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1/12日の『完結編 自由の代償』のブロードバンド配信に合わせて、当ブログのコメント欄に反映された放映当時の世評などを踏まえながら、スペシャル・エディション版で『ガンダムSEED DESTINY』という作品を忌憚無い語り口で振り返ります。第一回は『砕かれた世界』を視聴しながらまったりと。
・「いいえ姫、争いがなくならぬから力が必要なのです」
前作最終話でフレイと共にテーマの帰結を担ったカガリだったんですが、そんなカガリが今作では冒頭からあからさまに否定されてのスタートというインパクトのある出だし。第01話の試写会で、議長のこの台詞がラストシーンにかかりながら、力を否定するカガリをあざ笑うかのように新しい力、シンの駆るインパルスが降臨して、玉置成実の『Reason』がかかりだした時は震えたなぁ。
この、言葉では力を否定してるくせに、自分達は力を行使して争いを止めようとしているというカガリの矛盾は、そのままアークエンジェルサイドの抱える矛盾として、主人公の一人であるキラも抱える形で中盤〜後半あたりまで続きました。回収されるのは40話でカガリがついに力であるアカツキに自ら搭乗するシーン。長い仕込みです。キラ、カガリ、ラクスらのアークエンジェルサイドの物語はこの前作ラストの力を行使したけど結局何もできなかったラストを受けて、戦うことを忌避していた面々が、各々に再び戦うことを決断するまでの物語として描かれます。放映終了間際のマガジンに載ってた監督インタビューに、「SEEDでは戦うなということを言ったけど、DESTINYでは戦えということを言った」みたいな趣旨のインタビューがあるんですが、このある種の戦いの肯定というテーマは、冒頭では前作を否定する形でのシンの正義として描かれ、終盤ではアークエンジェル組が序盤のシンの主張を飲み込むかのように戦うことを決意するという形で描かれていきます。逆に、言葉では戦いを、力を肯定しながら、どこかで非戦の綺麗事的な想いを本当の想いとして抱えてるシンの矛盾も平行して描かれていく訳ですが、こっちの方は回収されるのは最終回。というか、この話はオーブの慰霊碑のシーンでしなきゃダメか。
・何だってこんな簡単に敵に(機体が奪われたんだ!?)!
と、シンのこの台詞の後に議長のカット。やっぱ、最初のガイア、カオス、アビス強奪事件の所から議長が裏でコントロールしてたんだろうなぁ。
・さすが、綺麗事はアスハのお家芸だな!
あからさまに否定されるカガリ第二弾。というか、さっき書いた第40話まで、カガリはずっとこんな感じです。落とされ続ける前作主要ヒロイン。当時のコメント欄でもカガリ批判(前作の主要メンバーの行動批判含む)とシンの正当性を主張するコメントが寄せられてました。一方で、シンの主張を幼いとするコメントも。この頃をスタートとして、僕としてはそういう風に描いてるからなぁとしか言えないような議論が、アークエンジェルサイドとミネルバサイドに分かれてコメント欄で起こることしばしば。2サイド3主人公制という込み入った基本設定にしたのは、群像劇(DESTINYはここまで行ってないと思うけど)が持つ特性として、どちらか/3人のうち誰か……から自分が感情移入する対象を選べるという、価値観が多様化した時代において視聴者に選択権がある点で、あからさまに誘導して一つの正義を主張する作品よりも時代に合ってるんじゃないかと僕は思うんですが、プラスかマイナスか、自分の主観で感情移入できる登場人物にのめり込み過ぎて、それを否定するサイドの登場人物を本気で叩きにかかる人続出。