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「ことば」とは何か? を本で学ぶ - ピアノ・ファイア
続・「ことば」とは何か? を本で学ぶ - ピアノ・ファイア

 「ことば」にまつわるピアノ・ファイアさんのエントリ。

 個人的に興味を引くエントリだったので、さらに突っ込んだ話を少々。なんで突っ込んだ話ができるかというと、僕が言語学の修士号を持っているからです。
 漫画関係の文章一つとっても、クリエイターへの批判を中心とするどうしようもない自己顕示の毒吐きや、それに同調することで何とか承認欲求を満たそうとしているかのようなネガティブなアウトプットの連鎖ばかりが引き起こされがちなネット界隈において、いずみのさんはいい文章を書いていてポジティブな連鎖をむしろ作ってる感じで、無印プリキュアの文章とか書いてた頃から好きだったんですが、この話はいずみのさんが取り組んでおられるような、漫画のみに留まらない物語全般に関する研究に関してもちょっとした知見を提出できるかもしれないと思って書いてみました。

 今回は焦点を絞って、例えば「続・「ことば」とは何か? を本で学ぶ」の方で出てくる日本語と朝鮮語は文法はとても似ているのに、語彙に共通する語源がないのは不思議な感じがするという現象に関してのみ、言語学の導入として取りあげたいと思います。

 結論から言うと、一言に言語と言っても、人間の脳の中で、文法を扱っている部分と語彙を扱ってる部分は違うので、文法と語彙をセットにして、比較文化論と関連づけて論じることはできないということ。例えば、同じ文化圏に属する集団から生まれた言語なら、似た文法&似た語彙がセットで見られるはずという認識は現実に即していないということです。実は、語彙の方は同じ文化圏に属する集団から生まれると影響し合って似た語彙が複数言語間に見られますが、文法の方はあんまりそういうのが関係なくて恣意的だというのが現実です。英語とドイツ語は文法も語彙も似てるなんて言うのはこの認識の反例に見えますが、あの二つは異なる言語というより方言同士くらいの関係なので、またちょっと話が違ってきます。

 日本語と朝鮮語のように、文化的に交流があったケースで、文法は似てるけど語彙は違うケースもあれば、英語と中国語のように、文化的に交流はなかったケースで、文法は似てるけど語彙は違うケースもあるというのが、あまり文化的な交流があったかどうかが文法に関しては似てる/似てないの大きいファクターになっていないという証左になります(先に述べたように語彙はこれに当てはまらず、文化的な交流があればどしどし相互に輸入され合って似た語彙を言語間で共有していきます。日本語に漢語が多いのや、西欧と付き合いだしてからは西欧起源の語が沢山増えたのがその証左)。この辺りは、マイナーな(と言ったら失礼ですが)ごくごく小さい部族のような共同体Aでのみ使われてる言語の文法が、文化的にまったく交流の無かった別な共同体Bでのみ使われてる言語と文法が似てるとか、そういうケースがフィールドワークの分野で多数実例として蓄積されているので、一度覗いてみると面白いかもしれません。

 さて、なんで語彙の方は同じ文化圏で交流があると相互作用して広まっていくのに、文法の方はそうでもないのか(厳密には文法の中でも影響を受ける部分と受けない部分がありますが)?その答えの一つが、先に述べた、人間の認知機能の中で、文法を扱ってる箇所と、語彙を扱ってる箇所が違うという答えです。

 文法、専門的には統語という言葉を使いますが、この部分を扱っている認知機能とは、いわば、語の配列に関する法則を扱っている部分です。

 英語なら、

 ・John hit Mary.

 日本語なら、

 ・太郎が 花子を 叩いた。

 同じ語(叩く)を述語にとっても、英語は「SVO」の順で並べなければならないという法則があるのに対して、日本語は「SOV」に並べなければならないという法則がある。こういった法則をプログラムされている所が、その言語の話者の認知機能において、文法的な機能を扱っている場所です。

 一方で、語彙の部分を扱っている認知機能とは、いわば音と意味の対応を扱っている部分です。

 英語なら、

 appleという音に、リンゴという意味を対応させている。

 日本語なら、

 ringoという音に、リンゴという意味を対応させている。

 そういうプログラムを扱っているのが、その言語の話者の認知機能いおいて、語彙/意味を扱っている場所です。

 その昔はこの文法と語彙とで認知的機能として使っている箇所が違うというのは一つの理論に過ぎませんでしたが、近年科学が発達してきて、MRIなどの脳の動きを直接目で見られる機械が使えるようになると、この理論は実際に実験を行っても、妥当性があることが証明されました。すなわち、文法にまつわる処理をしている被験者の脳を見たときに活性化している脳の箇所と、語彙にまつわる処理をしている被験者の脳を見たときに活性化している脳の箇所は、やはり違っていたのです。

 と、

 言語において文法と語彙(意味)は分けて考えられるものだというのが明らかになった所で、最初にお話した、文法の方は文化圏にあんまり影響されないのに、語彙の方は文化圏に影響されるという現象に関して、何故?と考えてみましょう。

 この辺りは脳科学的な実験が成されたというお話は僕はまだ聞いてないんですが、僕が思うに、語彙、すなわち音と意味の対応を処理する部分の方が、比較的、認知機能的に制約がゆるいので、ばしばし外界の影響を受けるからではないかと思います。

 appleの音とリンゴの意味を結びつけようが、ringoの音とリンゴの意味を結びつけようが、どうでもよくて、わりかし自由に語彙っていうのは作れちゃうんですね。いきなりtemirimaという謎の音とリンゴの意味を結びつける人工言語をあなたが作ると宣言したとして、それもアリなくらい、制約がユルイ。だからこそ、世界はリンゴというくだものを、実に多様な音で表現する自由に満ちている。

