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 RubyGillisさんの人気作、名作の続編を作ることに関してのこの雑感記事が非常に面白かったんで、僕も日頃考えていたことをここに書きとどめておきます。
 トピックを提供してくれたのは、この記事↓

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ディズニーが、ストレートビデオ用の続編製作を中止

 [eiga.com 映画ニュース] ディズニーが(映画館興行を行わない)ストレートビデオ用の続編製作を中止することになった。過去10数年間にわたってディズニーは、「ライオン・キング2」「わんわん物語II」「バンビ2/森のプリンス」「シンデレラII」「シンデレラIII 戻された時計の針」等のオリジナルビデオを積極的に製作。莫大な利益を上げる一方で、過去の遺産を安直な続編で台無しにしているとの批判を浴びてきた。(後略)

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 続編を作ることの是非というわりと僕なんかはもう聞き飽きるくらい聞いたというトピックなんですが、こうやって何度も蒸し返される所を見ると、何かしら、続編肯定派には肯定派なりの、否定派には否定派なりの何かしら譲れない気持ちがあるからこそ、こうして譲らない人は譲らずに争い続けているのでしょう。

 最初に僕の結論を言ってしまえば、人それぞれで楽しめる/受け入れられる続編もあれば、楽しめない/受け入れられない続編もある……ということで、その人の主観の評価や、主観の総体としての世間のジャッジと言える作品が成功したかどうかという結論に関して、「続編か/続編じゃないか」というファクターはそれほど重要に関わってはいない……というのが結論なんですが、せっかくなのでもう少し事象をかみ砕いてみましょう。

 まず、続編作品には、続編という時点で自動的に背負わなければならないメリットとデメリットが存在します。

 まず、メリットとしては、前作のファンをそのまま囲みやすく、ビジネスとして初期投資が少なくてすむこと。前作ファンの囲い込みがそのまま前作ファンを満足させる結果に繋がるかはまた別問題なので、上記で述べたようにその点は「続編か/続編じゃないかというファクターはそれほど重要に関わってはいない」と僕は結論づけるわけですが、ビジネスとしてやる分には、あらかじめ前作ファンという見込み客が開拓されてる分、参入ハードルはまったくの1からやるよりもだいぶ低くなります。

 ビジネス最前線のお話を忌憚無く語ってしまえば、コンテンツの発売前に、如何にお客さんを「教育」できているどうかが、その商品(作品)が成功するかどうかの大きなウェイトを占めているわけです。「教育」というと一方的に上から価値観をコントロールされてる印象を受ける人が多いですが(まあ実際されてるんですが)、もう少し柔らかく「発売前にお客さんの信頼を得られているかどうか」といったファクターだとでも思って頂けたらと思います。

 僕はバカバカしいと思って見てる最近の事象に、任天堂VSソニーのWiiVSPS3の次世代ゲーム機のシェア争いを、何か評論家ぶって論じてる俺カッコいい!みたいなトレンドが(たぶん主にネット上だけで)ありますが、僕的にあえて突っ込んでみるなら、今のところ任天堂のWiiの方が優勢なのは、何をおいても、このお客さんの「教育」が任天堂の方ができているからです。

 深く遡るのはそれこそ自称ゲーム評論家にまかせますが、とりあえずニンテンドーDSのヒットで、「任天堂のゲーム機は私達に楽しさを届けてくれる」という教育が、広い層に行き届いている土壌がありました。その上でWiiの対象層を「家族向け」という層でターゲティングを明確にし(これはまだまだ広いターゲティングで、実際には、僕が見たところマーケティング部門の人がちゃんと詳細にターゲティング戦略を練っています)、徐々に家族層が新しい任天堂のゲーム機は面白いと教育されていくような広告展開を上手に打っていったわけです。このダイレクトに購入を促すわけではなく、徐々に興味を喚起してファンになってもらう(教育を行う)ことに目的を絞った広告を専門用語で「ティーザー」と呼びますが、あの最初はWiiリモンコンだけが映されて徐々に全貌が明らかになっていくCMといい、その他の広告展開といい、このティーザーの上手さは、Wiiに関しては1/3くらい(広義では)コピーライティングで食べてる僕から見ても大変上手なものでした。そこまでお客さんを「教育」できれば、あとはコンテンツの質はそれほど関係なく(Wiiの質が悪いと言ってるわけではないです。僕、触ったこと無いので)「売れる」わけです。