でも残念ながら、DESTINYは視聴者が感情移入した一人のキャラの正義が高い次元で貫かれて敵キャラを打倒するお話ではまったく無いので、コアに誰かに感情移入してしまった視聴者は泣きを見るハメになります。というか、そのまま自分が感情移入できるキャラを否定的に描いたといって、そのまま作品全体の評価を下げてしまう人も多数いた感じ。十代くらいの視聴者ならまだ分かるんですが、大人視聴者はもう少し作品全体の構造を俯瞰的に視聴する人がもっと多くなっても良いんじゃないかとひしひしと感じさせられた作品でした。そんな快活に活躍し続けるはずないよ。両サイドに、矛盾や落ち度やダメな点をわざと設定して対立するように配置してるんだから。
一方で正義相対の物語という点には早くから気付いていても、高次元で完成された信念と信念を主人公同士がぶつけ合うタイプのお話を期待していた人にも優しく無い作品でした。シンの導き手になってしかるべきアスランが迷走してるとか、シンにもっと強固な信念のバックボーン描写があってしかるべきだとか言ってる人達がこのタイプ。これも残念だけどそういうお話じゃないよ。「しかるべき」とか誰が決めたんだよ、と。どちらかというと、至らなくてダメで弱い人達が迷走し合ったあげく、最後にちょっとした気づきを得て終わるというお話ですよ。いずれにしろ、そういうのが観たかった人は他に沢山あるそういう作品を観れば良いというのが、アニメが沢山放映されてる日本の国の良い所。
そして、シンのこの台詞ですが、この時点では自分は犠牲者ゆえに糾弾する権利があるといった風な感じで、やはり強固な信念の一つとは言えない感じです。最初は僕もシンの信念が高次に獲得されてキラとぶつかっていく話になるのかと思っていたので、過去編なりなんなりでシンの思想背景が強化されるのを望んでたんですが、最終回まで見て、前作キラのifとして議長やレイに誘導されながらだんだんと本当の想いから離れていくという主人公として走らされた主人公だったというのを知った今となっては、逆にシンの信念が序盤から強固なものじゃなかったのが適切だったと思えます。もの凄い強固な信念を持って一つの正義として高々と成立してる主人公だったら、議長にもレイにも誘導されなかっただろうからね。
・名はその存在を示すものだ。ならばもし、それが偽りだとしたら、それはその存在そのものも偽りということになるのかな?アレックス・ディノ、いや、アスラン・ザラくん
この辺りから自己の重要感が不足して飢餓感にみまわれたアスランが、それを補填してくれた議長を信じてセイバーに搭乗するまで……という第1クールのお話の核の構成が見え隠れしてきます。カガリの側にいてもできることはあんまりなくて何かちげーなと思ってたアスランという所に、「存在も偽りだ」なんて言われたら、そりゃアスランもセルフイメージ下げますよ。どっか、俺を必要としてくれる場所は無いのか!と無意識にでも思いますよ。さらにその後の自分のお父さん絡みでユニウスセブン落下が起こったことも、アスランの自己を喪失させていきます。そういう展開を踏まえて、案の定、オーブではキラの前で、「(何と戦うべきか、自分がどうすればいいのか)でもやっぱり見つからない」と、俺、ダメダメなんだよ……的な愚痴(笑)をこぼしています。
・指輪
と、そこで焦ってカガリに指輪を渡しちゃうイベントですよ。このシーンは、比較的頑張って視聴してた僕でも放映当時は誤読してしまった所。ポジティブ記号だと思っちゃうじゃん!ちょうどこの頃エンディングで玉置成実が「遠く離れていても近くに感じてる♪」なんて歌ってたら、ステップアップしての再会を示唆したポジティブシーンだと思っちゃうじゃん!
