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リーマン・ブラザーズ経営破綻 に参加中!
 さて、コメント欄も閉鎖する運びになって自分の中で一区切りついた感じなので、たまにはジャンルを変えて、前々から要望が多かった経済の話でも徒然と書いてみましょうか。
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 リーマン破綻以後の一連のマスメディアの報道の中で、「信用」への不安とか「信用」が崩壊するとかいった言葉が結構聞こえてくるのですが、これを聞いて、リーマンとかそういう大きい証券会社が破綻して、大きい証券会社でも「信用」できないよなーと騒いでいるんでしょ?くらいの理解にとどまっていると、わりと危ないというのがあります。仮に僕が経済学部の先生で、生徒にリーマン破綻問題に関する所感を述べよみたいな問題を出してそういう解答を提出してきた生徒がいたら、まあ、どうだろう、だいたい15点くらいでしょうか。

 間違ってはいないですし、たぶん報道しているマスメディア側の人達もかなり深い所まで掘り下げて理解して「信用」という言葉を使っている人もいれば、なんとなく上司が言えって言ったから言ってますみたいな感じでよく分からないまま「信用」っていう言葉を使ってる人もいるんじゃないかと想像するんですが、やっぱりそれだけでは不十分で、もうちょっと根源的、原理的に「信用」っていうキーワードでこの頃の金融関係の動きを追っていくには、「お金というもの自体が、そもそも信用の産物」という部分への理解が必要になってきます。

 そんなことは自分の中ではもう常識、今更……という人は大丈夫だと思いますが、そういう人に限って「分かってる」と言いつつそんな「信用」という脆い基盤に基づいた経済活動に自分や自分の大事な人の生命線を全て預けてしまっていたりするので、その辺りは一応注意をば。

 何を言っているのか意味が分からないという人は、ある時今まで信じていた全てが崩壊してエラい目に会うかもしれないので、今から多少は経済のこともコツコツ勉強しておくと後々有意義な気はします。

 で、後者の何を言っているのか意味が分からない人向けに一応説明しますと(これ結構難しいんですが)、財布から1万円札を取り出して目の前でペラペラさせてみて、フと我に返ると、アレ、なんでこの紙切れ1枚にそんなに価値があるの?と思い至るという。

 少なくとも、紙であるとか、粘土であるとか、物質的な観点から言ったら、こんな紙切れ1枚よりも、美少女フィギュアの方が(笑)遥に価値があるんじゃないか?みたいな。

 という訳で、実はその通りで、あのペラペラの紙自体に価値が宿っている訳ではありません。あのペラペラの紙一枚あれば、一万円分のモノと交換できると「信用」している人達が集まっている共同体の中においてのみ、あのペラペラの紙は一万円分の価値が存在して共有されているのです。

 という訳で、びっくりな事実かもしれませんが、共同体を形成する人達があのペラペラの紙に価値を見出さなくなったら、「信用」しなくなったら、価値はなくなります。

 物資的なお金という紙が本当にただの紙切れになってしまったことは歴史上ままあり、まあ以前メルマガでも書きましたけど、ハイパーインフレーションが起こった第二次大戦後のハンガリー(という共同体)でとか。貨幣価値が1垓3000京分の1になりましたとか、意味分からない、みたいな。

 という訳で「信用」への不安とか、「信用」の崩壊とかいうキーワードをこれからマスメディアで耳にした時、上述した部分くらいの前提があると、また違って聞こえてくると思います。

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 で、ここからが最近漠然と考えている僕個人の雑想になりますが、上記のような共同体で共有していた一定の価値が崩壊してしまうという方向に進む要因としては、時代の主流メディアがWEBになったというのがわりと大きいんじゃないかとよく考えます。

 本当は活版印刷機の登場からこの話はやった方がいいのですが、面倒なのでテレビ時代からの話にしますと、一昔前の、テレビがチャンネル数も少なく、共同体の「みんな」が同じメディアを見ていたという頃は(視聴率も今とは比べモノにならないくらい高かったですよね)、そのみんなが見ている権威メディアを通して、共同体のみんなに共通した「価値」を刷り込みやすかったと思われるのです。権威メディアで報道できる側にいった人が、この価値を共有しましょうと報道すれば、トップダウン式に共同体のみんなに価値が共有されやすかった社会。

