毎年大晦日に書いてるんで、今年も簡単に書きます。
 今年僕が思ったのは、「正確な認識を持つことの大切さ」と「魔女探しはしない方が生産的」の2点です。
 誤謬された認識で混乱して怒って不満を当たり散らしながら過ごすよりも、正確な認識を持って思考を整理して楽しめるものを楽しめるだけ楽しんだ方がいい。これは僕の考えですが、一般論的な響きもあるのでわりとここまではそうだなと思ってくれる方も多いと思います。

 だけど、中々自分が抱いてる怒りや不満が「正確な認識の欠如」から生じてることに目を向けないで怒り続けてしまうケースも多いなと、そんなことを感じた1年でした。

 SEED DESTINY感想のコメント欄に、どこからともなく批評家めいた毒吐き家が紛れ込んできて、「主人公なのにシンの出番が少ないからこの作品はダメな作品だ」という趣旨の発言を本気で怒って繰り返してたりした時にそんなことを感じました。

 これは、正確な認識の欠如から怒りが沸いてくるケースの一つです。SEED DESTINYを観てなかった人には分からない具体例ですが、この番組は僕が感想を書き始めた当初から言っていたように、実際はシンの他に前作の主人公二人をも同格の主人公にそえた、シン、キラ、アスランの3人が主人公の3軸の物語なのです。そして僕のこの認識は、放映終了が近づいた頃のマガジンの巻末インタビューでDESTINYの福田監督自身が「アスランをニュートラルにおいて、シンとキラを配置した三軸の物語にした」という趣旨のコメントを仰っていたので、送り手の意図と受け手の認識の一致を一つ「正確な認識」の定義とするならば、まったくもって正確な認識でした。ところが、その正確な認識を欠いたまま「主人公は一人、なのに出番が少ない」と怒り、不満を吐き出すケースがある。主人公が3人いれば1人に割り振られる時間は3分の1になって比率的に少なくなるのは当然なんですが、正確な認識がないために、そこの所が整理して理解できず、結果怒りや不満に繋がってしまう。これは、スケート靴を与えられた人が、なんだこれは!これじゃ陸上を歩きづらいじゃないか!と怒りや不満を示してしまう……といったケースに似ています。正確な認識、スケート靴は氷の上を滑って楽しむために作られた……という意図さえ把握していれば、ちゃんと氷上で楽しい時間が満喫できるんですが、物語の主人公は一人で十分に活躍の描写に時間が割り振られるモノという先入観と同じように、靴というものは陸上を歩くためにあるものという先入観のみに固執してしまうために、氷上を滑るという新しい楽しさを発見でないでいてしまうのです。

 でも、靴って言ったら普通陸上を歩くものを考えるじゃないか、というように、でも、番組開始前のメディアではシンが主人公って言ってたじゃないか、と言いたくなる人もいるかもしれませんが、そういう時ほど、自分が正確な認識を持てているかどうか、まずは対象を良く観察してみることが大事だと思います。そうすると、靴?靴にしては靴の裏にエッジなる妙なモノが付いてるな?これはもしかしたら氷の上を滑って楽しむものなのかもしれないな、という認識に到達できるように、シンが主人公?にしてはアイキャッチやEDはキラがメインで作られてるな、それに、序盤の数話を観てみたけど視点はアスランにあるな、そして、OPでは夕日を背に3人が同格に描かれてるし、この3人が対話する時はいつも夕日演出だ、これはこの3人が同格ということなのか?という認識に到達できるようになっています。そういう正確な認識に辿り着くことで、送り手が意図していた氷を滑る楽しみと同じように、送り手が意図した3軸展開という込み入った物語なりの物語の楽しみ方ができるようになります。

 もちろん、好き嫌いは別モノ。自分は1軸の物語が好きなんだ!という人には、僕は陸上を走りたいんだ!という人に自信を持ってランニングシューズをお勧めするように、世の中に沢山ある1軸でガンガン主人公が活躍する物語を作り手もそのファンもその人に勧めることが出来ます。

 と、ここまでが「正確な認識」を持つことが大事だよなという話。

 そして、次に「魔女探し」の話。

 上述したような感じの「正確な認識」に辿り着けなかった時、多くの場合人は混乱します。そして、混乱した所でどうするかが、「魔女探しに走る」ケースと、「自分は今正確な認識を持っているか?と自問する」ケースに別れます。

 「魔女探し」の魔女とは「魔女狩り」の魔女です。疫病の流行や降りかかった災難を理由に魔女狩りをやってたのはほんの二、三百年前の話ですが、実は病気の原因は魔女のせいなどではなく、ほとんどの場合は自分たちが出すゴミや汚水の処理の不備などに原因があった、病気や災難といった不満や怒りの原因は、魔女などにではなく、正確な認識を持つ努力を放棄した自分達自身にあったという笑えない話です。

 この話に似た魔女探しを未だにやってるケースがあります。上述の例だと、アニメを観て自分が感じた不満や怒りを誰かのせいにする。やれ脚本家が悪い、演出家が悪いと、魔女をあぶりだして、火にかけることで自分の不満をはらそうとするケースです。ところが、この場合もこの手のケースは実際にアニメの制作過程を詳しく正確に理解してる人が不満の声を上げてる場合の方が稀なので、本当の所、脚本家や演出家の不備がどう作用して自分の不満に繋がってるのかを正確に認識した上で不満をぶつける対象を定めてるケースは稀です。僕がここ1年感じた所では、この手の話の場合、実際の所は上述の魔女狩りの魔女探しのケースと似てる場合が多いです。本当の不満や怒りの源泉は正確な認識を持てない自分への怒りや、あるいはアニメ観る程度で本気で怒ってる場合は私生活で満たされてない(そういう時は何見ても不満にしか感じない)など、他の理由、主に不満の源泉は自分自身にまつわる所から来てる場合がほとんどなのに、どうしても何とか他人のせいにしたくて攻撃する対象を探す。魔女を探す。そうしているケースがほとんどです。

 僕はこっちの魔女探しのケースを非生産的だと感じています。魔女が原因かも、その対象が本当に魔女かどうかもあやふやなのに、外部に働きかけて自分の不満や怒りを解消しようとするのは、もの凄く労力が入りますし、徒労の類に終わることが多いです。脚本家を魔女と定めたケースだと、解消するには大規模な運動でもおこして脚本家を変えて貰うなどといったことが必要になります。そうするよりも、自分を自戒してまずは「正確な認識」を持つように心がける方が簡単で生産的です。こっちならば、「正確な認識」が持てた瞬間に、その時感じてた不満や怒りが嘘のように氷解するケースが多いからです。

 記事タイトルが「観念的な雑想」なので長々と書いてしまいましたが、要約するとシンプルで、「何かに不満や怒りを感じた時、すぐに他罰に走るのではなく、まずは自分を振り返ってみよう」という話でした。そんな簡単なことを改めて感じた1年でした。この簡単な心構えを多くの人が実践するだけで、だいぶ世の中明るくなると思うんだけどなぁ。

 僕も今年は色々大変で、沢山の不満や辛さを感じましたが、何とか盲目的な魔女探しにだけは走らないでこれました。そして、結果、そのおかげでまだ何とか明るい気持ちを持って生活できているんだと思います。そんな1年の実感からきた今年の雑想でした。