しんみりしたことを語っております。
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 今月の26日っていうのが、母親が倒れてからちょうど4年目の日なんですが、毎年この頃になると、色々考えてしんみりしてしまう。

 あの日から色々あって、大変なことも沢山あったのだけれど、それでも今、自分がいる場所がどうかと言えば、これで良かったと言える。

 明確に信仰している宗教は無いのだけれど、それでも割と神様的な存在とか、尊敬する日本一の投資家の竹田和平さんが語る所の「天意」のようなものは信じている、というかちょっとそういう「何か」はあるよなと思っているのだけど、そういう観点からいくと、僕は既に天意のようなものから十分なものを受け取っていると実感する。

 四年前、お医者様からまず助からないと告げられ母親が眠り続けていた時、夜、病院の外で僕は全てを差し出すので、母を助けてくれと神様に祈った。

 具体的にも、どんな状態になっても僕が介護をするので、助ける方向で進めてくれとお医者様に告げた(余談だけど、この時の母親を担当して下さった脳外科医の先生は、本物中の本物の先生だった。彼に担当して頂けたのを僕は未だに人生で一度起こるかどうかの巡り合わせだと思っており、天意には既に感謝しきっている)。積み重ねた5年間を捨て、この時点では何のあてもなかったけど、助けると、寝たきりかもしれないし、意識すら戻らないかも知れないけれど、僕が引き受ける、経済的にもなんとかしてみせると決断した。

 そうして4年経った現在、母は勿論歩けないし、言葉もあんまり上手く出てこないし、一人でトイレにも行けないし、着替えもできないし、お風呂にも入れないけれど、それでも車いすで移動し、日常会話くらいならわりと普通にコミュニケーションできるくらいまで回復し、理解の方はもっと優秀で、テレビを視て結構楽しんだりしている。

 夜はトイレ介助のために母のベッドの脇に寝ているけれど、時々生きているか確認するために(今でも時々不安になるのです)寝息に耳をすませ、生きているのを確認すると、なんて素晴らしいことなんだと実感する。

 なので、僕としては神様的な存在から、生まれて生きてきた意味を実感する一瞬のようなものは、もう経験させてもらっているのだ。時間の経過に伴う老化が人の宿命として避けられない以上、これから介護はもっと大変になっていくだろうけど、既に4年、本当にかけがえのない4年間を貰ったので、そこはあんまり文句は言えない所だと思う。

 そういった、自分としてはもう十分なものを頂いた実感があるので、残りの人生はできる範囲で、人の手助けなんかもしていこうと思っている。

 僕はビジネスをやるし、聖人を気取る気もないので、資本主義社会に生きている以上、対価はしっかりと受け取りながらやっていくつもりだけど、この前の木坂さんのメルマガにあった通り、突き詰めれば自分ができることで他者を助け、その代わり他者にできることで対価を受け取るというのがビジネスの根本なので、資本主義云々を抜きにしてもそう悪い話ではないと思える(無償で他者を助け続けるというのは、自身が摩耗して結局最後には誰も助けられなくなるのです)。

 まあ、それでも目に映る全員を助けることはできないし、僕が考える助け方が、必ずしも相手の視点からは助けになってなかったりもするのが難しかったりもするのだけれど、少なくとも目指す方向としてはそういう方向を目指していきたい。

 エゴは消せないので他者を助けるよりも自分の快楽を優先する場合も出てくると思うけれど、それでも、この4年間で十分なものを受け取ったという実感は、できる範囲で他者にも目を向けるという精神的な豊かさを僕にくれたと思う。

 辛いこともあるけれど、最近は心の中に静かな青い炎がユラユラとしていて、そう簡単には消えず、これから何をやろうかと思うと、ローテンションながらワクワクとしてくる。

 そんな4年目から5年目に移り変わる頃のある日、ちょっと眠れなくなったので書いてみた。

 いろんな人に、感謝を。