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『夢守教会』第二話「痛みの在処(アリカ)」  最近の好きな言葉は、僕の大学院時代の学部長でもあった野家啓一先生の『物語の哲学』という書籍の序文に載っているこの言葉。
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 人間は「物語る動物」あるいは「物語る欲望に取り憑かれた存在」である。

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 物語の歴史を僕的にものすごくざっと振り返ると、大昔の、口承で親から子へ、あるいは吟遊詩人達の詩によって神話や伝説が語り継がれていた物語の口承連鎖の時代から、活版印刷の発明を契機にマスメディアによる権威に裏打ちされた大きな物語の時代へ。そして、インターネットが出現した混沌とした今へ……といった感じになります。

 特筆すべきは、マスメディアによる検閲や査読を通った物語が「良い物語」として上から発信されて、それを一般人は消費者として観賞するしかなかった時代は、どうやら現在では終わりを迎えているようだということでしょうか。

 大規模にマスメディアから発信されている商業の物語よりも、ニコニコ動画で個人の職人が発信している物語を楽しみにしているユーザーは沢山いますし、また、世の中の当たり前の前提として権威から文芸性を付与された文学作品よりも、一部の女子高生にとっては帰りの電車の中で覗き読むケータイ小説の方が身近な物語である時代であるようです。

 このような時代を、僕はどちらかというと、大昔の口承で皆が勝手気ままに物語を創っては伝え合って、それでいて結構皆が楽しかった時代へと回帰した時代のような印象で捉えています。

 ようは、語り手がマスメディアの境界を突破して一度「向こう側」に入り、境界越しに権威ある物語を下層の消費者に向けて発信する……などという面倒な手続きを踏まなくても、誰でも好きな物語を考えて語り合えて、それで結構楽しい時代だということです。

 こんな時代に、物語る欲望に取り憑かれた人間という存在が、物語らないでいる理由がありません。よって、僕も欲望に忠実に物語りたいと思います。

 僕は子どもが生まれたら寝る前に毎回自分で創ったその場限りの物語を語り聞かせてやりたいとずっと思っているのですが、幸いなことに当分子どもが生まれる予定は無いので、代わりと言っては失礼ですが、今モニターの向こうにいるあなたに物語らせて頂きます。

 この物語は、WEBの片隅にずっとあります。この物語から何を感じ取っても、また感じ取ったものを隣にいる誰かに新たに物語っても、その際に細部を変えても一向に構いません。

 ようは、個人が各々に小さい物語を語りながら総体を形成している今の時代という物語の中で、僕とあなたが物語る者と物語られる者として出会った。それこそが物語的でなんだか価値があるような気がする。ただそれだけのことなのです。

 話が長くなりましたので、前置きはこのくらいにして、さっそく新しい物語を物語らせて頂きましょう。

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