 自由というのは制約がユルイということですから、文化交流が行われた時に、じゃあ、あっちの文化ではこの意味をこの音と結びつけているみたいだから、うちの文化で結びつけてる音と合わせてみようか?こんな言語上の力学から、同じ語源から、似た語彙(音と意味の対応が似ている)というものが生まれてきます。あるいは、自分の文化圏にその意味(概念)がそもそも無かったような場合は、交流してきた文化が使ってた音を、そのまま意味にあてはめて輸入しちゃったりします(日本語における外来語の輸入など)。この辺り、語彙の方はだいぶフリー。

 所が、文法(統語)の方はそうはいかない。語彙に比べて、制約が比較的キツイです。いきなり、

 ・叩いた 太郎に 花子が。

 という語の並べ方をOKとしようとしても、人間言語の文法基盤にある「普遍」が、それを許しません。

 この辺りは、他動詞構文一つとっても、日本語的「SVO」パターンと、英語的「SOV」パターンの文法が世界の言語の多数を占めており、「OOO」とか「VSS」とか、適当には作れないという事実が、その制約のキツさを表しています。つまり、文法の方は、文化圏云々以前に、人間というくくりのレベルで、普遍と言ってもいいようなある程度の制約があるのです。だからこそ、文化圏が近いとか、そういう要因とは、あんまり関係がない。

 じゃあ、「SVO」パターンと「SOV」パターンを分ける要素は何なのか?この文法的普遍に基づきながらも、表面的に差異が見られる箇所を、生成文法と呼ばれるチョムスキーの方の言語理論では「パラメータ」と呼びますが、そこの所は実はまだよく分かっていなかったりです。ただ、少なくとも、雪によく触れるからイヌイットの言語には雪を意味する語彙が多いとか、雨に色んな意味を日本人は付加するから日本語は雨にまつわる語彙が多いとかのレベルでの、文化的な外的要因が見られる語彙とは異なり、文法の方に差異をもたらす要因はもっとおそらくは抽象的な「何か」だということです。

 この辺りは、いずみのさんも、

「そんな風に、西洋における言語との「比較言語論」から「比較文化論」へと広がっていくのですが、ちょっと気をつけないといけないのは、「言語上の比較がそのまま、文化上の比較に適用できるとはかぎらない」という論理の飛躍であって、それは『朝鮮語のすすめ』という本の中で厳しく諫められています。」

 と触れられておりますね。「文化上の比較」を「言語上の比較」に当てはめるには慎重にならなければならない。文化的要因が言語に作用するケースと、作用しないケースとがある。それが、たとえば音と意味を対応させる語彙の部分だとわりと文化的要因で論じられて、語の配列法則を扱う文法の部分だとなかなか文化的要因では論じられないと、今回僕が補足した知見はそういうことでした。

 この辺り、いずみのさんが読んでいる鈴木孝夫さんの「ことばと文化」や朝鮮語関連の本なんかは、言語学の中でも、記述言語学と言われる分野で、今回僕がしたようなお話は、理論言語学と呼ばれる分野なんですね。記述言語学の方は文化人類学に近く、とにかく、世界のどこどこにこういう言葉があって、こういう語彙があって、こういう文法がある。そして、この言語とこの言語はここが似ていて、ここが違う……みたいな感じで、文字通り言語にまつわる体系を「記述」することを目的としています。体系だったデータベースの作成が目的といった感じでしょうか。一方で理論言語学の方は、一転して理論物理学なんかと近くて、ある一つの真実に向けて、科学的なアプローチを積み重ねて、この世界の謎を解明していくという感覚が強いです。この場合、解明する謎とは、人間の認知(物理的には脳)に宿っている「言葉」とは何か?という謎ですね。宇宙とは何か?という問いを立てて神さまのパズルに挑んでいく、理論物理学者の趣がそこにはあります。

 記述言語学も面白いですが、いずみのさんは脳神経科学にもひじょうにアンテナを張っておられるようなので、理論言語学の方の本を読んでみても面白いかもしれません。いまや、脳科学と言語学はかなり密接な関係にある時代に突入しています。原典としては、生成文法ならチョムスキー、認知言語学ならレイコフです。人間の言語機能は、視覚とか、他の認知機能からは独立した演算装置だという考えの方にピンときたのならチョムスキー関連を、そうではなくて、他の認知機能とも切り離せないファジーなものだという考え方にピンときたのならレイコフ関連をあたってみると良いと思います。

 ◇

 さて、今回お話した、言語の機能に文化に影響を受けやすいユルイ部分(語彙など)と、文化の影響を受けにくいキツイ部分(文法)があるというお話は、実は、そのまま物語論にも発想法として当てはめられるのではないかというのが、最近の僕の研究アプローチです。

 つまり、物語の構成要素は、文化云々の以前に人間のレベルで心を打つある種普遍的な根底にある物語文法のようなものと、文化が違えば摂取できる感動や楽しさも違う、ある種表面的な物語語彙のようなものの、二段階に分けられるのではないかという仮説です。

 文化を超えて共通する物語の型が見られるお話(まったく文化的交流がなかった共同体Aに伝承される物語Aと、共同体Bに伝承される物語Bが似ていたりする現象)なんかも踏まえてこの辺りの話もしてみようと思ったのですが、ちょうどいずみのさんが下記の記事で、↓

マックス・リューティ『昔話の本質』メモ その1

 マックス・リューティの『昔話の本質』にまるわる物語関係の記事をアップしはじめた所なので、全部出そろった頃に、僕もマックス・リューティの『昔話の本質』を絡めて語ってみようと思います。

→「本質」と「解釈」の合本

昔話の本質と解釈