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 アンソニー・ロビンズの本の書評でも触れた、「公正な見方」などというものはどこにもなく、人間は生得的に主観という名の色眼鏡(バイアス/フィルター)を通してしか物事を知覚できないという観点から見た、ガンダムSEED DESTINY・ガンダムOO・無限のリヴァイアスといった作品の視点論。
 注:記事中には上記作品の結末(現行放映話数)までのネタバレを含みます。
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 人間の持つ主観・自我という名の色眼鏡(バイアス/フィルター)に関する前提知識を読みたい方は、アンソニー・ロビンズの本の書評でだいぶ触れているんで、この記事を読む前にそちらを参照しておいていただけるとありがたいです。

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 最近覚えた語彙であるミステリにおける「叙述トリック」というのが、まさに読者にこのある色眼鏡(バイアス・フィルター)を意図的にかけてしまって、その眼鏡を最後にひっくり返して、アレ、今まで見えていた風景が逆転してる!これはビックリだ!という倒錯感で楽しんで貰うための仕掛けだと思うんですが、逆から言えば、人間は自分のかけてる色眼鏡と作中の視点が一致していることに快感を覚える特性がある生き物だということが言えると思います。快感であるがゆえに、作中の視点キャラである登場人物A(主人公の場合が多い)がかけている色眼鏡から見えている作中の世界の風景が、読者である自分と一致しているという前提を抱きやすい。これが、作中での視点キャラの考え、感情などの内面的な要因のケースで、そのキャラの色眼鏡と読者の色眼鏡が一致した場合、いわゆる「キャラに感情移入している」状態になります。

 さて『ガンダムSEED DESTINY』ですが、この作品はこのブログの感想記事でくり返し書いてきたように、

 シン−アスラン−キラ

 という三視点、三軸構造を持った物語なわけですが(スペシャルエディション発表時にニュータイプに載った福田監督のインタビュー記事から、作り手の意図としてもそうあったのは明らか)、その事実を今回の色眼鏡の話と結びつけると、『ガンダムSEED DESTINY』は、ミネルバサイド(シン・議長)という赤色眼鏡と、アークエンジェルサイド(キラ・ラクス)の青色眼鏡という二つの色眼鏡を作中で用意して(アスランはその間で揺れ続けるという立ち位置で描かれている)、視聴者には自分のこれまで形成してきた自我・主観に基づいて、どちらの色眼鏡をかけるか選べるように意図して作られていた作品であると言えます。それゆえに、中盤のアークエンジェルの戦闘介入劇のお話なんかでは、ミネルバサイドの赤色眼鏡をかけてそちらに感情移入していた視聴者にはキラやアークエンジェルが悪く見えるし、アークエンジェルサイドの青色眼鏡をかけてそちらに感情移入していた視聴者にはシンやミネルバが悪く見えるという現象が顕著に起こされており、実際当時感想ブログを運営していたこのブログだけ見ても、コメント欄、TB欄共に、どっちの眼鏡が正しい(=つまりはそちらを選んでかけている自分の眼鏡が正しい)という主張の対立が跋扈したりしました。

 で、それだけなら既に確立されていてたくさん存在する同格の二つの正義がぶつかり合うお話だったわけですが、『ガンダムSEED DESTINY』が非常にアグレッシブでチャレンジブな作品なのは、作中の何回かの基点で、その色眼鏡をひっくり返して、どちらかの色眼鏡をかけてどっぷり見ていた視聴者の風景を反転させ、視聴者を混乱状態に移行させるというのをやっている点です。終了後のアニメ誌の両澤さん(脚本の方)のインタビューで、一つ描きたかったのは情報過多による混乱だという趣旨のことが述べられているので、『ガンダムSEED DESTINY』という作品の主眼の一つに「価値観の転覆」があったのはまず間違いないです。アークエンジェルサイドが正しいのかと思えば矛盾をつかれてシンの刃にキラが敗北すると転覆し、ミネルバサイドが正しいのかと思えばメディアにホンモノのラクスが登場してまた転覆し……と、作中で何カ所か顕著に視聴者がかけていた色眼鏡を反転させてる箇所がみられます。それゆえに、自分がかけていた色眼鏡が正しいと信じていた視聴者は作中の反転と同時に自分が否定された気になり、そこで抱いてしまった負の感情を作品そのものの批判に転化して補填しようとするなどという現象も放映当時は沢山見られました。

 しかし、グローバル化や情報化で沢山の価値観(色眼鏡)が形成されている背景をうけてなのか、最近は、主人公の色眼鏡を視聴者の色眼鏡と同化させ(=感情移入状態)、その色眼鏡から見ると憎い敵役というのをどんどんと演出していき、ついには殺さないといけないくらい憎い対象になるまで誘導して、主人公と視聴者がその敵役を成敗することでカタルシスを感じて貰う、いわゆる「勧善懲悪」モノは少なくなってる印象を受けます。

