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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [DVD]  「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」もそろそろ公開という今日この頃ですが、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』では、受け手側が各々に処理して多様な二次創作やパロディが生み出されているエヴァンゲリオンと、受け手が宇宙世紀の正史の整合性などにこだわって一つの統一見解を追求するファーストガンダムとを比較する形で、ポストモダン以降のサブカルチャーの受け手のあり方が論じられています。この見解を元に、本日は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」が続編映画ではなく、再構築映画である理由を少し解体してみたいと思います。
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 今回は「ポストモダン」についての僕の考えを述べるのが主眼ではありませんので、ポストモダンがいつからなのかとか、どういう思想潮流なのかとか、そういう点にはいっさい触れないで、ファーストガンダム世代の頃(東浩紀さんの言う所のオタク第一世代)とエヴァンゲリオン世代の頃(東浩紀さんの言う所のオタク第三世代:ちなみに僕はここに該当します)とで、受け手がサブカルチャーを受信する状況がどう変わってきたのか、そして、それに合わせて送り手のあり方もどう変わってきたのかのみに焦点をあててお話します。

 できるだけかみ砕いて言うと、ファーストガンダムの頃は送り手と受け手の間で行われる物語の消費の構造が「ツリー型」であって、エヴァンゲリオンの頃は「データベース型」だったというのが東浩紀さんの考えなんですね。

 ファーストガンダムの頃は原作者である送り手側が大きい物語を用意してくれていて、そこから受け手側にツリーが伸びるように消費の構造が形成されていた。それゆえに、受け手はツリーの大本である発信側で構築されている(と想定される)虚構間の正史やメカニックのリアリティに非常にこだわることで物語を消費していった。もう少し分かりやすく言うと、富野由悠季監督が創り出したファーストガンダムの世界が確固たるものとして存在していて、受け手はわりと一方方向でそれを受けとる形で物語を消費していたという感じでしょうか。それゆえに、送りもとの世界は確固たるものじゃないと満足できないので、整合性やリアリティに照らし合わせても遜色のなく、受けて側としては統一的見解として持てる世界をツリーの大本である富野ガンダム世界には求めていたと。

 一方でエヴァンゲリオンの頃になると、物語の消費の構造はデータベース化した。つまり、エヴァンゲリオンという原作者側の作品はあくまでデータベースで、受け手はそこに勝手にアクセスして、自分なりの楽しみ方で楽しむようになっていったという話ですね。エヴァンゲリオンの同人誌やパロディが氾濫しましたが、原作エヴァンゲリオンというデータベースに消費者が勝手にアクセスして、自分なりの楽しみ方で自分の想像・妄想を具現化したものが、それら同人誌やパロディだと。データベースから情報を取り出してきてるだけですから、もうなんでもありなんですね。原作では特にアスカとカヲルが絡むシーンはありませんが、原作といってもあくまでデータベースなので、そこにアクセスしてそこからアスカというキャラとカヲルというキャラを消費者が取り出してきて、勝手にカップリングしてアスカヲ同人誌を創って楽しんでもいいと、そんな感じの消費構造だというわけです。

 同人誌の有無だけを根拠にそういった消費構造の違いを考えていくと、もしファーストガンダムの頃にもアムロ×キシリアカプ同人誌みたいな勝手にアクセスして楽しんでます的な同人誌が創られていたら反駁されてしまうんですが、その辺りはファーストガンダム時代の二次創作世界というのは昔過ぎてアンテナを張れないので僕には検証がおっくうです(タイムリーに現役だったとかで詳しい人いらっしゃいましたらコメント欄にレポートでも書いていって下さい(^^;)。ただ、東浩紀さんは、この消費構造の違いを裏付ける証拠として、もう少し説得力のある形で、創り手の方のあり方の違いを指摘されています。

 ファーストガンダムの方は放映後どんどんと続編が創られていって(Zとか、逆襲のシャアとかですね)、それらが一つの作中の正史の中に収まるかのように、一つの大きい物語を形成するかのように展開していったのに対して、エヴァンゲリオンの方は続編はまったく創られなく、代わりに原作元のガイナックスがやってるのは、エヴァンゲリオン麻雀だとか、綾波育成ゲームだとかの、オフィシャルな二次創作とでも言える商品の展開だと。そこに、ツリーの大本として続編という大きい物語を創る方向にいったファーストガンダム時代の創り手のあり方と、エヴァンゲリオンは単なるデータベースで、そこにアクセスして生まれる物語は受け手ごとに多様でいい、原作者サイドすらそれにのっかって一つの二次創作を創っちゃうよというエヴァンゲリオン時代の作り手のあり方との違いが見いだせるとしているわけですね。

 他にも、エヴァンゲリオンの方は創られた劇場版が、ガンダムの方と違って正史としての連続感が薄く、別ヴァージョンの世界として語り直す感じで創られている点、エヴァンゲリオンの方は原作最終回の方に、まったく別の世界を歩んだキャラ達のイメージが挿入されていて(学生綾波とかのシーンですね)もとからそういった二次創作やパロディに原作者としても開かれた態度を示していた点……などを違いとしてあげています。

