言語研究者にとっては涙モノの4巻だったワケですが。(挨拶)

 「イキモノはね 色んなものに縛られているの 自然の決まりごと 時の流れ 躯という名の器 心という名の自我 それは全てのイキモノに共通する鎖 でもね、ヒトにだけ使える鎖があるのよ」

 学部生のころ初めてこういう考えに触れたときは結構衝撃だった、というかオー、なるほどと思った記憶があります。
 人 間 に は 無 限 の 可 能 性 が あ る と い う の は 嘘 だ !(言い切ったー)

 実際には、人間というものには、非常に様々なものに縛られた、限定された能力の中での可能性しかない。人間は自然の決まりごと、「リンゴは木から落ちる」とか「脳が破壊されたら死ぬ」とか言う物理法則をくつがえすことはできないし、時の流れに逆らうこと、時間を止めたり戻したりすることはできない(DIOは除く、DIOというか荒木先生は除く)。
 ここまでは当たり前っぽいんですが、3つ目の「心が人間を縛っている」っていうのが結構驚きで、想像力とか、心はちょっと考えると無限の可能性を秘めていて何モノをも束縛しないっぽいんですが、残念なことにコレも人間は人間の脳にデフォルトで設定されてる以上のことは考えたり想像したりできないんですねー。
 脳にデフォルトで設定されてるものの代表例が、侑子さんも言ってる「自我」。人間は自分に与えられてる自我を通してしか考えたり想像したりできない。良くナチュラルに物事を見る、考えるとか、バイアスをかけないで物事を見る、考えるとか言いますが、アレは厳密には嘘。人間は脳の基本性能として自我という名のバイアスをデフォルトで与えられてしまっているので、全ての思考、知覚、判断はそのバイアスを通してしかできない。そういう「縛り」から人間は逃れることができない。パッと考えると残念で虚しいような気もするけれど、それが真実。そんな縛られてる虚しさを、「人間はボロ船1つ与えられて大海を航海してるようなもの」なんて比喩でちょっと前向きに捉えてみる哲学の小話があります。人間の可能性はボロ船1つに限定されている。これだけだとなんだか虚しいんですが、そのあとに、「それはしょうがないから、何とかこのボロ船を直したり改良したりと頑張って航海していくしかないだろう」みたいに続きます。自我に縛られてるのはしょうがないけど、縛られてる範囲でできるだけ良く考えたり想像したりしていこうと、僕も結構好きな比喩です。

 で、上の侑子さんの台詞だけでここまで色んなことを考えさせられて、ついに「ヒトにだけ使える鎖」って何?という問いに、それは「コトバ」という解答が出されます。

 ヨシ、 「 言 葉 」 関 係 で 生 き て る ヤ ツ は 4 巻 は 10 冊 買 え !(買いません)

 これはイイなー。自分向けでは、信念とか理想とか、自分を縛って克己させるのもコトバ、他人向けでは、賞賛とか肯定とか、相手をポジティブに縛るのもコトバ、侮蔑とか嘲笑とか、ネガティブに縛るのもコトバ。全てコトバ、コトバ。

 これもボロ船に通じる話です。自分も他人もコトバというボロ船に縛られるのは避けられない、それはしょうがないから、少しでも直したり改良したりしながら、コトバを良いものにしていこう、みたいな。そのあたり、ラストのワタヌキくんのコトバがお姉さんをイイ方向に縛って、それに対してお姉さんが返した「ありがとう」のコトバがワタヌキくんを同じくイイ方向に縛り返すという帰結は最高ですな。

 この「ヒトは縛られている」という思想を持ってきたのは、『×××Holic』という作品の流れとして自然でした。とにかく「対価」が等価であることの大事さ、ヒトとヒトは自分も1なら他人も1なんだという「1=1」を描いてきた物語なんで、この話を通しても、「僕だけは縛られていない」みたいな自分だけ10にして「自分10=他人1」の自我肥大の壊れた論理を振りかざすやからはダメだということに思い至ります。自分も1なら他人も1に縛られている。その縛りの中で頑張ってるからこそ面白い。

 僕的現行『×××Holic』ベストエピソードです。

XXXHOLiC 4 (4)

西尾維新 『×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』

xxx HOLiC 第一巻

『XXXHOLiC』前巻の感想へ『XXXHOLiC』次巻の感想へ
『XXXHOLiC』コミックス感想のインデックスへ
コミックス『ツバサ』感想のインデックスへ
「ツバサ」マガジン掲載分本編タイムリー感想へ
アニメ版『ツバサ・クロニクル』感想インデックスへ