 ただ、逆に言えば、それほどお客さんの「教育」の部分に、企業という売り手は資本と時間をかけるわけです。

 この点が、続編作品は資本的にも時間的にも、教育にかける労力が非常に少なくてすみます。何故なら、ヒットした前作というコンテンツに心酔している、既に「教育」済みの層がかなりの程度出来上がっており、基本的にはその教育済みの層にコンテンツを投下するだけだからです。

 一方で、続編作品にはデメリットも存在します。沢山ある中で今回は一つだけ取り上げさせて頂きますが、そのデメリットを誘因しているものの一つは、ずばり「コントラスト効果」です。

 「コントラスト効果」とは心理学の用語ですが、人間は認知的に、同種のコンテンツの場合、より良いAと比較してしまい、そのままならば上質と評価したであろうBを、見劣りするものと見なしてしまうという事象です。具体的には、そのままなら絶世の美人だと思っていた自分の妻でも、長い間それよりも魅力的なTVに出てるような女優さん、スター達ばかり見せられていると、アレ?俺の妻ってこんなにも魅力の無い女だったっけか?となってしまうという、恐ろしい(笑)研究結果が実際にあったりします。

 これを続編の話にあてはめると、前作があまりに良いものとしてお客さんの印象に残ってる場合、お客さんにはコントラスト効果を発動させて比較して続編をそれには及ばないものと判断してしまうように認知機能的な束縛がかけられてしまっているため、それを打ち破るのは難しいということです。『ガンダムSEED』シリーズの福田己津央監督も、超ヒットした『無印SEED』の後に『DESTINY』を作るのは非常にプレッシャーがあったとインタビューで語っておられましたが、それは、おそらく理論として知っているか直感的に知っているのかはともかく、一つは人間の持つこのコントラスト効果というものを知っていたからだと思います。一般的なお客さんはこのコントラスト効果から逃れられない以上、それだけで続編ものはスタート地点から不利であるということが言えます。これを打ち破る、お客さんのコントラスト効果の束縛を超えるインパクトで前作よりも数倍の感動を作り出すというのは本当に難しいです。現在『劇場版ガンダムSEED(仮)』を作成している福田監督には頑張って!と同時に南無三と言いたいです(笑)

 また、少し余談になりますが、このコントラスト効果は、続編作品のトピックの場合、作り手が同一人物かどうかで発揮される場合とされない場合があるようです。同じ作者が続編を書いてる場合でも、当然前作よりも今作は今イチだなぁ的なコントラスト効果は現れるわけですが、逆に、「この作者さんの作品なら、とにかく自分は大好きだ」と、自分の中に落とし込んでしまうケースも沢山存在します。上記の話で言うと、もう、その作者の作品というだけで素晴らしいと頭にフィルターがかかる状態に「教育」されてしまっているわけですね。そういう場合、この自分が教育されてる作者さん以外の人がその作品の続編を作るとなると、猛烈に反発します。人間、一端教育された自分の頭を、別な価値観での教育に合わせるには、頭が柔軟な少数な人をのぞいて難しいというが残念ながら今の時代の現状なのです。

 僕が好きな少女小説の話を例にあげると、名作として名高いエレナ・ポーターの『少女ポリアンナ』は絶大な支持を得た後に出された、『ポリアンナの青春』もまた絶大な評価を得ました。ここまでは、うまく前作での教育効果を生かした、続編作品の成功例だと思います。ところが、このポリアンナシリーズ、実は、作者を別のアメリカの女流作家に変えて、現在までも実に50作もの続編が作られているのです。そして、その別の作者が書いた続編に関しては、「そのうちの数冊は私も読みましたが、ポーター婦人の二冊にはとても及びません(角川文庫版『少女パレアナ』のあとがきより)」といった評価になっているようです。エレナ・ポーターという作者自身を素晴らしいと感じすぎてるがゆえに、他の作者は比較して劣っていると感じてしまうというコントラスト効果が現れている部分だと思います。この辺りは日本のガンダムシリーズもそう。ファーストガンダム至上主義者の中には富野由悠季監督至上主義者と重なってる人も多く(これはガンダムSEEDシリーズ感想サイトを数年運営して、そこによせられた批判を僕なりに分析した結果の話ですが)、富野監督が作ってるガンダム作品までは無条件に好評価をつけるけど(というか信奉してるけど)、その他の監督が作ったガンダム作品には途端に攻撃的になるという人が、実は沢山います。そういう人は、ガンダムの新作が発表になるたびに、まだ見てもいないのに(笑)叩きます。『ガンダム00(ダブルオー)』とか、もう叩いてる人います(笑)。この現象も、一人の監督を軸に「教育」と「コントラスト効果」が現れている顕著な例だと思います。

