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 渡部昇一の『知的生活の方法』というベストセラーになった本があるんですが、大学生の時にその本を読んで、本に書いてあった「知的生活」というものに非常に強い憧れを抱いたものです。
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 さて、「知的生活」とはどんな生活なのかと、ちょっと表紙に書いてある文章を要約しますと、「頭の回転を活発にし、オリジナルな発想を楽しむ」生活で、「日常の騒がしさの中で、自分の時間を作り、データを整理し、それをオリジナルな発想に結びつけていく」生活……ということだそうです。もう少し具体的なイメージで考えるなら、自分の書斎を持って、日常の喧騒からは離れた思索の時間を持ち、そしてそうした時間で得た様々をオリジナルな発想にまとめあげたものを発表することで糧を得られるような生活……という感じでしょうか。さらにさらに具体的なイメージで一言で言っちゃうなら、筆者の渡部昇一さんのような文系の教授職のようなアカデミックポストについている生活か、はたまた榛野なな恵さんの名作漫画、『Papa tole me』に出てくる的場信吉パパのような、作家生活を実現している生活、というところでしょうか。

 大学生時代、僕はこういった生活に非常に憧れを持っていまして、どうしたらそれを実現できるのか?という視点から、実際にそれを実現している著名人の本を読みあさり、僕の大学時代の恩師をはじめ、実際に大学の先生のもとを訪れては話を聞いて回ったりしていました。

 有名な鷲田小彌太さんの『大学教授になる方法』も読みましたし、似たような感じで「本が読める生活がしたい」という動機で若い頃に生き方を模索したという三田誠広の若い頃のエピソードが読める本も沢山読みました。これもある意味知的生活か?という感じでドストエフスキーの『地下生活者の手記』も読みましたし、読んだ本に関してはエトセトラ、エトセトラ、です。

 一方で、大学の先生に直接聞いた所、どうやら今の日本でアカデミックポストに就くには留学しての博士号取得が必須らしい、というような知識も得ましたし、実際にタイムリーにそういったアカデミックポストを目指して異国の地で教師職をやってる若い人にも会って話を聞こうと、日本語教育の実施研修という形で中欧の方まで一月ほど赴いたこともあります。

 しかし、分かったことは、鷲田小彌太さんの『大学教授になる方法』は、ある程度できる学生は国内で博士(あるいは当時は修士でも)まで進めばかなり広くアカデミックポストの受け入れ先があった旧時代に書かれた本で、とても独立行政法人化の波が迫ってきていた僕の大学時代には通用しない方法になっていましたし、三田誠広が作家生活に入れたケースは、結局の所処女作が新人賞を突破した、『僕って何?』が芥川賞を受賞した……といった、第三者的立場からのジャッジメントを抜けることができた、自分のコントロール下以上の「何か」が必要なケースだということが分かりましたし、『地下生活者の手記』の主人公に関しては、知的生活っていうか、現代の引きこもりニートの先駆けだということが分かっただけでした(笑)。

 大学時代の恩師のアメリカで博士号を取れというアドバイスは一番ためになりましたが、アメリカで博士号を取った恩師自身も、現在はさまざまなしがらみの中でアカデミックポストをやってることも同時に知りました。中欧まで行って話を聞いてきた先輩達も、喧騒を逃れて思索と創造にふける毎日というよりは、明日の我が身も分からない不安に耐えず悩まされていることを知りました。中々に、知的生活を実現する環境に身を置くということは、当時の僕に取っては実現が難しい夢だったのです。

 また、僕と同じように知的生活の実現を目標に添えていた級友たちもおりました。当時、とにかく本が読める生活がしたいと言って一度は担当教官に研究職を目指したい旨を伝えたKくん。自分専用の書斎を持って、知的に暮らしたいと折に触れて語ってくれたMくん。そして、教育学の分野でモノになりたいと、実際に博士課程に進んだB、などです。

 しかし、Kくんは担当教官から研究職の厳しさ、その道を歩む上で必要になる覚悟を聞かされ、文学の研究職志願から派生的に文学をはじめとする国語系の教育関係に移動していくうちに、最終的には国語教師になって今では現役で高校生を教えています。その道を選んだことに悔いは無さそうですが、就職後一度会った時に「本を読む時間が取れないのが困る」と言っていたので、当時大学生だった僕らが目指した知的生活とは、少し離れた場所で暮らしているようです。Mくんは早々に就職組に切り替えて、今ではガス会社で働いています。忙しい、俺は社会の歯車になってしまったから、もうおまえがボケても俺はつっこめない……という名言を久しぶりに会った時に語っていたあたり、どうもこちらも知的生活は送れていないようです。最後に博士課程に進んだBですが、未だに在学中で、話を聞く限りでは図書館に籠もって研究だ、論文書きだ……と、知的生活の片鱗を謳歌してはいるようですが、やはり将来への不安は尽きないようです。ストレートなアカデミックポストというものがそもそもスポーツで成功するとか、芸能の世界で成功するとかと同レベルに狭き門なだけに、自分がその門をくぐれるのか?という不安はどうしても切り離せないようです。アカデミックな道を諦めて、公務員試験を受けることも考えている……なんてチラリと話していた辺りからも、その不安が色濃いことが伺えます。

