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多分に意図的に描かれてる事柄として、ハチは読者、というか世の大多数的に凡人でしかも社会性が著しく低く社会に不適応気味な女性、ナナは凡人(ハチ)目線からは遥に才能があるんだけど、やはりレイラのような真の天才の前では叶わず、人間関係に適応力が無いゆえに相応の苦悩を抱えている女性という基本設定。
そんな凡人であるハチが、スペック高めで一般人的にはお近づきになれないようなブラストやトラネスのメンバーの中で重要な役割を獲得していくという部分に、同じ凡人で特になんの取り柄もないターゲット層の読者に自分を重ねてさせて快感を得て貰うという、基本的にはそういうマーケティングの作品なのだと解釈。ハチ(ターゲット層の読者)目線から見た凄い人であるナナも、それなりの苦悩を抱えてる人間として描くことで、現実ではお近づきになれないハイスペック芸能集団とも、「やっぱり私と同じなんだ」的に読者としてはお近づきになれたような快感が得られるといった、そんな仕様。
そこで、社会性が低い(意図的に描かれてるハチの振り回されるような恋愛遍歴参照)、人間関係の適応力が低い(ナナのレンとの関係をはじめ、メンタルクリニック行きにまで追いつめられていく過程を参照)といった、それぞれのウィークポイントから派生する飢餓感に向かって、「恋愛」という魔法のトランキライザーが補填されることによって、そんな飢餓感が満たされる、その過程に読者に共感してもらう漫画なのだと。そして、ターゲット層に含まれてない読者であろう僕としては、その過程に共感できなかったから、なんだか「合わない」とモゴモゴした気持ちになったのだと思われる。
社会性が低いのも人間関係の適応力が低いのも実際に色んな人が抱えてる負荷だろうし、そんな負荷を前にしてどういったものを拠り所にするかは、ここは思想的に自由圏に入る国なんで、宗教を拠り所にしようが、愛国イデオロギーを拠り所にしようが、恋愛を拠り所にしようが基本的には構わないんですが、そういった負荷による飢餓感を抱えてる人が今の日本多そうだからといって、社会性が低くても、人間関係の適応力が低くても、恋愛があれば、愛してくれる人がいればいいじゃない!という価値観を補填することで市場のニーズを満たすというのは、いくら市場にニーズがあろうとも、ちょっと悪い意味で、子供にニーズがあるからと甘いものを食べさせ続けたら歯がボロボロになってしまっていた的な顧客志向の罠が潜んでるような気もしないでもない。劇中では、社会性の低さゆえに重ねたハチの恋愛遍歴もそれもいいじゃない的にある種肯定されるかのようになってしまっているので、社会性の低さや人間関係の適応力の無さといった、一昔前だったら「欠点」と呼ばれていた部分を、「恋愛最強」という水戸のご老公の印籠的な価値観で全部アリということにしてしまっていいのかという話。そこの部分にひっかかって、今ひとつ、「共感」によって支持層を広げているであろうこの作品に対して、心からの「共感」を持つことはできなかった。
同じ年齢層高めの少女漫画でも、逆榛野なな恵作品的過ぎるというか。現在のタクミと結婚することで、社会性の低さゆえに重ねた恋愛遍歴もある種報われてとりあえず今幸せというハチは、初期榛野なな恵作品だったら、明らかに現実に埋没した大人としてネガティブゲストキャラとして扱われるポジションだし。色々心に負荷を抱えてるゆえに社会に適応できなくても、恋愛最高という既存の価値観に埋没せずに、独自の価値観を築いて社会を包摂していく登場人物達の強さが描かれる初期榛野なな恵作品がバイブルの僕としては、この辺りがどうにも共感できなかった。
まず、一見優れた人間のように見えるんだけど、心に重大な負荷(トラウマと言っても良い)を抱えていて人間関係の適応力が低い女性が一人という所までは、『ピエタ』の理央、『パンテオン』の彰子なんかと、『NANA』のナナとは同じなんだけど、そこから社会と関わる強い力を持ってる親友の女性との関係性を通してそんな女性が徐々に世界や社会と関われるようになっていく……というくだりの部分が、『ピエタ』における佐保子や、『パンテオン』における桃子のようなポジションのキャラクターが、『NANA』のハチにはつとまっていないのが、やはりモヤモヤする所。佐保子や桃子がハイスペック過ぎるというのもあるけれど(桃子にいたっては若年の起業家だしね)、それにしても、ハチはロースペックで、そのロースペックぶりをもまるまる肯定されて現在に至ってしまっている。そこが、現段階の『NANA』で一番モヤモヤする部分。
が、
これまで、肌に合わない作品的な話ばかり書いてきたけど、これからの展望的にはそんなに悲観してなくて、上であげた僕的に共感できない部分が、今後の作品の展開では改善されていくものと予想しています。
よく読んでる人は気付いてると思いますが、ある種悲劇エンドで終わるお話かのような、現代軸のラストに未来のハチによるモノローグが繰り返し用いられている作品なんですが、おそらくそれは一種のミスリードで、ナナにとって悲劇的な未来(死亡っぽく匂わされてるけど、僕的には失踪だと思ってる)が訪れた後のハチの時間軸に今度フォーカスが移ることによって、時間軸をハチとタクミの子供が生まれた軸に移して、今度はそこから、親父復帰物語ならぬ、ナナのオバさん復帰物語が描かれる熱い構成を取ってる作品だと思われる所。
その際に、ようやくその時間軸でナナの人間関係の適応力の無さという課題は克服されるものと思われ、今からその伏線は張ってあります。つまり、ナナの家族との関係の物語。ナナのトラウマの原点となってる、このラインの人間関係が再構築されることによって、ナナは再び「人と関われる力」を取り戻して帰ってくるんじゃないかと。そして、その時に、おそらくハチと、ハチとタクミの子の関係性を、母と子の視点で、ナナの母親とナナの関係にシンクロさせて、ナナの心の浄化にハチが一役買うものと予想。そこで、ようやく社会性が乏しかったハチの欠点も、「親子」、「家族」というダブルの社会性キーワードで昇華されるのではないかと。
そこまでいくのにあと何年かかるんだっていう感じですが、とりあえず、ちゃんとそういう方向の展開になって、ある種「恋愛」至上主義で閉じてしまっている今までの作風が、主人公達が社会や他者との関わりに開眼するまでにシフトしていく様を描いてくれる作品になってくれたら、その時こそ、本当の意味で僕的にも「共感」を持って、この作品を読み返すことができると思っているのでした。
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