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 「俺は、僕は、私は」(ティエリア・アーデ)

 『機動戦士ガンダムOO(ダブルオー)』の、第10話「ガンダム鹵獲作戦」の感想です。
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 ソーマ@ティエレンタオ2VSティエリア@ヴァーチェのバトルが、どちらかというとソーマたん側に感情移入して見れて面白かった。性能、火力共に圧倒的に上回ってるヴァーチェに対して、セルゲイ中佐やら地味に仲間意識があるらしい一般兵やらとの仲間パワーで頑張るヤンデレ(第05話)少女ソーマという構図。萌える燃える。

 されど、ギャグっぽくコメント欄では予想されてたヴァーチェキャストオフ説が現実化して、ヴァーチェの中の人、ことガンダムナドレなるMSが登場して逆転負け。ソーマたん惜しかった。

 一方で、ナドレを披露するまでに追い込まれたティエリアはショックを受けている様子。

 「俺は、僕は、私は」(ティエリア・アーデ)

 という謎の一人称変遷を披露。パっと思いつく予想としては、一人称の呼び方ごとにアイデンティティがあるとかかな。アレルヤとハレルヤの二重人格まではいかなくとも、ティエリアもそういう側面を持ってる、みたいな。それで、表面を覆ってるヴァーチェが今回ナドレという中身をさらしたのとシンクロさせて、普段は表面的に「俺」と振る舞ってるティエリア・アーデの他に、中身的な「私」という一人称の●●(ティエリアの本名が入る)も存在する、みたいな。

 ヴェーダから外れたことにエラくショックを受けてティエリアはそうなっちゃった感じなんですが、ヴェーダはエヴァにおける死海文書というか、ある未来の完成形が確定事項的に綴られているものっぽい。スーパー予測教典みたいな感じで。なので、たぶん予測をなりわいとするスメラギさんがこのお話には深く関わってくる予感。天上から地上を見下ろすような神の視点の是非が物語冒頭からキーになってる作品ですが、そういう意味ではヴェーダは究極的に神的な存在なので、そのままその是非を問うのが物語の推進剤になりそう。もちろん、散々描かれてきた地上人的な対神思想がヴェーダを打倒する勢力として描かれるの前提で。その辺りの、この作品のメイン構造である天上人(神側)−地上人(人間側)対照の部分(前者は俯瞰し、後者は実感する)では、アレハンドロ・コーナーが、

 「私は監視者であって実行者ではないよ。私にできることは彼らを見つめ続けるのみ。例えそれが滅びの道だとしても」(アレハンドロ・コーナー)

 と、ラストに俯瞰して見てはいるけど現地で人が死んでも自分は何もしないよ的な天上人最右翼な発言をしていたので、作品の落としどころと思われる、天上人だろうが何だろうが目の前で消えゆく命を放っておけなくて「関わ」ったという第5話のカウンターと捉えられて、こいつが思想面でのラスボスになるのかもとちょっと思った。滅びの道を行こうがなんだろうが上から見てるだけの監視者という名の傍観者であるアレハンドロに対して、上から見ていても人が死にかけていたら助けに行って当事者になるアレルヤ達みたいな構図で。

 あとは、ソーマたんとアレルヤの関係はオマージュ的な意味合いで実にガンダムっぽいと思った。何らかの人工的な存在である少女の悲哀と、解り合えるのかもしれないのに、敵対して戦うしかない主人公の悲しさ、みたいな。カミーユとフォウ、シンとステラ的な方向。そういう意味では、第5話で一番早く掘り下げられたしで、アレルヤは群像劇のOOの中でもかなりガンダム的な意味で主人公主人公しています。でも、カップリングではセルゲイ中佐×ソーマたんの年の差カプ推奨。

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機動戦士ガンダム00 (1)
機動戦士ガンダム00 2

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