 1億人が見ている(これは大げさですが)権威メディアに登場する有名アイドルはただの女性の1億倍の価値があり、みんなが同じものを見ているがゆえに、その価値が共同体に共有されやすかった時代。そこで、この有名アイドルのCDは1000円札1枚と交換できますというアナウンスがあれば、まあ、みんな「そうか!」と思ったんじゃないかと思います。モノ(有名アイドルのCD)と紙切れ(紙切れとしての千円札)が、共同体の中で「交換可能」という認識が共有され、1000円の「価値」が生まれた瞬間ですね。

 ところが時代は変わり主要メディアがWEBになってしまったので、今では「みんな」が同じメディアを見ているということはありません。かつて「みんな」でテレビを視ていた時間は、2ちゃんねるを見てる人、個人のブログを見てる人、mixiやってる人、etc...という感じで、人それぞれ別なモノをみている時間にかなりの程度とって変わられてしまいました。

 そんな中では何しろ見ているモノが共同体で共有されていませんので、頑張って権威メディア(であり続けようと頑張っている)テレビなんかが、このアイドルはみんなで共有されるべきすごいアイドルです、彼女のCDは1000円札1枚と交換できます、と一生懸命アナウンスしても、既に他のものを見ている人達からすると、いや、僕にとってはそんな価値はない。僕の場合、今ハマっているネットアイドルのこのヒトのCDになら1000円札10枚と交換してもいい、とか、もう、そんなテレビでアナウンスされてるアイドルよりも、mixiのマイミクのAさんとコメント欄で語り合ってる方が100倍満たされるわ、とか、そういうことが起こりやすくなってきているのです。

 超単純にまとめると、

 テレビしかなかった時代→価値を「みんな」で共有しやすかった

 WEBの時代→価値は「人それぞれ」になりやすい

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 余談ですが、ジャンプで大場つぐみ・小畑健で最近はじまった「バクマン。」は、こういった漫画雑誌という一昔前の権威メディアを復権させようという意図がある漫画なのか(やっぱり雑紙連載に辿り着いた人達はもの凄い人達なんだから、そういう人の漫画を価値あるものとして「みんな」で共有しよう。「ジャンプの漫画はすごい」を「みんな」で共有しようという方向)、それとも送り手ももはや時代は移り変わったことを自覚していて、一種のアイロニーとして雑紙連載を憧憬する少年二人をわざと滑稽に描いているのか、微妙に判断に迷う所。前者だったら集英社やばい。後者で、既に時代に合わせた次の代案、企画、これからの出版社のあり方が見えているのだとしたら、集英社すごい。

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 閑話休題。

 で、ようやく金融関係の「信用」の話に戻すと、上記のアイドルの話の例と同じく、WEB中心に時代の主要メディアが移行して、人それぞれ見ているものが違ってきている時代なので、紙切れ自体に見出す価値も、「みんなで共有」から、「人それぞれ」に移り変わりやすくなっているのが、「信用」の不安、「信用」の崩壊というキーワードの地下にある要因なんじゃないかななんて思う訳です。

 実際、WEBの登場で、はるか遠い国の貨幣価値を光速で観察できるようになってしまったため、共同体Aの貨幣価値に見切りをつけ、共同体Bの貨幣を買う……なんてことが簡単にできる今の社会は、貨幣価値の「人それぞれ」化が進んでいる時代な気がします。自分が信じていた一枚の紙切れ=●●と交換可能の価値という「信用」が、貨幣価値を「人それぞれ」にジャッジしている人達から、いや、そんなのは共同幻想だよ、君が信じていたその紙きれ一枚の価値は、●と交換する程度もないね、なんて言われてしまう社会。こわいですねー。

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 さて、じゃあ「信用」に基づく「価値」が人それぞれになりつつあるかもしれないこれからの時代、僕らは何を指針にして何を「信用」し、何に「価値」を見出していけばいいのか。

 長くなってきたのでこれくらいで。この話、好評なようだったら続きますー。

◇好評だったので続きました。→信用の崩壊って・その2へ