 東浩紀さんは、この『動物化するポストモダン』の中で、これからもデータベース型の消費構造は続いていくだろうということを予見しているわけですが、これ、その予見がもろに当たってブレイクした作品が『ひぐらしのなく頃に』ですよね。最終話、「祭囃し編」の裏エンディングで、原作者の竜騎士07氏自ら多様な二次創作を推奨するようなことを言っており、竜騎士07氏自身がファンディスク『礼』収録の「昼壊し編」のような世界観(データベース)だけひぐらしのなく頃にを使った二次創作的な作品を発表していると。まさに、『ひぐらしのなく頃に』というデータベースに対して、消費者(原作者含む)がアクセスしてそれぞれなりに多様な楽しみ方をすることで消費されていく物語を体現したのがひぐらしのなく頃にのような気がします。これ、『動物化するポストモダン』は2001年の本なのでひぐらしブーム以前に書かれた本なのですが、予見が適切だった点ですごいです。ちなみにひぐらし以降に書かれた東浩紀さんの評論は読んだことが無いので、何か、今回のお話に関連するような形でひぐらしに関しても書いている評論がその後出されているという情報をお持ちの方いらっしゃいましたらコメント欄ででも教えてくれたら嬉しいです。とても興味があります。

 少し余談ですが、中韓と日本が歴史問題で相成れないのは、反日教育のせいも勿論あるんですが、この、一般人が消費構造として歴史をツリー型で捉えているか、データベース型で捉えているかの違いもある気がするなぁ。中韓の多くの人にとっては歴史はツリーの大本の「大きな物語」なので、自分達なりに(それこそファーストガンダム時代のオタク達が宇宙世紀の整合性にこだわったように)整合した完璧なものでなくてはならない、だから譲れない。解釈の違い云々ではなく、自分達が正しいという気持ちが強い。一方で、今の日本の一般人はむしろ歴史をデータベースとして捉えていて、受け手が適宜アクセスして自分なりの解釈を取り出す形で消費していく側面が強い。だから、新撰組のボーイズラブ二次創作(笑)とかがコミケで溢れていたとしても、わりと許容してしまう。ゆえに、わりと譲りがち、みたいな。この説、中韓の歴史二次創作に詳しい方なんかいらっしゃいましたらそれもコメント欄にて教えて下さったら嬉しいです(反日ドラマが高視聴率とか、そういう現象は知っていますので、そういうのじゃなくて、中国史、韓国史を題材にした(それこそボーイズラブものとか)二次創作について)。この説が正しければ、中韓では歴史上の有名人物がボーイズラブしてるような二次創作には日本人よりも拒否反応を示す人が多いというデータが取れるはずなんですが。

 さて、歴史問題の話は完全に余談でしたが、いよいよ記事タイトルにつけた「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の話です。これは、上述したようにデータベース的作品の消費構造の世の中がいまだ続いているとしたら、東浩紀氏がその代表にあげるエヴァンゲリオンですので、やはり、原作者による新たな二次創作の一種という捉え方で、それほど問題はないものと思われます。その証左となるように、今回もやはり続編ではなくて、(まだ公開されてないので分かりませんが)ある種TV版のif的に、TVシリーズを再構築したものが今回の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」のようです。エヴァンゲリオンというデータベースにアクセスして創られた無数の同人誌、制作元自らがアクセスして創った旧劇場版、その他のエヴァ麻雀や綾波育成ゲームと、規模はともかく位置づけとしては同列の存在が、今回の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」なのではないかということです。この辺りは『ガンダムSEEDシリーズ』が正史として続編のDESTINYを創って、続く劇場版もちゃんとした続編っぽい雰囲気なのとは対照的ですね。SEEDシリーズは番外編のスターゲイザーもSEED正史との整合性ができるだけとれるように配慮されていた感じですし、この辺りはファーストガンダムのツリー型消費作品の系譜をまだ守り続けているということなのかもしれません。同じ劇場版でも、東浩紀さんが指摘していた形でガンダムとエヴァとの違いにそのまま当てはまるように位置づけが異なるのはパズルのピースがピタリとハマるようで面白いですね。

 最後に、個人的には同人誌とパロディからなる消費構造の代表と位置づけられたエヴァンゲリオンの、やはり同じくパロディと捉えられる「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の主題歌を、既に19歳にしてそういったパロディ的世界の消費構造に気付いていたふしがあって、「Parody」という歌(アルバム『Distance』収録)を歌っていた宇多田ヒカルが歌うというのがとても面白いし、救われる気がします。データベース型、パロディ型の消費社会では、世界の全てはパロディや二次創作(東浩紀さんの本に出てくる言葉では「シミュラークル」)で回っているのか?とちょっと虚しくなってしまったりもするものですが、そういった虚無感を打破する希望が既に19歳の宇多田ヒカルが創った歌に歌われている気がします。

 これもたぶんParody きっと他人には fake story
 自分の靴しか履けない それで歩けるんだからいい
 I Know よくある話 でも自分には real story
  宇多田ヒカル「Parody」より


 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」、Parodyだけどreal storyとして視聴者の胸に届くのか、楽しみに待ちたいと思います。

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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