞にあたって青字強調部分の事実を踏まえられず、時に盲目的な批判を繰り広げている人が結構多いような気がします。ある創作作品に対して「曖昧だ!」とか「明確な結論を提示していない!」といった類の批判に今ひとつ自分がピンと来ないことが多いのは、この辺りに由来しているのかと思います。イヤ、論文じゃないんだから、とか、受け手の受け取り方に多様性を許し、時に作り手にすら曖昧性(作り手が複数の時には多様性も)を許容するのが創作なんじゃん?なんて思ってしまうことが多いです。

 この太字の現象に加えて、創作作品の受け取り方に関しては、この前のDESTINYでデュランダル議長が言っていた、

 「発せられた言葉がそれを聞く人にそのまま届くとは限らない 受け取る側もまた自分なりに勝手に受け取るものだからね」

 という現象も濃密に関わってくるので、まったくもって一つの創作の受け取り方は人それぞれに多様でかつ混沌としたものになってきます。

 だが、僕が思うに、このアバウトさが創作作品の魅力っしょ

 作り手の意図も一つだけ、受け手にもその通りの一つの解釈でしか届かない創作作品なんて、つまらないっスよ。

 そこの辺りを少しでも踏まえているかどうか……なんてポイントが、僕が各種作品の感想なんかを見て回る時に、この人の感想は負荷なく読めるな、逆にこの人の感想は盲目的でもう見たくないな、というのを判断するポイントの一つかなと最近自分で思います。

 逆に、論文の場合は、上記引用通り、曖昧で多様に取られてしまうのはダメです。僕の友人に卒論口頭試問で「キミの卒論は論文じゃなくてエッセイだ」という伝説のダメ出しを食らったヤツがいるんですが、案外、「論文とは何か」が分かってなくてそういうの書いちゃう人多いので、ここ見てる人でこれから卒論とかちょっと大きな論文書く予定の人はゆめゆめ気をつけるように。こっちの方は創作作品とは逆に、厳密に書き手の意図=読み手の受け取り方が1=1で対応すればするほどイイです。

 が、

 結構、有名な科学雑誌に載ってる論文なんかでも、(特に文系の場合は)多様な解釈を許してしまう論文が多かったりして、ある学者はこの論文をこう解釈した、いや私はこう解釈した!なんて論議がわき起こってることもままあります。そういう話を聞くたびに、いや、創作作品の鑑賞じゃないんだから!なんて僕なんかは心の中で突っ込みを入れているのですが(^_^;

 今日の話のまとめはこうです。

 曖昧性や多様性が魅力の一つになる創作作品の文章と、それらがマイナスに作用する論文の文章と、文章という同じ括りでも要因が価値判断にあたって逆に作用するなんてことがあり得る、文章、ひいては言葉というものは面白いよね……と、

 そんなことを学術論文と創作小説と両方を書いたことがある経験からフと思ったりしたのでした。

 本当に、世に存在する言語現象とは興味深いものばかりです。




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