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 前回の、物語は荒唐無稽な方がイイのか、整合性があった方がイイのか。という記事の補足記事です。
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 前回の物語は荒唐無稽な方がイイのか、整合性があった方がイイのか。という記事には沢山の反応を頂いたのですが、そんな中にあった「狙った荒唐無稽はいいけど、整合性を狙ってるのに荒唐無稽になっちゃってるのは駄作」というような反応を読んで、前回の記事の主眼であったターゲティングの話をする前に、「作品の評価と創り手の評価は分けて考えるのか、分けないで一緒くたにして考えるのか」という、わりと昔から話題になってるトピックに関して確認しておいた方が有益だと思って補足で書かせて頂きます。

 このトピック、前提となる当たり前の事実として、「優れた作品は優れた創り手から生まれる、ダメな作品はダメな創り手から生まれる」という常識的、直感的な判断がまずあると思いますが、この見解は、作品というものが創り手側のコントロールの下で創出される以上、確かに真実を含んでいます。つまり、漠然と考える分には作品と創り手は連動しているものだから、それらの評価もそうそう分けて考えられるものじゃないということですね。夏目漱石の「こころ」が優れた作品なら、夏目漱石は優れた創り手だと。

 ただ、そこまで漠然とではなく、前回からお話しているマーケティングとかターゲティングとかいった視点を持ち込んで現象を細かく解体して見てみると、違った側面が見えてくるというのが今回のお話の主眼です。

 少し具体的には、

「狙った荒唐無稽はいいけど、整合性を狙ってるのに荒唐無稽になっちゃってるのは駄作」

 という意見に関して、その通りだと思いながらも、「整合性を狙ってるのに荒唐無稽になっちゃってる」という部分は「創り手」の評価を判断するかどうかの指標で、「駄作/佳作/秀作/傑作」といった部分は「作品」の評価にまつわる部分であるという点に注目するということです。

 ここに、創り手の評価と作品そのものの評価を分けて考えた方が現象が把握しやすい事態が現れてきていることに気づいて頂けるでしょうか。

 荒唐無稽か?整合性か?という今回の例で言うと、「整合性を狙ったのに荒唐無稽になっちゃった」作品を創り出した創り手は確かに創り手としてはダメな創り手なのですが、そうやって狙ったワケではないけど荒唐無稽になっちゃった作品が、荒唐無稽な作品が好きなBさん(B層)に結果として楽しんでもらえれば、Bさん(B層)からの作品の評価としては「優れた作品」となってしまう……というケースがあるということです。「ダメな創り手」から「優れた作品」が生まれた例ですね。

 まず分かりやすい「作品の評価」の方から行きますが、「駄作/佳作/秀作/傑作」といった作品の評価は、結局ある要素を好む主観を持ったAさん(A層)からの評価によって規定される相対的なものです。前回も書いた通り、イデオロギーとか宗教とかである国や地域の人々の主観がある程度統一されていた頃は、万人が好む作品=優れた作品、そういう万人が好む作品を創る創り手=優れた創り手……といった分かりやすい評価の図式のみが一元的に存在していたのかもしれないのですが、残念ながら現在は様々な要因で価値観が多様化し過ぎてしまったので、Aさん(A層)からは傑作と称された作品が、Bさん(B層)からは駄作と評価されるといった現象が、わりと当たり前に氾濫しています。荒唐無稽なスーパーテニスを描いてる『テニスの王子様』を楽しんでいてこれもイイじゃんと評価する荒唐無稽好きなAさん(A層)がいれば、それを「リアルなテニスじゃない」「整合性がない」と駄作と評価する整合性に価値を置くBさん(B層)もまた存在するということです。

 で、「作品」の方の評価は現在そういう相対的なものだとして、じゃあ「創り手」の方の評価とはなんなのか?どうやって評価するものなのか?というお話です。つまり、「作品」としては「層」によって相対的に評価される『テニスの王子様』はそういうものだとして、作者の許斐先生は優れた創り手なのか?ダメな創り手なのか?というお話です。