実際は、終盤で指輪を外したカガリが現実と向き合う道を定めたシーンがポジティブに描かれたように、指輪はむしろ焦りの記号として機能してたわけですが(放映終了後のアニメージュの両澤さんインタビューでも「最悪の渡し方」と表現されたシーンだった)。この辺りは、放映当時のコメント欄で既に指輪のシーンはどちらかというとネガティブ描写と看破してた与力さんは読解力高けー。
・オーブの慰霊碑のシーン
TV放映版では第01話冒頭にもってきてたシンの過去を、アスラン視点ゆえか、ここに持ってきました。「誤魔化せないのかも・・・、いくら綺麗に花が咲いても人はまた吹き飛ばす」という現実に諦観したかのような言葉をシンはここで語るんですが、心は裏腹に失った家族を思い出して泣いているという、ファイナルプラスのラストシーンで、この場で「こんなのはもっと嫌だ」とついに本音を口にすることができるシンの回帰点の場面としてよりふさわしくなっていました。最初はリアリストぶって、そのうちに随分と遠い所まで流されて行っちゃうんだけど、本心はずっとここで涙して思い出した、家族との温かい時間にあったんだよね(一部、放映終了時のアニメージュの両澤さんインタビューより)。ラストシーンで。ずっとどこか綺麗事的なものを欲しているように描かれてきたシンの矛盾がようやく解消される仕込みとして、十全にこの場面が機能していました。もとからイイシーンでしたが、作画も一新してよりステキなシーンに。やはり、このシーンとラストシーンの対応を抜きにしてDESTINYは語れない。
三主人公制に関する記号である、夕日演出(ラストシーンでは朝日演出に変わる)が顕著な場面でもあります。この頃から既にコメント欄ではシンが主人公のはずなのにキラ、アスランが出張りすぎという批判なども。僕はキラが破格の待遇で引きに使われた第06話時点(この、キラ初登場で口を開くも無言で引き→玉置成実の『Reason』へ……のラストは、僕的オールタイムベストに入るカッコイイ引きでした)で三主人公制の物語だということに気付いてそう書いており、その後もちょくちょく書いてるんですが、主張する人ほど読んでくれないのか、僕の記事を無視してシンが主人公なのにシンが主人公なのにという批判は最後までずっとコメント欄で続きました。結局、放映終了後のアニメ誌のインタビューで監督自らシン−アスラン−キラという構造での三軸三主人公のお話だったということは明らかにされたわけですが、そこま説明でしないといけないのかと、何だかなーで微妙に悲しさを最後まで感じてた部分。終盤まできて、いまだに「本来の主人公であるシンを中心に作品を作り直せ運動!」みたいな所からリンク張られたりした時は結構マジで落ち込んだ。「〜である」とか、誰が決めたんだよ、と。読解力が無いゆえに、自分の主観は絶対ではない、転覆し得る……という物語を通して描かれてきたテーマも普通に読解できず、当然の帰結として自分の主観を絶対のものとして主人公は一人でしかりと決めてかかってるのが、悲しい。そりゃ、作り手もこういう物語も作りたくなるよという感じ。途中からオープニングのキービジュアルがシンの機体からキラの機体に変わるのも、転覆し得る価値観を表現したメタ演出ですから。
・カット部分
アスラン視点ゆえか、第1クールでキラとシンに関しては、それぞれ最重要シーンと言える、カガリに噛みついたシンをレイが「言ってることも正しい」と肯定してシンが破顔するシーンと、護れなかったフレイを回想してキラが拳を握る場面とがカット。前者は自分に対してYESと言ってくれる心地よさゆえに議長やレイにコントロールされて段々と本当の想いのかけ離れた場所に行ってしまう後半のシンというのを仕込むための重要場面なんだけど、カット。アスラン的にはこういうの知らなくて、レイにシンが誘導されているというのに気付いてないのか。そりゃそういうシンの背景を考慮してない後半の説得も通じないはず、という感じ。
後者は、たぶん作中で唯一キラが戦い続ける理由を明示したワンシーン。前作のラストを受けて戦いは忌避してるんだけど、再び大事な人(前作でのフレイのような)を失うような危機が訪れるならば、その時は戦う力を取る男がキラという男というのをワンシーンで明示した名シーン。こういう、単純に大事な人を守るために戦ってるんだけど、そのキラにとっての大事な人を守るという行為が議長が誘導している「世界」とは相克するから大事になってるというのをアスランは今イチ分かってないんだよな。アスランはどっちかというと公の人というか、個人的な動機で、ナチュラルとコーディネーターのカテゴリの狭間でもがき苦しんでいた時にそれを無化して接してくれたカガリや、クルーゼやレイと同じ負の感情に支配され得たかもしれない究極のコーディネーターであるという心の負荷を浄化して存在を肯定してくれたラクスへのキラの想いとか、アスランにはあんまり伝わってないんだよな。ゆえに、「ラクスが襲われた」とか「カガリが泣いている」とかキラから聞いても、アスランはあんまりピンと来ない。ゆえに第2クールでキラにぶった切られるわけですが、ああ、そのシーン早くも楽しみになってきた。アスラン視点のスペシャル・エディションだけになおさら楽しみになってきた。