 そして、僕はというと、結局アメリカの大学で博士号を取れ、という大学時代の恩師のアドバイスに従う形で、まずは僕のやりたかった認知科学系の言語学でアメリカの大学との繋がりが強い、別の大学院の修士課程に進学したわけですが、進学初年度に最初の学会発表を控え、そこから奨学金を、留学への道を……というのを考えはじめていた頃に母親が倒れ、後は昔からここを読んでる方はご存じな感じの、介護と仕事と、(ギリギリ卒業するまでは)学業を……といった生活に入ることになり、結局、僕も大学時代に理想に描いた知的生活とはかけ離れた所に流れていくことになりました。

 

 それから3年経った今、あの時代に「知的生活」を夢見た級友達の中では、僕が一番夢見た「知的生活」を実現してる生活を送っているような気がします。それもひとえに、僕らが「知的生活」を目指しても現実の壁に阻まれて諦めるしかなかった僕らの大学時代から数年たって、そんな「現実の壁」を打ち破るインターネットという存在がさらに存在感を増して、そして、3年間、僕はそのインターネットという技術を極めることに邁進し続けたから、だと思います。

 記事タイトル、「知的生活の方法2.0」です。いや、2.0はミクシィとかユーチューブ的な2.0ではなくて、単純にインターネット時代の「知的生活の方法」みたいな意味でつけてみただけですけど。

 「知的生活」の定義をもう一度振り返ってみると、「頭の回転を活発にし、オリジナルな発想を楽しむ」生活で、「日常の騒がしさの中で、自分の時間を作り、データを整理し、それをオリジナルな発想に結びつけていく」生活……です。で、ぶっちゃけた話、その生活で、なんとか暮らしていけるだけのお金に結びつけばいいわけです。

 ここがインターネット時代の恐ろしい所で、今までは教授から推薦を受けるとか、学位論文が査読会に認められる、とか、あるいは作家だったら作品が何とか賞を受賞する……とか、何らかの権威者による第三者的なジャッジメントを通過した末でしかアカデミックポスト、知的生活の門というものは開けなかったのですが、インターネット時代では、自分でお客さんを集めて、直接お客さんのジャッジメントに自分の知的生活を委ねることができるのです。自分の実力云々よりも、ジャッジ側の主観に委ねられることがほとんどな権威者のジャッジメントは必要ありません。直接、お客さんにジャッジしてもらって、少額でもお金を払っていいと思って頂ければ、もう、そこで知的生活への門は開けてしまうのです。ぶっちゃけ、(これは教育関係の博士課程に進んだBのことですが)有名国立大学の博士課程で博士号を取れるだけの能力があるヤツなら、インターネットで直接お客さんのジャッジを仰いでも、まず合格のジャッジを出して貰えます。本人があくまで「●●大学助手」みたいな権威的肩書きにこだわる場合は別ですが、今度Bに会った時は、僕はそのことを伝えてあげようと思っています。僕も一つ主婦の方がやっている幼児教育のメルマガを取っていますが、その方はそのメルマガを中心にがっちり生計を立てられるほど稼いでいます。相当に部が悪い条件で、出版社に自分の学位論文を出版してもらうことも特にないのです。メールマガジンなりサイトなりで身につけた自分の知識・知恵をそれを必要としてる人達に届けて、広告収入であったり、あるいは直接自分が書いた書籍を(イーブックでもいいですし、最近は簡単な製本業務を安く受けてくれる業者も増えてきました)適性価格で販売してもいいわけです。それだけで、知的生活は実現できるところまでここ数年で時代は変遷しました。正直な所、アカデミックな観点からも、博士論文を大学に眠らせていたり、悪い条件でギリギリ出版してもらうよりは、英語で書いてWEB上にあげておいた方が、沢山の人に読まれるし、その分野での道が開けることも多いと思います。

 最後にそういった知的生活の集大成の発表の場ですが、上述したWEB上の他には、まあ、従来型の視点からは「論壇」ということになるんでしょうが、もう、コミケでいいんじゃないでしょうか。学術系、論文系のスペースもアリますし。

 基本的に、僕の価値観として、アカデミックは在野がカッコいいというのがあります。

 学生時代、言語的観点からの源氏物語の授業があって、担当教授(その道ではそれなりの権威)が、ある学生の発表に関して、「君の発表した内容は学会のエラい先生もまだまったく指摘していない事柄だ、そういうのがポンポン出てきていいのが大学の発表の授業なんだ」ということを仰っていたことがありますが、スピリットとしてはそんな感じで、論壇の主流とは外れても、分かる人には価値が分かる的なアカデミックな発見で満たされた論文が、そこはかとなくコミケに埋まってる……とか、シチェーションとしてすごく燃える気がします。ある時、権威系の学会誌に源氏物語の新視点の論文が載るんですが、それを読んだアカデミックなオタクが、「ああ、それ、その視点で書かれた論文、三年前に俺コミケで読んでたよ。同人誌で」みたいな。ヤバイ、熱いわ、これ。論文の表紙が無駄に萌えキャラ、みたいな。

 ダメだ、今日の話も読む人が読んだらすげータメになる系だと思うのに、最後に萌え表紙の論文とか言い出しちゃったことで、台無しだ

 まあ、単純に権威を求めない知的生活なら、確実に門戸が広がった時代だと思うという話です。上述したBがそういう生活を実現するには、専門の知識+、ネットやマーケティングの知識・能力が必要になりますが、もともと学習好きな人なら自分で覚えてもいいですし、僕みたいな、その道の知識提供をなりわいとしてる個人を安く雇ってもいいんですし。わりと、マジで門戸は広がってると思うのでした。

知的生活の方法 (講談社現代新書 436)

新 大学教授になる方法

大学教授になる方法

大学教授になる方法〈実践篇〉 (PHP文庫)