 さて、最初に引用したディズニーの続編問題も、日本のガンダム事情と結構同じで、「教育」と「コントラスト効果」から解体できる現象なのではないでしょうか。

 「ライオンキング」も「シンデレラ」も、人によっては人生を震撼させたほどに大事な作品なわけです。その第一作の評価が高ければ高いほど、続編はコントラス効果でそれこそ「過去の遺産を安直な続編で台無しにしている」と映ったりするのでしょう。第一作に教育されていればいるほど、その価値観を崩してしまう続編に否定的な感情を抱いてしまうのです。

 ただ、そういう人はユーザーとしての視点のみに埋没している本当に純粋な人で、そういう人にはまあ強制はしませんが、例えば商業主義で回ってる現実のビジネス事情とか、他にも今回紹介した教育戦略にコントラスト効果とか、事象を外の視点から眺めてみるのもどうですか?とお勧めしたくなります。その人にとってその楽しみ方が幸せかどうかは保証できませんが、また違った感覚で続編作品の楽しさを発見できるようになります。

 RubyGillisさんも書いているように、続編でしかできないならではの楽しさというのも確実に存在します。「既知の設定・ストーリーがあることを使った意外性」みたいなのは僕も好きです。『ガンダムSEED』も、最初の方はあえてファーストっぽくしてるのに(ストーリーだけじゃなく、構図とかカットとかもらしいです。僕が読んだインタビューによると)、そういった既知の要素を、第3クールで打ち壊していく(これも、ストーリーだけじゃなく、映像的な面でも後半から福田流的なものを出して言ってるそうです)部分が面白いわけですよ。ファーストガンダムが対立するカテゴリの中では個は戦争に巻き込まれて戦い合うしかないという悲壮を描いて、それまでにない「リアル」なロボットアニメだという評価を受けたのを前提にして、逆に『SEED』の第3クールでは対立するカテゴリから主人公が「個」として抜け出して、戦争という構図そのものに戦いを挑んでいく……という部分が最高に面白いわけです。また、僕が『DESTINY』が『SEED』と同じかそれ以上に好きなのも、「戦っちゃダメだ」という前作のメッセージ(既知要素)を前提にして、それを様々なギミックを使いながら、「それでも戦わなきゃならない時もある」と裏返していくそのプロセスに痺れるわけです。

 確実に面白い続編というのも存在します。結論としては最初に書いた通り、「人それぞれに面白い続編もあれば、面白くない続編もある」なんですが、続編の面白さを積極的に発見するには、多少メタ的というか俯瞰的な視点が必要になるという点はあると思います。コントラスト効果や影響力によって教育されてしまう事実は、人間の認知機能的に生得的に備わっている特性ですので完璧に逃れる方法は無いのですが、自分を対象化して、あ、今私教育されてるかも?私、コントラスト効果にかかってるかも?と一歩引いて見てみることは可能です。その時、作品と自分の関係を俯瞰する新たな視点が生まれます。僕とか、続編が普通に面白ければ面白いで楽しめて、なんかハズしてるなと思ったら思ったで、なま温かく楽しめますんで。

 『シンデレラIII』とか、もはやワケわからなくて楽しそうじゃんとマジで思う。『シンデレラIV−人妻編−』とか、色々やってみればいいじゃない。

→参考文献『影響力の武器―なぜ、人は動かされるのか』
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