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 SEED〜DESTINYの中の様々な要素がギュウギュウに詰め込まれていて、外伝としながらもやっぱりSEEDシリーズだなと思わされました。
 以下、<続きを読む>でネタバレ感想です。
 「I've learned I am stargazer」

   前回のエドモンドの、

 「とりあえず上を見ておこうかなって ほら 横を見ると誰かに嫉妬して自分も欲しくなるだろ 下を見ると今の自分で助けてあげられる人がいて 彼らに必要とされてりゃ気持ちはいいけど もしも自分よりも弱い者がいなかったらって思う その時自分は何をやるんだろうって だから 上を向いてる自分を確認しておこうと思ってね」(エドモンド・デュクロ)

 の台詞も、それを受けて観測MSにスターゲイザーと名付けられるシーンも、この辺りはSEEDでサイとキラのエピソードとか、最後のクルーゼの演説なんかで描かれてた「他者との比較」「競争の果て」なんて辺りのテーマだし、幼い頃から「ナチュラルは敵」、逆に「コーディネーターは敵」と刷り込まれていく子供達の描写は、意図的にカテゴリ依存を作りだしている者が存在するという、SEEDでは作中悪的になった描写だし、ミューディーがやられた後に「コーディネーターをぶっ殺せる」とテンションをあげるメガネのシーンなんかはSEED〜DESTINYと続いてきた「憎しみの連鎖」の話だし。何よりもステラが一瞬出てくるシーンからは、この外伝もDESTINYの「役割を全うするか/自由自律か」の話も関わってきてるというのが印象づけられます。DESTINYでのステラ、アウル、スティングらエクステンデットの役割は、生まれながらに兵士としての役割を与えられてそれを全うするように決められていても幸せになれるとは限らない、つまりは議長の示すあらかじめ決められた役割に準じて生きるのが人の幸福という世界観に疑問符を投げかけるために不幸に死んでいくのが彼/彼女らの(作中の)役割だったと思うんですが、今回のスウェンもここまでの状況は似たようなもの。DESTINYの後半の感想は「諦観VS自由」の視点で書いてましたが、ここまではスウェンは明らかに諦観よりです。与えられた役割にすっかり諦めていて、これもしょうがないと残酷な任務も全うしてる感じ。で、セレーネやエドモンドは逆に諦めないで上を見続けてた人。……という所で対比対立させた所で、スウェンも昔は天文学者になりたかった、セレーネは天文学者で、今も上を見続けている……と、二人とも‘stargazer’な点では共通していると、SEEDシリーズお決まりの、対比される二人が対立する陣営に属しながら、どこかに同じものを持っている(君は僕に似ている)という状況が生み出されているワケです。これは素直に面白いです。

 これ、ここまではミクロな話で悲劇調の話だけど、案外救いが残るエンドなんじゃないの?ステラがちょっと出てきた所でそう思った。上で書いた生まれながらに役割を与えられてしまってそれを全うすることでしか生きられない者の悲劇はDESTINYのエクステンデット達で十分に描いてしまったと思うので、それを繰り返すのも何な感じなんで、スウェンはアウルやスティングのifで救いが与えられてもいいような気が。

 いずれにせよ残り15分でどうまとまっていくのかが楽しみです。ギュウギュウに詰まってるSEED的要素を全部消化して欲しいとは言わないので、スウェンとセレーネ中心に是非残留感がある終わり方で。スターゲイザーが微妙に自律意志持ってるっぽいのが伏線な気がするんだよなー。

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