一方で、核の光にキラがクルーゼの幻影を見るシーンはカットされずに収録。やっぱりラストのクルーゼの文脈を次ぐレイの価値観がキラの言葉の一撃で転覆する所(最終回相当)は作品的に外せないということで、その仕込みなのかな。
・アスラン復帰
と、そんなこんなで、俺の居場所欲しいー、俺の重要感を誰か満たしてくれー、と飢餓感がつのってきたアスランの所に、「(父親のことを)一人で背負い込むのはやめなさい」というアスランが最も欲していた議長の甘い言葉や、同じくミーア自身は誰にも必要とされてないけど、偽物でも今できることを頑張るというミーアに、同じく今は「偽」で必要とされてないんだけど……というエンパシーをアスランが重ねるイベントが挿入され(TV放映時は、これプラス、それでも何かやれと焦りを掻き立てるイザークという、前ザラ隊でのニコルの墓参りイベントも)、いよいよアスランセイバー搭乗へ。
「大仰な言い方だが、ザフトやプラントのためだけではなく、皆が平和に暮らせる世界のために」(デュランダル議長)
ですよ、アスランの落とされたセルフイメージに充電完了。ついにセイバー発進。この時の議長の言葉が、第3クールまでアスランを縛り続けます。
やはりDESTINYの魅力は、普通絶対やらないような構成をやってのける凄まじい脚本の構成力。この1クール丸々かけたアスラン復帰を、第36話「アスラン脱走」で転覆させるんですよ。最終話のレイの価値観転覆も前作から続く構成を踏まえていて凄いと思ったけど、DESTINY単体では、やはりあの36話を描くためのアスランへの仕込みに唸らされます。あー、36話相当部分早く見たくなってきたよ。
・政治は理想じゃない、現実だ
このユウナの台詞、スペエディオリジナルじゃね?第2クールでアークエンジェルサイドを理想サイド、ミネルバサイドを現実サイドと命名して対立軸を中心に感想を書いてきた身としては嬉しい。それでも一旦は理想を追求する道にカガリは入るのです。最終的に40話で現実と止揚されちゃうけどね。
・「Zips」
インパルスVSザムザザー戦でシンが種割れしてからの活躍劇の部分で西川さんの「Zips」が流れる演出は、同じく前作のスペシャルエディション1「虚空の戦場」でキラがザフト隊を相手にバーサーカー状態で戦った時に同じく「Zips」が流れたのとシンクロした演出で、本当の想いと離れた所で暴走気味に命を奪ってる状態の、シンとキラでのシンクロ演出と思われます。今回はアンダーカバーヴァージョンになってる辺りがまたステキ。音楽に関する演出は、前作と今作での「Meteor」シンクロ演出といい、SEEDシリーズ、出色なものが多いです。
・キラのフリーダム搭乗
上で書いた動機の部分より、ラクスを守るために、キラ、再び戦いの場へ。キラに再び力を渡すことに逡巡するラクスは、もはや前作34話でキラにフリーダムを渡した超越者ポジションのキャラではなく、それを見守る虎とマリューさんもキラが何より戦いを忌避してるのを知ってるからこそ何も言えずに、キラの決断を見守るだけ、それでもラクスを守ることができないよりはいいと、フリーダムに向かって歩みを進めていくキラという絵はやはりカッコいい場面。
この場面を受けて、放映当時の感想でも書いた通り、その時点での三主人公の最初の戦う動機を描いたのが第1クールというのが僕の印象。スペシャルエディションもその辺りはよく踏まえられていて、新ED、『Result』に乗せて、もたらした勝利を大いに肯定されて破顔するシンに、自爆したMSを見つめながら悲しげな表情を見せるキラに、迷いを見せながらも行動を開始したアスランを乗せたセイバーが飛び立っていくシーンを連続させて結んでるあたりが良いです。
◇
とりあえず、第一回はこんな所。やっぱりDESTINY面白いな。続く『それぞれの剣』もさっそく視聴することにします。楽しみ。

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そうですね。まったく、その通りです。かなりききましたよ、これ。
昨日この作品の感想を書いていた時の僕が、正にその考え方に陥ってましたから。
そして、もっとよく考えてみると、こういった「〜はこうであるべき」と決め付ける考え方は、(例えばこの場合だと)ガンダムシリーズの多様化、更にはシリーズの発展そのものの芽を潰し、やがては僕の愛するガンダムシリーズを殺してしまう結果にもなりかねない、と気付きました。
そういえば、作中でもラクスが似たようなことをアスランに言ってましたね。
僕もまだまだです。猛省せねば。