価値観が多様化し過ぎた今の時代、万人に共通で普遍的な価値観ってあり得るのか?

 なんてことを、結構昔から考えています。実に、最初にこのテーマで発表したのは中二の弁論大会の時。
 #お友達閲覧者で覚えてる人いる?漫画文化の話なんかを絡めた弁論だったんだけど、先鋭的過ぎたのか、同級生からはまるで支持されず、見に来た父兄らからむしろ賞賛された(^_^;。

 まあ、僕の過去話などはどうでもよく、東浩紀氏の評論の話です。

 『ファウスト』Vol.1から始まった評論で、最新号のVol.4で第一部が終了したんだけど、上記のような僕がずっと興味を持っていたテーマなんかも色濃く踏襲されている評論で、毎号毎号興味深く読ませて頂いておりました。

 前提著作となる『動物化するポストモダン』の1の方をまだ読んでないんで詳しくは語れないんですが、物語を「大きな物語」と「小さな物語」に分けて、今は「小さな物語」が氾濫している時代というような認識のもとで評論が進んでいくのですよ。

 大雑把に意訳すると、巨乳好きだろうが貧乳好きだろうが、万人が共通にハマれるのが「大きな物語」で、逆に人それぞれ的に、巨乳好きは巨乳好きだけがハマれる物語、貧乳好きは貧乳好きだけがハマれる物語ってな感じで小さなニーズ、マーケットを満たすためだけに描かれてる物語が「小さな物語」。

 で、今は「小さな物語」の方に視点があるんじゃってな基礎認識。

 別に東氏はそれでも「大きな物語」を求めるべきだ!とか、「小さな物語」時代の今を受け入れるべきだ!とか、どっちがイイ!と主張してるワケではないんだけど、とりあえずこの「大きな物語」と「小さな物語」に分けるって視点が昔から僕が考えていたことにも繋がって、非常に興味深く読めた点でした。

 僕的な雑感を付け加えるなら、一番見ててイタいなーと感じてしまう人ってのは、自分にとっての「小さな物語」に過ぎない自分の好きな物語を、万人も同じように好きだと感じている「大きな物語」だと盲信してしまってコミュニケーションを取ろうとしてしまってる人かなぁ等とも思ったり。

 昔から僕が漫画の感想を書く時なんかの基礎ポイントとして話してることですが、ジャンプの感想なんか書くときは、ジャンプはあれは基本的には子ども達のための「小さな物語」であって、一般の大人達も普遍的に楽しめるということを目指している「大きな物語」ではないという点を一つ踏まえないとなーみたいな話。

 やはり、自分の好きな物語は自分にとっての「小さな物語」に過ぎないかもしれないんだ……という意識をどこかに持ちながら感想なんかを述べてる方が、このコミュニケーションが大事な時代においてはスムーズに人と対話できる気がします。

 そんなことも考えさせられつつ、評論の内容は夏目漱石や村上春樹を語る同じフィールドで麻枝准さん(Kanon,Air,CLANNADといったKEYのギャルゲーのシナリオ書いてる方)を語ってみたりと、刺激的で面白いものになっております。

 僕は実は『ファウスト』ではこの評論をかなり楽しみにしているのですよ(次号からの第二部も楽しみです)。普通の文芸論に最近のノベルゲームの話なんかも取り入れたハイブリットな文芸話を読んでみたい人にお勧めの評論です。

 #というか、僕的にこの評論を読んで、数年前からずっと頭の片隅に引っかかっていた村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で、「何故「世界の終わり」の僕は世界を脱出しない選択を下したのか?」という疑問が氷解したのが大きかったです。東氏の解釈や良し。長年の心のモヤモヤが一つ晴れた気分でした(^_^;




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