
まずは、2004年に講談社ノベルスで読んだときの感想の再掲をば。
--------------------------------------
章題でもある「俯瞰風景」という概念をみっちりと一章全部に絡めているのがステキ。で、もう一方で「自殺」に関する考察というもう一つの軸があるんだけど、これら二つがラストの橙子さんの台詞の一文でがっしりと手を繋ぐ感じがまったくもって最高。
自殺するような思想をぶった切ってる側面もある一編です。
人間の知覚には地図を上から見つめるような知覚(本編でいう俯瞰の知覚)と、身の回りの小さな現実を見つめる知覚(本編でいう箱の中の知覚)の二つがあるんだけど、
「肥大した精神ほどより高みを目指すだろう。だが、それでも自らの箱を離脱することはない。人は箱の中で生活するものだし、箱の中でしか生活できないものだ。神さまの視点を持ってはいけない。その一線をこえると、ああいった怪物になる。幻視(ヒュプノス)が現死(タナトス)に変わり、どちらがどちらなのか曖昧になって、結果判別がつかなくなる」
の橙子さんの台詞から、俯瞰の知覚の方を自我肥大のメタファーとして使っているんだと思います。度を過ぎた(箱の中から離脱するほどの)俯瞰の知覚を持ってしまう、すなわち自分が神様の視点を持ってるかのごとく自我肥大してしまうと、うっかりタナトスに魅入られてしまうことがある。なんとなくですが、言ってることは分かります。
されど、基本的には自殺するのは分相応をわきまえられなかった自我肥大人間と捉えられているので、あくまで自殺者には冷たい感じで結ばれてるのがイカす。このあたり、自殺するなんてかわいそうと、自殺者に同情を一途に向ける人も世にはいそうですが、奈須氏は最近の「D D D JtheE」なんかを読んでも、弱者に対してちょっとばかしキツいような解答を叩きつけてぶった切るのが好みのようです。
正直、余り興味はなかったからだ。
から始まる、ラストの自殺者に対してひたすらどうでも良さそうな橙子さんの態度がゾクゾクものです。
ラストの一文、
「自殺に理由はない。たんに、今日は飛べなかっただけだろう」
あー、最高。一般人に言ったら暴力的だと捉えられそうなもんなんですが、通しでこの章を読んだ後に限り、強く頷かされる一言です。
2004年8月31日
--------------------------------------
◇
続いて文庫版で再読時の感想ですが、やっぱり『空の境界』全編に通じる特徴なんだけど、その章でテーマとして扱ってる「概念」に関して、その概念を情景描写に絡めて叙述してるというのが、こう、読み解いていく上でガンガンと脳に快感を与えてくれます。この「俯瞰風景」の章だと、キーになってる概念、「俯瞰の知覚と、小さな知覚」に関して、エレベータという箱の中(小さな知覚の暗喩)に式が入って、段々と上に上がっていって(小さな知覚から俯瞰の知覚への変遷)、辿り着いた所で目にする開けたビルの屋上(俯瞰の知覚の暗喩)では、二重存在として病院の中の知覚から俯瞰の知覚を持つ存在へと自分自身を切り離してしまった俯瞰の知覚側の最右翼の巫条霧絵が待っているとか、そういうのが凄すぎる。
あと、これ3年前に読んだ後にFateをやった今だから読み解ける要素としては、ラストの式と幹也の会話の中の自殺に関する考察において、幹也が自分が死んで皆が助かるというシチェーションだったら自分は自殺すると述べ、そして、その上でそれは英雄的だろうけど、でもそれでもその選択は「逃げ」だと結論づけてるのが、Fateを読んだ後だと感じ入る部分があります。Fateって言うのが、皆が助かるなら自分を厭わないという自己犠牲の全員救済という理想を掲げて士郎が正義の味方を目指す話で、「(アーチャーに関する凛ルートのコアなネタバレ)事実それを貫き通した結果士郎はアーチャー(エミヤ)という英雄にはなったんだけど」、それを桜ルートで転覆させるお話だからなぁ。この、自己犠牲の全員救済という理想が桜ルートで転覆するという構成が、既に『空の境界』のこの部分の自己犠牲としての自殺は「逃げ」という幹也の結論で描かれていたのかな、と。きっと、奈須きのこ氏的に持ち続けてる問題意識なんでしょうね。
→大変良かった劇場版



→次回:第二章「殺人考察(前)」の感想へ
→観てきた劇場版、第一章〜第三章の感想へ
→講談社ノベルスでの初読時の全体感想へ
→「時系列をバラバラにする手法の意義/『空の境界』、『涼宮ハルヒ』、etc..」 へ
→『空の境界』の感想インデックスへ