 結論から言ってしまうと、創り手の評価とは、「ターゲットとした層を楽しませる作品を送り出せる能力の高さ」を指標にするのが一番分かりやすいと思います。

 許斐先生の評価を決する(笑)前に、理解を深めるためにもう一つ別な例をあげておきますが、『ガンダムSEEDシリーズ』、僕は全話感想を書くほどに感想サイトを運営していたのでこの作品の回りの現象に詳しい方なのですが、僕の感想サイト(というかこのブログですが)にも、自分の主観ジャッジで「作品」を駄作と判断した人達が、「創り手」である福田監督あたりをもダメな創り手として批判するコメントをよく書き込んでいきました。しかし、上の方で例にあげた「ダメな創り手から優れた作品」が生まれる現象と反対の現象として、「ある層から駄作と評される作品が優れた創り手から生まれている」現象もまた存在します。

 『ガンダムSEEDシリーズ』、商業的には成功してるので、ある層からは支持されていたのは確実な事実なわけですが、一方で上述したように「作品」に関しては支持していない層がいたのもまた事実でした。ここまでは上述した価値観が多様化して「作品」の方の評価が相対化された現代では当たり前の現象なのですが、それでは僕が「創り手」の方の評価を判断する指標として一番良いとした「ターゲットとした層を楽しませる作品を送り出せる能力の高さ」という観点に立った場合、創り手である福田己津央監督は?

 これは、間違いなく能力の高い「創り手」です。今回はガンダムSEED話をするのが主眼ではないので細かいデータや根拠は置いておきますが、一例だけあげるとガンダムSEEDシリーズは女性の支持層を獲得したのがほぼ事実なのですが、各種メディアの監督のインタビューなどによると、当初から新規の女性客をターゲットの一つに定めて作品を創っていたのは事実なようです。ビジネスの世界では女性客を掴めば勝ち組という雰囲気の昨今、狙ってそれをやってのけたのだから、上述の指標では「創り手」としてとても凄い人です。

 このように、「創り手」を評価する際の指標とした「ターゲットとした層を楽しませる作品を送り出せる能力の高さ」、すなわちターゲティング能力の高さとは、もう少し換言すると「狙ってそれをやれるのかどうか」という指標です。上の方で書いた、狙ってないんだけど荒唐無稽になっちゃって、だけど結果として荒唐無稽好きにウケちゃった作品を創り出した創り手は、この観点からは残念ながらイマイチな創り手です。

 これは創作の創り手の話だけに限りませんが、一般的に一流の人、本物の人というのは、自分がどうして成功したのかを自分で説明できて、また、それを再現できます。何故そういうことができるのかというと、それは意識的に膨大な数の検証をくり返していて、何が失敗要因で、何が成功要因かを自分の意識下に落とし込んでいるからです。

 僕も一流というわけでもないですが、コピー(文章)を書いてモノを売って生計を立てているのですが、本気でモノを売る文章を書く場合は、文章の隅々まで検証をほどこします。ヘッドコピーをこう変えると反応率は下がるのか?上がるのか?ヒドイ時は助詞を一つ変えると成約率は何%変わるのか?一流がいる世界はそういう世界です。そういうレベルで検証をくり返して実力をつけているからこそ、再現できる。そういう人が一流で、これを創作の方に写像すると、やっぱり優れた「創り手」というのは、形こそ違えど様々な形で膨大な検証をくり返して経験を積んでいて、「ターゲットとした層を楽しませる作品を送り出す」ことに関して、自分で自分がやってることを意識して説明できて、成功に関して高い再現性を持っている創り手だと思います。

