ブログネタ
ガンダム00(ダブルオー) に参加中!
 ガンダムOO観賞時の、個人的なポイントメモ。
●天上人−地上人の対比構造関連
・天上(宇宙)から世界全体を俯瞰するかのようなマクロな視点を持ってるか、世界全体は見えないけど目の前のものを実感としてミクロな視点で感じるかというパラメータで分けられる天上人−地上人構造の他にも、死・戦争についてリアルに実感してるかどうかというパラメータも加わってこの対比構造は形成され、色々な状態のキャラがいて、話数が進むに従って変遷していくようになっている。
・「マクロ視点−ミクロ視点」、「死や戦争に現地での実感が無い−ある」の「天上人−地上人」対照パラメータは、そのキャラが思想・感情をアウトプットする時に、見下ろす構図で描かれるか、見上げる構図で描かれるかで判別できるように比喩的演出がなされている(例:第8話ラストの、見上げるマリナさんに見下ろす刹那、オープニングや序盤の見上げる構図が多い沙慈くんだけど、第5話で宇宙から地球を見た時は見下ろしている、ティエリアは圧倒的に見下ろす構図が多い、などなど)。
・そういう意味で、マクロ視点でかつ死や戦争に関する現地の実感のバックボーンが描かれていないという、生粋の天上人は、ティエリア、王留美、アレハンドロ・コーナーの三人くらい(フェルトとか、まだちょい役に留まってるソレスタルビーイングの面々は現段階では不明)。
・逆に、ミクロ視点でかつ死や戦争に関する現地の実感があるという生粋の地上人はセルゲイ中佐。
・一方で、ミクロ視点で地上人サイドだったんだけど、第8話までは現地の死や戦争に関する実感が無かった(薄かった)というマリナさん、沙慈くん、絹江さんというような立場のキャラもいる。
・刹那・アレルヤ・ロックオン・スメラギさんは、現在は天上人サイドに属しマクロな視点から行動してるけど、過去のバックボーンが描写として挿入されており、どうやら死や戦争に関しては実感として知ってもいるというポジション。
・そう考えると、やはり第5話「限界離脱領域」が、行動した全員が死の現地の実感を知っていて、かつマクロポジションとミクロポジションの両方から、アレルヤ、刹那、ロックオン、スメラギさん、セルゲイ中佐が協力して命を守った(死を実感として知ってるからこそ守りたかった)という、作品の落としどころ、止揚への示唆的なお話。
・マリナさんは地上人代表というよりも、地上の実感(現地の死や戦争の実感含む)を持ったまま天上に昇るという、ミクロ−マクロの止揚的な作品の落としどころ、作品内解答を担うキーパーソンのような気がしてきた。上述した解答を示唆する第5話「限界離脱領域」においての、冒頭のマリナさんの「決まっています。私にしかできないからよ」が、おそらくガンダムSEED第08話のラクスの「あなたが優しいのはあなただからでしょう?」に相当する、作品の解の台詞。ガンダムSEEDは第08話のこのラクスの台詞のカードの意味が第34話で明かされ、脱カテゴリ化・個人化という作品解が描かれるという構成を取ったけど、OOは第5話のこのマリナさんの台詞がそのカードに相当し、今は「私にしかできないから」と言いつつ何もできず、刹那からもお前は世界に何の影響もない宣言をくらってるマリナさんが、何かできるようになり、世界に影響を持つようになり、カードの意味が作中解として明かされる(意義を持つ)SEED第34話相当回がくるものと思われる。エクシアと合体して天空に昇っていくオープニング後半のシーンが、おそらくその暗示。

●その他のポイント
・スメラギさんがミッション中にお酒飲んだり水着で遊んでたりするのは、自分達がやってるミッションが背負う業を熟知してるがゆえの、「飲まなきゃやってらんない」的心境から来るもので、戦争や戦闘を軽んじてるわけではない。
・ソレスタルビーイング(天上人)の戒律に普段は従っていても、刹那、アレルヤ、ロックオンは地上人時代の過去に遭遇すると、その戒律を破って感情、「目の前」を優先する地上人的な行動を取るように描かれている。特に刹那は、過去が絡むと、アリー戦でコックピットを開けちゃったり、マリナさんに自分の素性をバラしちゃったりと、そのパラメータが極端なように設定されている。逆に、ティエリアは何があろうと天上人の戒律を厳守する存在として描かれている。だから二人は仲が悪く、第7話ラストの銃口を向け合うシーンはかなり暗示的。

●作品外の部分
・視点分散構造で群像劇の形態を取ってる作品なので、主人公に感情移入できないとかの意見は言ってもしょうがない。CBサイドが強すぎるという批判もCBサイドが主人公で、主人公は苦難・ピンチを乗り越えながら活躍するのがスタンダードであるという前提に基づいているからこそのものであるけど、この作品はその前提は当てはまらない作品。OOの場合、前述の視点分散構造より、グラハム、セルゲイ中佐らの視点から彼らが苦難・ピンチを乗り越えながらCBに抗っていく物語としても捉えられるように意図されているので(その他いかような視点からも視聴でき、ユーザー自由度が高い)、主人公なのに云々の批判は、作品構造の前提を捉え直さない限りなくならない。SEED-DESTINY時代から、皆表面的な「主人公」という言葉に惑わされすぎ。「主人公=こうでなければならない」という条件反射的マインドセット。ちなみにガンダムSEEDシリーズにはそういう無条件の前提をマインドセットしてしまって思考を「閉じて」しまうのが一番良くないというメッセージが込められており、DESTINY第42話ラストのアスランに対するラクスの語りなんかでかなり分かりやすく言語化して伝えてくれてるんだけど、そもそも思考を「閉じて」しまっている人にはそういうメッセージすら届かないという背景があり、上述の主人公前提も思考を柔軟にして三主人公制として受け入れられた人は少なかった印象を受ける。しょうがない感じで、スペシャルエディション発表時に、アニメ誌などに監督自らの解説が掲載。残念な感じ。OOの群像劇構造も、そういうものだと理解できるかどうかには同じ問題を抱えている。
・SEEDシリーズ時代には作品内で政治を軽視してるから駄作(もちろん実際はエンタメ優先判断で描写量を押さえてるだけ)と言ってた同じ視聴者が、OOでは小難しい政治の話をするから駄作というような批判をあげているというダブルスタンダード。同じように、SEEDシリーズのバトル描写にこんな派手な戦闘はリアリティがないと批判していた視聴者が、OOでは戦闘に派手さが足りなくて面白くないと批判を上げているというダブルスタンダード。SEEDシリーズ時代はキャラクターや世界の背景に関して説明不足(実際は暗喩表現などでかなり説明されている)と批判していた視聴者が、OOでは説明台詞が多すぎと批判しているといったダブルスタンダード、などが存在する。
・『魁クロマティ高校』で、そういったユーザーのダブルスタンダードを皮肉りながらコメディ化した林田くんのお話があったのを思いだした。

→DVD


機動戦士ガンダム00 (1)
機動戦士ガンダムOO 2

→前回:第08話「無差別報復」の感想へ
→前回:色眼鏡から見た作品譚/ガンダムSEED DESTINY・ガンダムOO・無限のリヴァイアスへ
→次回:第09話「大国の威信」の感想へ
機動戦士ガンダムOO(ダブルオー)感想のインデックスへ