 現在放映されている『ガンダムOO』もそうです。一応の主人公として刹那・F・セイエイが設定されていますが、刹那がどんな色眼鏡をかけているかは第1クールの前半が終了しても視聴者には明かされず、むしろ主人公と視聴者の色眼鏡の同化を拒むような作りで物語が進行しています。

 代わりに採用されているのが、多様な、それこそ登場するキャラクターの数だけ色眼鏡が存在して、それぞれに見える風景・言い分があるという、いわゆる群像劇のスタイルです。『ガンダムSEED DESTINY』は群像を変遷させながらも二つのサイドに視点を分けて対立構造を形成させていましたが、『ガンダムOO』は現時点では明確な二つの対立構造すらなく、一人一人の色眼鏡を見て欲しいとでも言うような視点の分散構造を取ってる感じです。「シンの色眼鏡とその仲間VSキラの色眼鏡とその仲間」ですらなく、刹那の色眼鏡、ティエリアの色眼鏡、沙慈くんの色眼鏡……とそれぞれの色眼鏡を用意して、物語の経過と共にそれぞれの眼鏡の色を明らかにしていく感じです。そして、それらのうち、どの色眼鏡を肯定するでもなく、否定するでもない、そんな感じ。

 この感じは、同じ黒田洋介さん脚本ということを踏まえても『無限のリヴァイアス』に似ています。あの作品も極限状況における少年少女の群像劇を描いたモノですが、昴治の色眼鏡、祐希の色眼鏡、エアーズ・ブルーの色眼鏡、イクミの色眼鏡、どれも違って対立したり共闘したりしながらも、結局どれが正しいとも悪いとも答えが描かれなかった作品です(信仰に基づいて殺人を犯したファイナさんの色眼鏡でさえ、最後に昴治が「伝えたいことがある」と迎えに行く形で救いが与えられている)。『無限のリヴァイアス』は閉鎖的宇宙艦内という極限状態でのお話でしたが、その極限状態の枠組みを艦内から地球全部に広げて描いてるのが『ガンダムOO』という感じ。

 なので、『ガンダムOO』も現在は上空から俯瞰するようなマクロな目で世界を見る天上人の色眼鏡と、地に足をつけて実感としてミクロに世界を把握する地上人の色眼鏡とにキャラクターを振りまきながら進んでいますが、物語の終わりに、やっぱりこっちの色眼鏡をかけるべきだよね、という結末は描かない気がしています(二分化の対立構造が最終戦でどっちかが勝つという結末ではないという予想)。

 『ガンダムSEED DESTINY』も結局はそういう形で、最終回のバトル面での勝負としてはアークエンジェル側が勝ったけど、だからといってどっちの色眼鏡が正しかったかは分からない、考えてみてくれ、という風に終わらせてる作品なんですが、ただ、『ガンダムSEED DESTINY』には単純な色眼鏡の善し悪しを超えて、一つだけ落としどころ的なメッセージが込められています。

 ミネルバサイドの色眼鏡、アークエンジェルサイドの色眼鏡、一体どっちが正しいんだろう?と視聴者と同じように混乱状態に落とされて迷走に迷走を重ねるという作中役割を担ったアスランが、二つの眼鏡をかけたりはずしたり、ひっくり返したりひっくり返されたりした物語の末、第42話「自由と正義と」でそれでも摩耗する体を押して自分の意志で選んでインフィニットジャスティスに搭乗する場面が描かれます。

 その時のアスランにかけられるラクスの言葉が、

 「なんであれ、望む心があなたですわ」(ラクス)

 という、自分のあり方は自分で決めろの一言。

 議長は、こういう色眼鏡をかければ幸せになれるという言葉をかけたのに対して(第1クールラストのセイバー搭乗時)、ラクスは、自分がかける色眼鏡は自分で選べと、ただそう言うだけ。

 このラクスの自分が望んでかけた色眼鏡が、結局はあなたの色眼鏡なんだという価値観(色眼鏡)が一視聴者の僕の色眼鏡と非常に合致するので、このシーンはこの色眼鏡命題の一つの解答だろうという見解でこのお話はまとめにしたいと思います。

 宇宙絶対真理に基づいて正しい色眼鏡は存在せず、それゆえに「公正な見方」も「ナチュラルな見解」も厳密には嘘。ただ、どうせ色眼鏡をかけることから逃れられないのなら、せめて知らず知らずのうちに誰かに色眼鏡をかけられてしまうんじゃなくて、自分がかける色眼鏡は自分で選びたい。という色眼鏡。

『ガンダムSEED DESTINY』の感想へ
『ガンダムOO』の感想へ

無限のリヴァイアス サウンドリニューアルBOX

機動戦士ガンダム00 (1)

→前回:第07話「報われぬ魂」 の感想へ
→次回:第08話「無差別報復」 の感想へ