 逆に、たまに一作だけある層から高い評価を受けた作品を出すんだけど、すぐに消えてしまう創り手がいますが、おそらく、そういう創り手の方は、自分がどうして一度成功したのかが自分で分かっていなかったのだと思います。自分でも何で売れてるんだか分からないけどまあいいやみたいなのはある意味ロックな感じで話としては面白いですが、ちょっと師事したり創り手を評価してファンになったりしたいとは個人的には思いません。なので、残念ながら、そういう人は上であげた指標では一度ヒットした「作品」はともかく、「創り手」としてはイマイチだったということになります。

 さて、そういった観点を掘り下げてきた所で、待ちに待った(笑)テニプリの許斐先生の「創り手」としての評価ですが、これは、ここまであげてきた指標からすると、文句なく優れた創り手でしょう。荒唐無稽なスーパーテニス。自分でも何でこんなことになってるのか分からないという状態ではなく、許斐先生自らが意識してコントロールしてそういうのを描いているのだということが、いつかのジャンプ巻末コメントで、劇場版テニプリ(恐竜が出てきたりする荒唐無稽の極みみたいなヤツ) は少林サッカーを超えた!みたいに自分で突っ込んでた辺りから判断できます。荒唐無稽なお笑い要素は、許斐先生自身も意識していることなのです。しかもそれを適切に荒唐無稽好きのA層に届けられる能力も持っている。これは、上述の指標からすると、レベルの高い「創り手」だということです。

 他に、意識して再現できるか?という観点から今「創り手」としての評価をまさに受けようとしてるのは、ここを読んでる人達が知ってるような創り手で個人的にパっと思い浮かぶ方だと、『ひぐらしのなく頃に』の竜騎士07氏あたりでしょうか。『ひぐらしのなく頃に』という「作品」はまさにある層から絶大な支持を受けたわけですが、それを『うみねこのなく頃に』で再現できるのかどうか。まったく違うフィールド、違う層をターゲットにした作品が次作だった場合は、創り手としても「実験」の一種ですので即「創り手」の評価には繋げられないのですが、『うみねこのなく頃に』は、作品の方向としても、対象としている読者も、『ひぐらしのなく頃に』とかなり重なってる印象を受けますので(勿論ご本人の日記には『ひぐらし』とは違う新しさを出したいというようなことが書いてありますが、あくまで全体の方向としては)、意識して特定の読者層からの高評価を再現できるか。意識して『ひぐらしのなく頃に』の楽しさを創出し、その過程で検証をくり返していた本物の創り手だったらきっと再現できるでしょうし、適当にやってたらよく分からないけどなんだかヒットしちゃったというイマイチな創り手だったらきっと再現は無理ではないかと思います。

 最後に、このターゲティングや再現性という観点からすると、やっぱり赤松健先生は凄いと思います。『ラブひな』の成功を必然化して、『ネギま!』を成功させている感じがビシビシと伝わってきます。一度成功した『ラブひな』の読者層に好感を持たれる要素は研究しつくしているから、そこからまずは同じ層に『ネギま!』を投下して成功を必然として再現。しかもそこから、作品をタイムリーに創りながら検証をくり返して、支持層の拡大まではかっているという(この辺りは赤松先生の日記をかなり前の頃から読んでると感じられます。わりと、舞台裏、作品制作のマインドをオープンにしてくれてる創り手さんです)。だてに、年収2億じゃありません(笑)(昨日の『バリバリバリュー』より)。今回の記事で述べてきた指標からすると、間違いなくトップレベルに優れた「創り手」です。

 そういうわけで、「作品」と「創り手」は一緒くたに評価されがちだけど、マーケティングとかターゲティングとかの観点を持ち込むと、分けて考えた方が理解しやすい部分が出てくる。その場合「作品」の方の評価は価値観が多様化した時代に合わせて相対的で、「創り手」の方の評価は「ターゲットとした層を楽しませる作品を送り出せる能力の高さ」、そこから繋がる「成功の再現性の高さ」を指標にして考えてみると現象を把握しやすいのではないかというお話でした。前回の記事の補足として何かを受け取って頂ければ幸いです。

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